いい香りがふわりと風に乗って鼻腔をくすぐる。一年に一度、秋にだけ香る事の出来る匂いだ。
手に持っている本はここで読む事にしよう、いい香りを放っている木の根元に座り本を開いた。図書室から借りた本な ので傷めないよう注意しながら読む。
あんなに攻撃的な光を浴びせていた太陽はいつのまにか柔らかさを含んだ物へと変わっていた。時折吹く風が心地いい。 もう少しすれば今こうして心地よく感じている風は刺すようなそれへと変わるのだろう。
こうやって外で本を読む事が出来るのも今だけだ。そう考えて今こうしている時間がとても贅沢に思う。思い切り息を吸え ば肺いっぱいに金木犀の香りが広がった。



花粒、一つ



少し肌寒く感じ字を追っていた視線を上げれば、空がすっかり茜色に染まっていた。本に熱中し過ぎていたらしい。だが、まだ切り 上げたくない、面白い所なのだ。あとちょっと、誰かに言い訳するように呟き再び視線を本へと戻す。 その時、ぽとんと何かが鼻の上に落ちた。瞬間雨かと空を見るがそんなわけもなくさっきと同じ茜色が広がっている。 不思議に思いながら鼻に触れてみるがそこに想像していた水気はなかった。
何かが落ちてきたのだろうか、視線を下へとやれば橙色が目に入った。
あぁ、
納得して上を見れば金木犀の橙色が目に映る。これが落ちてきたのか。
正体も分かった事だしと本に視線を戻すとまたぽとりと落ちてきて今度は本の上に落ちた。 さっきも思ったけれど雨のようにぽつぽつ落ちてくる、雨粒の代わりに花の粒が落ちてくるなんて素敵だ。 普段ではこんな事考えもしないだろうけれど、今まで読んでいた本の影響だろうか。(それは綺麗な言葉ばかりが並んでいた。) 続きをもう少し読もうかと思ったが、やっぱり帰ることにしよう、ぱたりと本を閉じる。ゆっくりと立ち上がりぐっと背筋を伸ばす。 本を胸に抱えて部屋に一旦帰ってから食堂に行く事にしようかな、と予定を立てる。 綺麗な物語の余韻だろうか、どこかふわふわとした気持ちのまま足を動かす。はぁ、ため息が零れた。 その時後ろから黒い影が伸びてきた、後ろを振り返ると地面へと沈んでいく夕日と、

「…こんにちわ」
「こんにちわ」

利吉さんだ。そう認めた瞬間ため息を聞かれたかな、足取りがふらふらしてておかしいと思われなかったかな。そんな事ばかりが 頭の中に浮かび上げる。そんな事を考えているうちにも影はどんどんと近づき、遂には追い抜かされた。 細長い影が二つ並んでいる、利吉さんの影の方が長く少し私のものより先にある。けれどその距離は変わる事はない、 追い抜かれてどんどん先に行くと思っていたのに。不思議に思い影の本体である右にいる利吉さんをこっそりと盗み見る。

「ん?なんだい?」
「い、いえ」

盗み見る事など売れっ子忍者である利吉さんに対して成功するはずがなかった。真正面からまともに合ってしまった目に どきりと胸が大きく高鳴った、恥ずかしくなって慌てて顔を伏せる。
今、空が茜色に染まっていて良かった。頬に熱が集まっているのを感じながらわざとそれには気づかないように、黒く伸び た二つの影に目を凝らす。

「あ、」

利吉さんの発した声によって今まで別に意味無く必死に目を凝らしていた影から視線を外し、利吉さんを見る。すると、利吉 さんは歩くのを止めてしまった、何故だか理由は分からないが私の方を見てるので私もそれに合わせ脚の動きを止める。
今度は間違いなく私は利吉さんの目を見ているのに、利吉さんはというと私の目よりも上の方を見ていて目が合わない。
居心地が悪くて胸に抱えた本を持つ手に力を入れる。
スッと手が伸びてきて私の髪に触れた、思わず目を瞑る。

「金木犀だね」

ほら。そういって差し出された手の平の上に目をやれば見覚えのある橙色の小さな粒があった。

「あ、ありがとうございます」
「うん、金木犀の下で昼寝でもしたの?」
「違います!」

おかしそうにわざとからかいを含んだ言葉に、つい剥きになってしまう。その反応に利吉さんは益々おかしそうに笑った。 あぁ、遊ばれている。そう理解してやっと収まりかけていた頬の熱がまたぶり返す。 恨めしげな目をしてみるが、全然気にした様子などない、 利吉さんはというと、ころころとその橙色を手の平の上で転がしている、そしてそれを顔の方へと持っていった。どうやら 匂いをかいでいるらしい

「うーん、やっぱり一粒じゃあまり分からないな」

そう言うと残念そうに笑った。いつもはからかいを含んだような笑い顔ばかり見ていたので初めて見たその表情に一瞬息 が止まる。思わず食い入るように利吉さんの顔を凝視してしまう、すると強い風が吹いた。反射的に目を瞑る。 その時に、私はさっきまで自分がその香りを堪能した場所を教えてあげればいいと考え、風が弱まったと同時に口を開く。

「あの…」

だがすぐに声は途絶えた、目を開くと目の前に利吉さんの顔があったのだ。
あまりに近すぎる距離にぐっと息を止める。


「金木犀の香りだ」


そう言ってふわりと利吉さんが笑った。それに反応して私の胸が大きく一度跳ねた。


くらりと眩暈がした。原因は金木犀の強い香りか、それとも…








金木犀の花言葉、初恋、陶酔(20081012)