「……」
「……」



無言。
本来ならば一番くつろげるはずの我が家でなんだってこんなに気まずい思いをしなければならないのだ。 この事態を招いたのはまぎれもなく自分なのだが…思わず出そうになる溜め息を口の中で噛み殺す。



そもそも何が一番いけなかったのかと言うと、本来ならばリラックスできるはずの空間を重い空気にしている元凶である、 隣の家に住む仁王さん家の雅治君が鍵を忘れたからだ。 私と雅治君は仲が良い、悪いの前の関係である。朝会えば、おはよう。昼間に会えば、こんにちわ。と挨拶を交わす程度の ものだ。なので雅治君について知っている事なんて全然と言って良いほどない。 中学生で立海に通ってる…らしい。この情報さえ母が仕入れてきた情報なのだ。これで、私も中学生だったりしたら少しは 話をしたりなんてあったかもしれないが、生憎と中学などとうに卒業した。それどころか高校も卒業して、今は大学生だ。

いつものように授業を終えて家に帰るために電車に揺られる、雨がさっきまで、ぽつぽつとしか降っていなかったのに 、今はザァザァと勢い良く窓を叩いている。駅から歩きなので雨脚が弱まることを祈ったが、相変わらずの雨の中を帰って 来た。傘は差していたが頭や顔以外はべちょべちょになってしまった。服が張り付いて気持ち悪い。 エレベーターの中でそういえばと思い出す、今日は朝出る時母が出かける と言ってた。鞄の中から鍵を取り出し、どちらかというと奥にある部屋を目指す。

そこで異変に気づいた、


誰かが座り込んでいる!


びっくりしたが、平静を装いつつ足を進める、その間にも変な人だったらどうしよう!と言う考えが頭の中に浮かぶ(例えば 痴漢や、泥棒、もし危ない人だったらこの傘で殴ってやろう)が、近づくにつれて誰だかわかった。雅治君だ。
顔を膝の間に埋めて眠ってるのだろうか。傘を持っていなかったのか、全身がびしょ濡れで雅治君の下だけ水溜りが出来 ている。いつもの跳ね気味の髪が水気を含んで、重そうだ。
取り合えず危ない人ではなかったので、構えていた傘を降ろす。

カツッ

「…おかえり」
「あ、た、ただいま」

まさか、あんな小さな音で起きるとは…。びっくりしてどもってしまった。
うっすらと笑みを浮かべながらさっきまで膝に埋めていた顔を上げて、 私の行動を見ている。ここまでじっと見られていると、鍵を開けるだけなのに変に緊張してしまう。左手に持っていた鍵 を鍵穴に差し込み、ドアを開ける前に聞いてみる。答えは予想出来る…と言うよりもそれしか思い浮かばない
「どうしたの?」
私が話しかけて来たのが意外だったのか、一瞬目を見開いた。たしかに話もした事無いし、驚くのも無理は無い。

「鍵を忘れたんじゃ、ついでに傘も忘れた」
やっぱり。というか答えはそれしか思い浮かばない。

「びしょびしょだもんね」
さんもじゃろ」
…名前知ってたのか

「家の人何時ごろ帰ってくるの?」
「さぁ、分からん。」
…これは家に上げてあげるべきだろうな…。たとえ親しくなくても。
びしょびしょに濡れてるし、こんな話を聞いてしまえばさらにだ。…たとえ親しくなくても。



「…うちで待っとく?」



そしてお互い無言の居心地の悪い部屋が完成した。
今、雅治君は風呂から出てきて貸してあげたジャージを着てソファに座っている。 シャワーだけでは体は冷えているだろうと思い、食器棚の中からカップを取り出す。が、肝心の中身に何を入れようか。 …こういう時はやはり本人に聞くものだろう。

「紅茶にコーヒー、カフェオレ、ココア、ホットミルク、どれがいい?」
全然好みが分からないので取り合えずあるのものを全部並べてみる。
ソファに向かって声を掛ける、返事だけ返ってくると思ったのだが何故か本人までこちらに来た。

「おすすめは?」
口の端を少し吊り上げて、また笑う。意外に人懐っこい子なのだろうか。

「うーん。私はカフェオレを飲もうかと思ってる」
「じゃあ、俺も」
まだ濡れた髪から雫が滑り落ちた。それはそのまま床に落ち、小さな水溜りが出来上がった。

「…頭まだびしょびしょじゃん。」
さっき貸してあげたバスタオルは洗濯機に入れてしまったので、出来るだけきれいなタオルを見繕って持ってきた。 カーペットに座っている雅治君に渡そうとすると、こちらに頭を差し出してきた。…何だこれは、どういうことだ。



「拭いて」



で、何で私が頭拭いてあげなくちゃいけないの?
たっぷりの水分を含んだ銀色の細い髪からタオルへと水気が移ってきているのが分かる。それを私は猫を拭いてあげるような 気持ちで手を動かす。
考えてみると雅治君は猫っぽいかもしれない、動きがしなやかだし、目も猫みたいだし、よめない行動をするし(これは 猫に限った事じゃないか) ちょっとした発見がなんだか面白く感じ、少し口元が緩んだ。 先ほどと同じでお互いに喋らないのに居心地の悪さは感じなくなっていた。
十分タオルで水気は取れたので、ドライヤーに持ち変える。スイッチを押せば暖かいと言うより、熱い風が出てきた。 右手にドライヤーを持って、左手は乾きやすいように銀色の髪を混ぜる。

「――――」
「えっ?!何?ドライヤーの音で聞こえない」
「気持ちいいから眠くなる言うたんじゃ」
「えっ!寝たらダメだから!私にこんな事させといて!」

ドライヤーの音で笑い声など聞こえないが、肩が揺れているのでどうやら笑っているらしい。
雅治君の今までのイメージが今日だけでものすごく塗り替えられていってる。冷たい感じのイメージだったけど、良く笑うし 、意外に話しやすい…良い方に塗り替えられているのは事実だ。



……何だか前屈みになっていってるような気がするのだが、人にこんな事させといて、まさか寝てないだろうな…。
ドライヤーのスイッチを切り、上半身だけを動かして雅治君の顔を覗き込む、さっき発見した猫のような目はぴたりと閉じられている。

「えぇー…」
思わず出た抗議の声など聞こえないようで、ぴくりとも動かない。にしてもよくこんな体制で眠れるな。 ……本当に眠っているのだろうか?前に回りこみ下を向いている雅治君の顔を覗き込む。

「おーぃ…」



?!



「………」
「………」
「ちょ、ちょっ、え?」
「ふぁ〜、ねむ」
「え?え?」
「誰か帰ってきたみたいやから、帰るの」
「は?」
「この服洗濯して返すわ、そん時カフェオレごちそうしてもろてええかのう」

そう言うやいなや立ち上がり伸びをした。そして何事も無かったかのように少し離れた所にある鞄とラケットを取りにいっ て帰る準備を始める。

「ちょっ、ちょっと!なに今の?!」
「何て、そんな事も知らんのか。キスじゃ」
「キッ?!…知ってるわ!私が言いたいのはそういうことじゃなくて!」
「何で、キスしたか?」
「そ、…そうそう、そういうことよ」

キスと言われると恥ずかしくて、一瞬肯定するのに戸惑ってしまった。それが面白かったのかニヤニヤと笑いながら意地悪 そうに口の端を吊り上げている。恥ずかしくなって合っていた目を逸らし何も無い壁を見る。

「何でか当ててみんしゃい」

当ててみんしゃいとか言われても…私のことが好きだとか?

チラリと雅治君を見上げる、こんなにかっこいい子が?私を…?自分で言うのもあれだが、ないな。
はぁー。
嫌味なほどにでっかい溜め息が聞こえてきたので、恐る恐る上を見上げる。機嫌が悪そうに雅治君がこちらを見ている。
「何で分からんのじゃ。」
「そんなこと言われても…」
何で私が責められてるの?と思うが不機嫌オーラを出している雅治君を見ると口には出せない。


「好いとるからよ」

「え、」


驚いて顔を上げるが、すでに雅治君は玄関にいた。慌てて追いかける。
「雅治君!」私が名前を呼んだので驚いたのか、一刻も早くうちから出ようとしていたのに足を止めてこちらを振り返った。

「今、私のこと好きって言った?」

途端に顔が赤くなった。それが伝染したように私の顔にも熱が上がってきたのが分かる。
するとドアが開いた、眩しくて目を閉じると次の瞬間には雅治君は居なくなっていた。
ドキドキと大きな音で胸が存在を強調している。


私が猫みたいだと思った子は猫ではなく、その見かけ通り男の子だったらしい。




雨の日の話







(20080714)