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 吐き出した息はすっかり白かった。

 いつもよりも早く目が覚め二度寝を試みるもそれは適わなかった。しょうがないと潔く諦める事にし身支度を済ませ部 屋から一歩踏み出すと外気によって冷やされていた廊下の床板が氷のように冷たかった。けれどそれよりも目に写った一 面の白の景色の方に驚きはもっていかれた。

「うわー」

 小さな声で呟いた声は意味の無いもので、そのまま冷たい空気の中に消えていった。
もう子供といえる年でもないのに未だに雪を見ると身体がむずむずして、笑顔になってしまう。まだ朝も早いので一面の 雪は誰にも踏み荒らされずきれいなままだった。弱い朝の光を反射した雪はきらきらと輝いている。
生徒達が起き出してくるにはまだ時間がある。この景色を独り占めした気分で小さく声を出して笑う。
濡れるのも気にせずその白の中に足を踏み入れると、雪がキュッと鳴った。そんな些細な事もおかしくて口を手で隠して 忍び笑いをもらす。
一歩進めばまた、キュッと鳴る。
夢中になってそれを繰り返して、後ろを振り向くとまっ平だったはずの白い道には私の足跡が続いていた。真っ直ぐでは なくふらふらとした足取りなのがよく分かる。私が一番に足跡をつけてやったんだと思うとなんだか得意になってくる。


このまま学園内を歩き回って、私が一番だったしるしをつけてやろう。


 子供の悪戯にも満たない事を思いつき気分が高揚した。いつもなら人の目もあり、躊躇する所だけれど今は早朝で 人が起き出してくるにはまだ早い。そうと決まればと再び歩き足跡をつけていく。

キュッキュッキュッ

忍たまとくノたまの長屋を隔てている塀を飛び越える時も手の後はつけず足跡だけにしよう、と思い塀の上を見上げる。 へたをすれば雪が滑って転げ落ちるという結果になりかねないので、授業の時以上に集中してそっと塀の上に飛び乗った。 止めていた息を吐き出すと白いもやのようになって風に攫われていった。塀の上からは予想通り白く、まだ踏み荒らされ ていない雪が目に映って、にんまりと笑ってしまう。
飛び降りる時はそう気負う事もなく、自然に足を踏み出した。すとんと身体を落下させ、また雪の上に落ちた。 こんなに寒いのでは布団から出るのは難しいだろう、物音が聞こえない長屋を見遣ってから足を進めた。今度は規則正しく 真っ直ぐに続く足跡を残してみせる。真っ白な何も書かれていない紙を前にし、きれいな文字を残そうとするときと同じ 気持ちで前をしっかりと見据えて足を動かした。



 いつもはそれなりに騒がしい学園の中がしんと静まり返っているので、全ての音を雪が吸い取ってしまっているようだ と思った。耳を澄ませてみるもやはり耳に届くのは自分が雪を踏みしめた時に鳴るキュッという音だけだった。

キュッキュッキュッ

無心にただ歩いていると、足を踏み出そうとした先に足跡があった。なんで? と疑問を小さく呟いてから今まさに右足 を乗せようとした所に足跡があったのでその上に足を重ねるのを躊躇していると、強い風が突然吹いた。地面の上に降り 積もっていた雪を巻き上げるものだから目を瞑ると、不安定な格好をしていたのでぐらりと身体が揺れた。

「おわっ」

 一時たって自分が雪の上に転がっている事に気づいた。一瞬布団と見間違えるけど、その冷たさに雪の上に転がっている のを理解した。失敗した。計画では足跡だけを残すつもりだったのに身体の後まで残してしまった。間抜けな後が残って るだろうなと自分の重みでへこんだ雪のことを思って口を押さえて笑った。

?」

 はた、とひくついていた喉の動きを止めて視線を彷徨わせる。けれど眼が写すのは白い雲に青みの薄い空の色だった。 だけど、この声は聞き覚えがある。聞き間違えるはずがない。絶対。身体を起こし、その声の人を探す。
どきりと心臓が跳ねた。
けれどその理由については色が皆無に等しい世界に突如黒が現れたからなのか、その黒の正体が一目で先生だと分かっ たからなのか私には判断できなかった。

?」

 土井先生はもう一度私が本当になのか確かめるように名を呼んだ。それから徐々に近づいてきて、あっという間に 私の目の前まで来た。そして上から私を覗き込んでいる。視界が土井先生でいっぱいになった。何も言わずじっと先生を見て いると、先生はひとつ笑みを零した。

「こんなとこで寝てると風邪ひくぞ」

 そう言って手を伸ばしてくる、私は呆けたように目の前の手を見てから、その手に私のを触れるか触れないかの距離を保ちつつ乗 せた。ぎゅっと手を掴まれ腕を引っ張られる。その力にそのまま身を任せると立ち上がることが出来た。
ゆっくり先生に手を離され、最初から私は掴んでいなくて先生に掴まれていただけなのでそれはすぐに離れた。
冷たい風が手に染みて、先生の手が暖かかったことに離れてから気づいた。

「大丈夫か? 手、冷たいぞ」
「そうですか?」

 自分の手が冷えてる事は先生に手を離された時点で分かっていたのに、私は身体についた雪を払いながら意味もなく分か らないふりをした。

「それにしても起きるの早いな」

 それ以上会話を続けるのは難しいと判断したのか先生は少々強引に話題を変えた。あらかた雪は払い終えたので視線を 先生に向けると、あの先生特有の弱い笑い方をしていた。面倒な生徒に会ったと思っているのだろうか。
ちくり、胸に痛みが走った。

「先生も早いですね」
「あぁ、たまたま目が早くに覚めてな」
「へぇ、そうなんですか」

 私と全く同じだ。そっけない返事を返しながら心の中では一人、運命的なものを感じていた。
胸に暖かい感覚が湧くのと反対にかわいくない返事しか返すことが出来ない自分にうんざりした。授業で習う男の人に 好かれるかわいい女の子になる方法がただの知識となり、実行する事が出来ない、先生の前では。いつだってつんけんし て素直になれない、ひねくれたかわいくない女の子だ。

「そうだ、

いいものを見せてあげよう。
にこりと笑う先生を直視する事が出来なくてすぐに視線を先生の奥にある足跡に移した。私のものとは違って大きいそれ が左の方から続いている。先生は私の返事を聞かずに「ついてきて」と言って歩き出した。
いいものってなんですか?
かわいくない女の子になるのを恐れてそんな簡単な問いかけも口にすることが出来なくて私はただ黙って前を歩く先生の 足跡に自分のを重ねて歩いた。その行為が妙にくすぐったくて誤魔化すように息を吐き出した。

「そういえばは何をしてたんだ?」

 キュッ、それしか耳に入らなかったのに先生が突然思い出したかのように話しかけてきた。私はひたすら頭を空っぽにし て先生の通った道を辿っていたので、理解するのに時間がかかった。その問いに答えるにはさっきまでのそっけない返事 か、少しでも素直になるか、二つの選択肢があった。私は一度深呼吸をして二つの返事を照らし合わせてから一歩踏み出 すことにした。

「...雪を」
「ん?」
「踏んでました」

 きょとんした様子で立ち止まり振り返った先生に、素直になるところを間違えたかもしれないとすぐに後悔の念に駆られ る。早くも素直でかわいらしい女の子になることに挫けそうだ。

「雪に足が沈み込むのは楽しいからな」

 そう言って先生は私に見せるようにゆっくりと足を雪の中に沈みこませた。にやりと悪戯っぽく笑う先生につられて私も 笑った。

「あれが“いいもの”だ」

先生が指差す先を見ればその一角にひっそりと佇む雪とそっくりに真っ白い花が咲いていた。真ん中が黄色いので雪の 上に落ちていることに気づいたけれど花弁だけであったら見落としてしまいそうだ。こんな所に花が咲いてたのか。

「ちょうどここに木があるから影になって見えないんだよ」

 先生は少し得意げに笑みを浮かべて言った。確かに先生の言うとおり大きく鬱蒼と茂る木の陰に隠れるようにあるもので 目に付かない。今は葉を散らしてしまっているけれど、その存在感は大きく、その影にひっそりとか細い木があるので 目立たない。ぽとぽと、と花ごと下に落ちている所を見て色は違うけれどこの形は椿だろうと判断する。赤い椿は見る けれど白い椿はあまり見たことがない。



 じっと椿を見ていると肩を叩かれた、振り返ると先生が「はい」と手を差し出してきた。その手には一輪の白椿が細い枝 ごとあった。その花をじっと見てから先生を見ると慌てたように「折ったんじゃないぞ? 落ちてたんだ」と弁解して きた。どうやら私が枝ごと折ってきたことを批難していると思ったらしい。手を伸ばすのを躊躇っていつまでも私が受け 取らないことに焦れたのか先生が私の腕を持ち上げて無理やり手に握らされた。

「私が持っていてもな、せっかくだからが持っていてくれ」

 眩しく感じる程の笑顔に私は直視する事が出来なくて手の中の白を見てはい。とだけ返事をした。
別にこれが深い意味があるわけでないことは分かっている。男の自分が持っているよりも女の私が持っているほうがいい と思っただけであろう。ただそれだけ。意味なんて無い。言い聞かせながらもどうしても顔が笑んでしまうので顔が上げ られなかった。手の中の椿の花はまだ全開には開いていなくて、多分これから徐々に開花していくのだと思う。

「それじゃあ私は行くよ」

 その言葉に顔を上げればすでに先生は私に背を向けていた。お礼を言わなきゃ、と焦って手の中のほっそりとした枝を 両手でつい力を込めて握ってしまう。

「あ、ありがとうございます」

 思ったより大きな声になり、それの所為でか大きな木からばさ、と雪の塊が落ちてきた。けれどそれに意識をやる余裕も なくて両手に握った白椿を先生に差し出すようにして見せると、先生は振り返り落ちた雪に向けていた視線を私の手の中 に移した。それからついと視線を上にして、かちりと視線が合う。

「あぁ」

 ふわりとした笑顔を残して先生は歩いていった。呆けるように突っ立って見えなくなるまでその黒い後姿を追って、 ついに見えなくなってからはぁ、と熱に侵されてしまったような感覚がする身体の熱を沈めようと息を吐き出す。
けれどもその余韻は冷めることがなかった。
視線を落とすと先程先生に貰った白椿が視界に移る。指で枝を回すと椿もくるりと回った。先生は別に私でなくてもよか った。これに意味は無い。もう一度、己に言い聞かせながらこちらを向いた花に顔を近づけ唇を寄せた。





く色づけ白い花









(20100109) 白椿の花言葉は 理想の恋 可憐 愛らしさ