「そうやって今度は誰をたぶらかそうとしてるんだ?」 くっ、と口の端を上げているわりに目は笑っていない。むしろ刺すように鋭い。 の喉がごくりと鳴った。 「そんなんじゃありません...」 言葉はもごもごと力なく尻すぼみしていった。今すぐにこの場から逃げ出したいであろうことはその引け腰からも 判る。それを面白そうに三郎は見ている。 「それじゃ何?」 一歩、三郎が足を進める。 「じゅ、授業だったので...」 二歩、が後ろに下がる。 「化粧の?」 一歩、三郎が足を進める。 「そうです」 二歩、が後ろに下がる。 「紅だけとはおかしい」 「これは...」 「化粧を落とした後に紅だけ塗りなおしたのか」 なぜちょっとお洒落したくて紅を塗っていたというだけでここまで責められねばいけないのか、は今にも泣きそうだった。それからなぜいつも 自分だけにこの男はつっかかってくるのだろうと疑問に思った。 ある時は新しいかんざしをつけていると、この男に髪に刺さっていたかんざしを持っていかれた。 その日は授業で町に行き、男になにか贈ってもらうという課題が出ていたのでおめかししたというのに、かんざしを返し てもらうために追いかけっこをしたせいで町に行く頃にはせっかくのおめかしも台無しになってしまった。 またある時は新しい着物が家から送られてくると、どこで聞いたのかまだ袖も通さないうちにかっぱらわれてしまい、 泣いて返してくれと懇願すると返してくれたはいいが着物の入れてある籐の籠はぐるぐると縄で巻かれ何やら怪しげな 御札が貼られてあった。鉢屋三郎曰く、ある手順通りに開封しなければ恐ろしい事が起こるらしく、その着物を着ると きには一々開けてもらいに行かなくてはいけない。それも何故この着物が必要なのか理由を答えその理由が鉢屋三郎を 納得させるものでなくては開けてくれない。 そしてまたある時は綾部喜八郎特製のトシちゃんだかトシゾーだかに突き落とされ、ご丁寧に這い出てこれないよう上か ら穴を網で蓋され閉じ込められた。(ちなみに泣いて、出してくれと懇願するまで出してもらえなかった。) ......とこのようなことが 十も、二十も、三十もあるのだ。些細な、足を引っ掛けにきたりだとか、髪を引っ張られたりだとかを入れるとそれこそ 百を越す数、嫌がらせを受けてきた。 そのような今までの積み重ねのお陰で三郎にばったりと会った時、の頭はすばやく逃げろ! と全身に命令するのだ。 だが、今回は下を向いて歩いていたのがまずかった。 たまたま見かけた生物委員がいつものように「毒虫が逃げた!」と 騒いでおり、見てみれば手には箸と壷を抱えていた。 前にも見たことのある光景にはその毒虫が蟻だと確信した。 なので、その毒蟻を踏まないように下ばかりに意識を向けていて、前から歩いてくる天敵・鉢屋三郎の存在に気づかなか った。 何かにぶつかったと顔を上げれば、そこには自分を見下ろす鉢屋三郎。 にやりと笑った天敵には背筋を冷たいものが走っていくのを感じた。 動かない体とは反対に頭はフル回転する。 下ばかり向いていたから......けれど毒蟻が! そういえば生物委員を仕切っている竹谷八左ヱ門は鉢屋三郎と仲がよかった。もしやこれは私が下ばかり見て歩くよう 仕組まれた罠だったんじゃないのか! それを証拠に鉢屋三郎はにやにやしてるじゃないか! (冷静さを欠いたの頭では気づかなかったが、彼女を見つけたときの鉢屋三郎はいつもにやにやしていたので別段珍しい ことでもない。) ぶつかってきたかと思えば固まって動かなくなったを真正面から見ることになり三郎はいつもの彼女ではないことに気 づいた。 いつもは薄い桜色をしている唇が赤い。すぐにそれが紅だと分かり、にやにや顔がむすっとした不機嫌なものへと変わる。 そして冒頭の「そうやって今度は誰をたぶらかそうとしてるんだ?」という言葉へと繋がる。 ↓ 「...はい」 紅だけ塗りなおしたのか、という問いに肯定の言葉を返せばますます目つきが鋭くなった。 それならどう応えれば良かったのだ。とはただならぬ様子の三郎にびくつきながら思う。 違うと言っても、唇は赤いの だ。嘘を言うなと言われるのは目に見えて分かる。 誰か助けて。と念を送るが先程から誰も通るようすはない。この辺にある建物は煙硝倉だけで火薬委員会かその他の 少数ぐらいしか通りかからない、も別に煙硝倉に用があったわけではないのだが下を向いて歩いているといつのまにか こんな所まで来てしまっていた。 そもそも鉢屋三郎は何か用がありここを通っていたのでは、と思いつき恐る恐る口を開いた。 「鉢屋三郎先輩は煙硝倉に用があったんじゃないんですか...」 返答は無い。だが、何か思うことがあったのか三郎が足早に近づいてくる。 は距離をとるために急いで後ろへと下がる。それを追いかける三郎。 ついには塀に背中が当たり、追い詰められてしまった。逃げ場が無い事に焦り横へと逃げようとするを三郎が塀に 手を付いて閉じ込めた。 「...なんですか、」 不機嫌な三郎の顔を見るのは恐くて俯いて口を開く。 の影は三郎の影によって飲み込まれてしまっていた。 陽の光は当たらない。 問いに答えが返ってくることは無かった。突き刺さるような視線を痛いほど感じながら、は口を引き 結んだ。今度は何をされるのだろうと思うと自然、身を守るようは小さく縮こまった。 自分の腕の中で怯えたように身を縮ませるに三郎は苦い顔をする。だが、俯いたからは見えない。 長い、長い時間そうやっていたようにには感じたが顎をつかまれ無理やり顔を上げさせられた時、空には変わらず太陽 が先程と同じ位置にあった。眩しくて目を細めると光を遮るように太陽との間に三郎が割って入った。 必然的に二人の視線が合うことになる。 が恐々と三郎を見ているのに対し三郎の表情は読めない。 三郎が突然腕を持ち上げた。 はそれに反射的にぎゅっと目を瞑る。 今までの色々な積み重ねでの頭は目を瞑れ! と指令を出したのだ。だが暫くしても何も起こらない、相変わらず瞼の 下からでも影がかかっていることは分かるので天敵はまだそこにいるらしい。 そろそろと目を開こうとすると、突然唇の上を何かが掠めた。 と思うと力いっぱい布のような物でごしごしと拭かれる。 「...いた、っい!」 不平をもらすも三郎の手が緩む事は無く、いつのまにかがっちりと頭をつかまれ、口周りをごしごしと拭かれる。 あまりにも乱暴な手つきに唇が切れるかもしれないと思う。が真顔で何の表情も浮かべない三郎が恐くて抵抗できない。 徐々に視界がぼやけ始めた頃に、やっと手を止めてもらえた。擦られすぎて唇の感覚が無い。手で触れて見てみると、 以外にも頑丈らしく血は出ていなかった。 「....ない」 そっと聞こえた声に手から視線を外し、三郎を見ると口をわなわなと震わせて見たことの無い顔をしていた。 いつものにやにや顔でも不機嫌そうでも真顔でもなかった。 どうしたのだろうと思いながら聞こえなかった言葉を聞き返す。 「なんですか?」 感覚のないのが気になり手を唇に持っていくと、目に見えて三郎の耳が赤くなった。 なんだ、なんだ、とはその様子を凝視する。 「おれは悪くない!」 突然大声を上げ踵を返し走っていった。 これは今までにないパターンだ。と遠ざかる背中を眺めがらが呟いた。 印象に残った赤い耳はどういう意味かと考えて から、そういえば唇も赤かったような......。とそこまで考えてから慌てて地面に視線を落とす。 そんなことより毒蟻を踏んでないだろうか。 紅 の衝動 熱心に地面を見詰めるから離れた草むらにぴょこんと飛び出た虫取り網と三つの頭。 「な、なぁ、もしかしてあの子、気づいてないんじゃないか」 「...みたいだね」 「あれは、なにしてんの?」 「分からん」 「何か落ちてるのかな」 「何も見えないけど...」 「それより! 唇を奪われたってのになんで気づかないんだ?!」 「......」 「......」 「なんだよ、その目は...」 「いや...」 「八の唇奪われたって言い回しがキモイ」 「うん」 「何? 俺って嫌われてんの?」 (20091215)小学生男子な三郎 |