「あっ」 声が出た時にはすでに遅かった。 時よ戻れ。などと願っても当然過ぎた時間が戻る事など無い、そんな事は分かっている。分かっているのだが、願わずには いられない。はぎゅっとつぶった目を恐る恐る開き鏡を見るが、先ほど見た光景とは当然何も変わらない。 サーっと血の気が引いていくのを感じた。 「滝夜叉丸ー!!」 いつものように戦輪の自主練習をしていた滝夜叉丸はくるくると動かしていた人差し指の動きを止め、呼ばれた声の方へと 顔を向ける。そこには額に両手を当てたままこちらへと走ってくるくノ一の姿があった。 その見覚えのある姿に思わず口角が上がる。 「ではないか…どうしたんだ?」 何をどうしたのかは言わないが、目はの隠された額へと注がれている。その視線の意味に気づき、今まで隠していた意味 が果たしてあったのか、と聞きたくなるほどにあっさりと手を下へと下ろした。 「なっ!」 「いやー。失敗しちゃってさー」 滝夜叉丸の方が衝撃で固まってしまったのに対して、当の本人は恥ずかしそうに頭を掻いて笑っている。 「失敗って、何をしたらこうなるんだ!」 「何をしたらって…髪を切ってたらだよ」 何を当然のことをという口ぶりで、斜めに短く切れてしまった前髪を右手でさらりと触る。 ちょっと斜めになっているぐらいならば、滝夜叉丸もそこまで驚く事もなかったのだが、ものすごく斜めだったのだ。 「けど、ちょっと時代を先取りした感じがしない?」 「しない。」 も最初衝撃を受けていたくせにどうにかいい方に取ろうとしていた。が、その思いは滝夜叉丸に即答で打ち砕かれた。 じろりと見つめる、の視線には気づかないのか、気づかないふりをしているのか滝夜叉丸の視線はの前髪へと注がれて いる。 「それでどうするんだ?」 「うん、そこでさ!滝夜叉丸の出番なのだよ!」 「…はっ?」 何故そこで自分の名前が出てくるのか意味が分からない。そう視線で訴えてもは無視しそのまま走って先ほどまで滝夜叉 丸が戦輪を投げつけていた的の横にある大きな木へと登り始めた。そのいきなりの行動も意味が分からずただ、見ているだ けの滝夜叉丸。 「戦輪でちょちょいと直しておくれ」 登り終わり少し太めな木の枝にまたがり、そう言いながらはさみで前髪を切るまねを右手でする。 「なっ!私の戦輪たちは髪を切るためにあるんじゃないんだぞ?!」 「んなこた知ってるよ。じゃ私木に足引っ掛けて逆さまになるから、そこからシュッっとやって」 「…私が失敗するなどありえないが!もし、もしも運悪く風が吹いたりしたらどうするんだ!」 「えー、そんときはそんとき」 「…というより、何故タカ丸さんに切ってもらわないんだ、いや切ってもらわなかったんだ」 自分を頼って来てくれたのは嬉しいのだが、髪の事に関しては普通タカ丸に頼むだろうと自分よりも年上の同級生を 思い浮かべる。 それにタカ丸さんはくノ一には人気があるし……これを機会にタカ丸さんとお近づきになろうなどと思わなかったのだろう か、実際そんな事になれば嫌なくせに考えずにはいられない。悶々と一人考え込みからどの様な答えが返ってくるのか 真剣に見つめる滝夜叉丸にあっけらかんとは応える。 「だって、タカ丸さんに切って貰おうと思ったらいったいどんだけ待たなきゃいけないの」 「……」 「その間に目に髪が刺さりまくるし」 「……」 「それより早く切ってよー」 そうだ、そうだこいつはこんな奴だった。くノ一のくせして色恋ごとには鈍感と言うか興味が無いと言うか… 自然と滝夜叉丸の口からため息が漏れた。 「!!」 そのとき二人の間に割って入ってきた声で、呼ばれた本人であると名前は呼ばれていないが聞きなれた声に滝夜叉丸も 首を動かす。嬉しそうに顔を綻ばせていた三木ヱ門こと田村三木ヱ門は滝夜叉丸の姿を認めると、途端その顔を歪める。 「げっ!滝夜叉丸!」 吐き出すように三木ヱ門が言うのに対して言われた本人はいつもの事だと大して気にもかけないのか普通に応えている 「そういうお前は三木ヱ門ではないか」 「またユリコの散歩ー?」 「あぁ、…というかは何をやってるんだ?」 不思議そうな顔をしながら逆さまに木にぶら下がっているを見る。 「あぁ、それが……」 何故そこで滝夜叉丸が出てくるんだ、嫌そうな顔を隠そうともせずに三木ヱ門は滝夜叉丸を見るが、興味があるのか滝夜叉 丸の方へとユリコを引っ張りながら近づいていく。 *** 「!!」 木から下りてきたを見て三木ヱ門も衝撃を受けていた。の前髪へと視線を向けたまま固まってしまった三木ヱ門を見て 滝夜叉丸は一人うん、うんと頷いている。それにまたじろりとした視線を投げかける。 「げ、限度ってものがあるだろ!!」 「いや、けど時代を先取りしてると思わない?」 「「全然っ」」 「これはありえないだろ」 「そうなのだ、私も先ほどから言っているのには時代を先取りなどとふざけた事を」 「なんだよ、何で私こんな責められてんの?」 「そんな事いってもなぁ?」 「なぁ?」 「なんだお前らいつもは仲悪いくせにこういうときだけ、なに意気投合してんだ」 「……」 「……」 「そんな目で見るなー!笑えよ!いっそ笑え!」 「「いや。笑えない」」 いつもはいがみ合ってばかりの二人に綺麗に声を揃えて否定され、は眉を寄せて黙り込んだ。その様子を目の端で捉え ながらも無視して話を続けようと三木ヱ門が滝夜叉丸へと向き直る。それに合わせて滝夜叉丸の方もに視線を向けてから 三木ヱ門へと体ごと向き直る。 「で、何がどうなってが木にぶら下がることになるんだ?」 「それはだな、この戦輪を使わせれば学年一、いや学園一である私を頼り、髪を切って欲しいと頼みに来たからなのだ!」 「なにっ!?」 これ以上ないくらいに胸を張って嬉しそうに応える滝夜叉丸に、半ば叫ぶような声が出る。最後の方など声が裏返ってし まっている。だが、そんな事は気にかけていられない程の驚きで頭が一杯な三木ヱ門。 流石は忍者の卵と言うべきか、すばやい動きでの目の前へと移動しギラリと目を光らせながら畳みかけるように喋る。 「ホントか?!!」 「え、あ、うん」 「なぜ!滝夜叉丸なんだ!!」 尋常ではない三木ヱ門の様子に唖然と見つめるの視線など気づかずに、心底悔しそうに頭を抱えながら叫ぶ。 それを見ながら高笑いを始める滝夜叉丸。 その様子をボーっと見ていると、突然頭を抱えていた三木ヱ門が何か思いついたかのようにポンッと両手を叩いた。 「別に戦輪でなくてもユリコでも切ろうと思えば切れる」 そうだそうだ。などと一人納得しながら頷く三木ヱ門に滝夜叉丸はやっと高笑いを止め、と顔を見合わせる。 「いや、ユリコでは無理だろう」 「そうだよ!上手く前髪にしか当たらなくても前髪チリチリになる!!」 「大丈夫だ!!滝夜叉丸になど頼まなくても私がユリコで切ってやる!」 人の話を聞かずに、ふんっと鼻息荒くまくし立てユリコを撫でやる気満々な三木ヱ門に対しは顔を青くさせる。 冗談じゃない。このままでは前髪がこれ以上ひどい事になるかもしれない。はっきりと拒否しなければ。 「…私滝夜叉丸に切ってもらうからいいや」 「ほらみろ!は私に切ってもらいたいのだ!!」 別に滝夜叉丸に切って欲しいと言うか、ちゃんと刃物で切って欲しいのだけれど…とは思うのだが、またギロリと滝 夜叉丸を睨み付ける三木ヱ門が口を出すのを躊躇させる。さっきは撫でていただけで止まっていたのに、滝夜叉丸に言われ た一言が気に触ったらしくユリコを構えている。それに応戦するように滝夜叉丸の手にも戦輪がある。 ここでユリコを撃たれてはたまらない、慌てて三木ヱ門を宥めようとする所にここに居る三人以外の声が届いた。 「おや、何をしてるの」 「喜八郎!」 救世主だ!と声の聞こえた方へと振り向くの目に入ってきたのはまた穴を掘っていたのか、体中に土を付けて肩には穴を 掘る時の必需品である円匙を担いだ喜八郎こと綾部喜八郎が居た。 第三者の声によって一触触発の空気を漂わせていた二人も動きを止めた。とりあえず良かったと息を吐く。 「、すごい髪だね」 土まみれの指をの方へと突き出して喋る喜八郎にもう三度目となる台詞を紡ぐ。 「時代を先取りしてるでしょ?」 「そう思いたいならそう思えばいいんじゃない」 ぐさり。何だか二人にきっぱりと否定されるよりも喜八郎の言葉の方が胸に刺さる。胸を押さえて動かなくなったを横目 にしながら、二人に説明を求める喜八郎。 「で、なんでこうなったの」 *** 「…というわけで、は私に切って欲しがっているのだ!」 「何を!滝夜叉丸!は私にユリコで撃ってもらいたがっている!」 そんなこと言ってねぇよ!と言う呟きは二人の声によってかき消される。そこで 口出しもせずに黙って聞いているだけだった喜八郎が口を開いた。 「…なぁんだ、じゃあ私が切ってあげるよ」 そう言うと肩に担いであった円匙を力いっぱい振り出す喜八郎。穴掘りで鍛えた意外にがっしりとした腕で思い切り空を切 る。一振りするたびに風を切るビュンと言う音にその速さが分かる。 「え、え、え、待って待って!何でそこで円匙を振り回すの」 「何でって…これで切るから」 何を言ってるんだ当たり前じゃないか。とでも言いたそうに喜八郎はキョトンとした顔をして見返してくる。 すかさずそこに滝夜叉丸と三木ヱ門が噛み付く。 「喜八郎、円匙などで髪は切れないぞ」 「そうだ、私のユリコならば出来るがな」 「…そんなもの!私の戦子の方が出来るに決まっている!」 あぁまた始まった…さっき終わったかと思ったのに些細なことでこの二人の言い合いは始まるので、少しうんざりする。 もう、止める気にもなれずがただ傍観していると、 ビュン バキッ 喜八郎が円匙を滝夜叉丸と三木ヱ門の間に振り下ろした。それにより今まで言い争っていた二人も顔を青くさせながら、ぎ こちない動きで喜八郎を振り返る。そんな二人の事などどうでもいいのか喜八郎の方はあくまでもいつも通りに口を開く。 「切れたよ」 そう言いのほうを視線をやる。何のことかと喜八郎の指がさした地面へと目をやれば、真っ二つにされた葉っぱが落ちて いた。 先ほどまであんなにうるさかったのに、誰一人口を開かずに少しの時間が流れた。だが、そんな静かな時間などすぐにぶち 壊される。 「危ないではないか!喜八郎!」 それをぶち壊したのはやはりというか滝夜叉丸であった、三木ヱ門の方はまだ喋らずにじっと半分になった葉っぱを見てい る。 「…なにが?」 「何がって!私達に当たったらどうするんだ!」 そこで始めて気づいたとでもいうように、わざとらしく驚いた顔をする喜八郎。対して滝夜叉丸は本当に怒っているらしく 眉を吊り上げている。 「おや、けど当たらなかったじゃない」 「当たり前だ!!当たっていたらどうするんだ!」 「さぁ?」 「私の美しい顔に傷が付く所だったんだ!そうなるといったいどれだけの人が悲しむ事になるか…!」 怒っていたはずなのにいつのまにかその目に涙を浮かべて嘆き始めた滝夜叉丸。つい冷めた目で見てしまうだが、なおを 悲しみ続ける滝夜叉丸は気づかない。三木ヱ門もやっと復活したのか怒ったように眉を吊り上げ、滝夜叉丸はどうでもいい が、アイドルである私の顔に傷を付ける事は許されない!などと喜八郎を責め始めた。責められているはずなのに喜八郎は というと右から左に聞き流しているように見える。 何だか収集がつかなくなってきたな、とただ眺めていたはふいに疑問に思った事を口に出した。 「ていうか三人共なんでそんなに髪が切りたいの」 小さく呟いただけなので流されるかもしれないとは思ったのだが、予想に反して三人は聞き取ったらしく一斉にこちらを 振り返った。 「違う!髪が切りたいわけではない!」 「そうだ!別に髪を切るのに執着しているんじゃない!」 「じゃあ、なんで?」 「… 」 「あれー?皆ここで何してるの?」 突然割って入ってきた明るい声によって喜八郎の声はかき消されてしまった。 「タカ丸さん!」 「わっ!ちゃんどうしたの!その髪」 *** 「ふーん、じゃあ僕が切ってもいい?」 「えっ!けど、いいんですか?」 「いいよぉ〜」 かわいらしく首をかしげてにっこり笑うタカ丸の後ろに後光がさしているように見えた。 これ以上にないくらいのタカ丸の申し出にうれしくて、もタカ丸に負けないほどににっこりっと笑った。 「じゃあ、ちょっと目瞑って、軽く下向いてくれる?」 「はい」 さっそく切ってくれるらしくタカ丸は櫛やら鋏が入った袋を懐から取り出した。 タカ丸に言われたままに目を瞑り下を向くと、ジャキっと髪を切る時特有の音がの耳に響いた。先ほどまで騒がしかった 三人も今は黙り込んでいる、なので当たりに響くのはの髪が切られる音だけだった。 「こんなもんかなー目開けていいよ」 ゆっくりと目を開けると、こちらを覗き込んでくる八つの目が、 「びっくりしたー…なんで皆で見てんの!」 「何でと言われても…」 「「「なぁ」」」 「だから何でこんな時だけ息ピッタリなの!」 「ちゃん、ついでに髪も結わせてもらってもいい?」 「え、そんなむしろこっちが結ってもらってもいいんですか?」 「結いたいから言ったんだよー」 「ちゃんの髪触り心地いいね」 「え、そうですか?」 照れたようにはにかみながら応えるにどことなく三人が機嫌が悪くなったようだが、とタカ丸はお互いに話していて 気づかない、それどころか三人の存在も忘れていそうに盛り上がっている。それがまた三人にとって面白くない。 しばらくそうやって不貞腐れているとタカ丸の大きな声が響き渡った。 「ねぇーどうかな?ちゃんかわいくなったでしょ」 にこにことしながら手招きをするタカ丸に毒気を抜かれた滝夜叉丸と三木ヱ門と喜八郎はお互いに顔を見合わせた、そしてそ れが合図だったように競争するように走り出す。 「…どう?」 恥ずかしそうにしながら反応を伺うようにして聞くに、立ち尽くし何も喋らない三人それをタカ丸は満足そうに 見ている。だが、三人は一向に口を開こうとしない。先ほどまでの斜めになっていた前髪などまるで嘘のようにきれいに 整えられ少し分けられてある、後ろの髪だって可愛く結われている。 何も言われないので不安に思ったのか困ったように視線を彷徨わせ始めたにタカ丸がすかさず口を開いた。 「三人ともちゃんが思った以上に可愛くて声が出ないんだよ」 ねっ!同意を求めるように三人に笑顔を向ければ、硬直して動かなかった三人がはっと瞬きをしてから赤くなった。 それに感染するようにの顔も赤くなる。それを誤魔化すように頬をかきながら喋る。 「ええと、タカ丸さん本当にありがとう!」 「どういたしまして」 「…滝夜叉丸と三木ヱ門と喜八郎もありがとう!」 「…私たちは何もしていない」 「あぁ」 「いいの!ありがと!」 「!」 じゃあ私皆に自慢してこよ!うれしそうに駆け出そうとしたの背中に普段はあまり大きな声を出している所など見られな い喜八郎の声が追いかけてきた。それに驚きながら振り返る。 「すごぉくかわいいよー」 いつもの何を考えているのか良く掴めない表情のように見えたがうっすら口角が上がっていたように見えてはやっと収ま って来ていた熱がまた上がってくるのを感じた。それを見ていた残りの二人が負けじと声を張り上げる。 「!かわいいぞ!」 「ユリコ程ではないが…か、かわいい!」 滝夜叉丸は堂々と胸を張るようにして、三木ヱ門は視線を彷徨わせながら。 「あ、ありがと」 これ以上にないほどに顔を赤く染めたはぼそりと御礼を言って風のように走っていった。 「可愛くさせすぎちゃったかな?」 困ったように呟くとタカ丸は一人頬をかいた。 甘い果実 (20080925) |