独特の匂いがする。

保健室に入って来たばかりの時、その鼻にこびり付くような匂いが気になっていたのに、少し経った今では気にならなくな っていた。
右腕の肩から肘にかけて縦に走る傷は見かけには痛そうなのに、すでに今は痛みを感じなくなっていた。血が固まってその傷口を塞いでいる。 それを見てから善法寺先輩は少し顔を顰めて、傷口に塗る薬を薬棚の中から取り出した。「少し染みるよ」すぐ近くで聴こえる 先輩の声に気を取られているうちに茶色の液体が傷口にかけられる。すぐに先輩の"染みる"と言った言葉の意味が分かった 、けど"少し"という意味は分からない。だって、これは少しどころじゃない。
焼けるような痛みが傷口から送られてきて、私は無様に叫んだりのた打ち回ったりしないように唇を噛み締めて、その痛みを やり過ごそうとした。我慢すればするほど、歯が唇に食い込んでいくのだけれど、声を上げないことの方が私には重要だ った。

「次は包帯を巻いておこう」

先輩が包帯を取りに行った隙に小さく息を吐いた。それは先輩の耳にも届かないほどに小さなものだった。薬を塗ら れるのを恐れる臆病者だと思われたくなかった。こんなもの痛くも痒くもないという態度を貫き通してやるつもりだった。 だから唇を噛んでしまったのは誤算だ。こちらに戻ってきた先輩に、こんな傷はどうってことないというふりを続ける ために私は何でもない顔をした。

「腕、出して」

その声の通りに右腕を差し出すと先輩はまたもや顔を顰めた。そしてその顔には見間違いでなければ痛みを感じているよう だった。自分が怪我をしたわけでもないのに、と考えながら私は出来るだけ傷口を見ないようにした。

「あと少し深かったら縫わなきゃいけなかったよ」
「そうなんですか」

それほどに傷が深いのだと先輩は言いたかったのだろうけれど、私は内心縫うことにならなくて良かったと安堵の息を吐いた にも関わらずそれを見ためには出さなかった。何てことはない、という姿勢を崩さずに淡々と先輩に返答した。
包帯を弄っていた手を止め先輩は一瞬、私の真意を探ろうとでも言うように一瞥した。それでも私の表情は揺るがなかった。 自分の本心を隠すのは得意だ。

「縫うことにならなくて良かった」
「...」

本心を隠す私と比べて先輩は感情を表に出しすぎだと思う。隠す気もないのかもしれないが、それでも人のことなのに自分 のことのようにあからさまにホッとした顔をするのを私は理解できなかった。訝しい顔をしていたのか先輩は私の顔を見て 苦笑した。それから慣れた手つきで包帯を私の腕に巻いていく。その際に「少し痛いかも」と先輩が私に注意したが私は 先輩の"少し"は信用できないと思い、訪れるだろう痛みを予想して身構えた。
けれど今度の"少し"は本当だったらしい。あまり痛みが無く、あっというまに上腕は白いもので覆われた。
パチン、鋏で余った少しの包帯を切り出来上がった。

「ありがとうございます」

試しに腕を伸ばして折って、としてから調子をみてみる。少し動きづらさを感じるけれどしょうがないことだと思い、自分 を納得させると先輩が「どう?」と聞いてきた。なので大丈夫という意味を込めて「いいです」と答えた。
「それなら良かった」と言いながらあの優しげな笑みを浮かべたかと思うと先輩は続けて「まぁ、怪我をしないのが一番 なんだけど...これはしょうがないな」と畳の上の治療する道具を片付けながら呟いた。それは私に向けられたものではな く、独り言のようだった。俯いて前髪の間から少しばかり見える笑みは苦々しいものに変化している。 空気が重く感じて私は早々にここを出て行くことにした。留まってわざわざ善法寺先輩と話すことも無い。というよりも 接点も何も無いのに何を話せばいいのか皆目見当つかない。膝をついて立ち上がった。すると先輩が俯いていた顔を上げた。

「ありがとうございました」

軽く会釈をすると一つに結ってある髪が肩の上に落ちた。それを手で払いながら障子まで歩こうとした時、腕を掴まれた。 それが左の腕ならば、どうってことはなかったのだが掴まれたのは今さっき傷を負った右腕だった。少しの衝動でも痛みが 掴まれた手首からぴりぴりと這い上がり上腕の傷口を走るようだった。

「いっ、」

思わず漏れた声は、痛いと発するまでに飲み込んだ。
何を考えてるんだ。ぎろりと腹立たしさのままに少し上の位置の先輩を睨みつけると眉を下げた。それでも手は放されない。

「ごめん」
「大丈夫です。放してください」

冷静に、自分に言い聞かせても言葉はやはり苛立ちを隠せなかった。本当は力づくでその手を払ってやりたいところだった が、たった今治療してもらったという恩もあり我慢した。自分が治療を施した人に対してその傷を痛めつけるような振るまい には到底理解できないけれどそのことを指摘するつもりはなかった。

「ダメだよ。まだ治療してないところがある」

怪我はこの腕だけだ。小さな擦り傷ぐらいならそこら中にあるかもしれないが、そんな小さな傷一々気にしていられない。 それこそ毎日のように直ったかと思えばまた新しく出来るのだから。

「他に怪我なんてしてません」
「本当に?」

疑わしい、と言いたげな目つきにそれよりも早く放して欲しいと掴まれているところを見る。先輩はつられて視線を腕に 落としたくせに、依然そこを掴んで放さない。それどころかその手は徐々に白い包帯を巻いてあるところに近づいてくる。 これといって表情の浮かんでいない顔からは真意が読み取れない。早くここから、否、善法寺先輩から離れたい。
ついに手は傷口の上に辿りついた。びりびり、と痛みが伝わる。遠慮なしで手の力が緩められる事は無い。絶対に私を逃が さないとでもいうようにがっちりと"捕まれ"ている。

「我慢すると唇を噛むみたいだね」

言われると確かに唇を噛んでいたようだ。いつの間にか腕は開放され、その手が近づいてくる。反射的に眼を瞑ると頬を 暖かくてごつごつとした感触で覆われた。そっと目を開ければそれが先輩の手である事が分かった。輪郭をなぞるように その手は動き、親指が顎を伝い唇に這ってくる。その瞬間、なにかが背中を上ってくる感触がして背筋をピンと伸ばし、それ を跳ね除けようとした。先輩がおもしろそうに目を細めるのが見え、腹が立った。恐がっているだなんて悟らせたくない。 フン、と鼻を鳴らし視線を鋭くして睨みつけ、これでもかと生意気な態度を取り虚勢をはった。――どうってことない。
すると先輩はますますおもしろそうに目を細め、口角を吊り上げた。親指は私の下唇の上をなぞり、横に動く。

「ここ、血が出てるよ」

ぴたりと親指の動きがある一箇所で止まった。弱くそこを押され離された時、まるで先輩の指から離れたくないとでも言う ようにぺったりと唇が指にくっついた。離れた先輩の親指は赤くなっていて、血が出ているという言葉が本当だった のだと理解した。ちらりと見上げた先輩は笑みを引っ込めて、建前だけのような小さな笑みを浮かべている。
さっきまで読みやすいと思っていた筈の先輩はどこにもいなかった。

「まぁ、これぐらいだと舐めてれば直るけどね」
「それじゃ、舐めときます」

矢継ぎ早に答えると建前の笑みが崩れ本当の笑みに変わった。ころころと表情が変わる人だ。(正確に言えば笑みの表情 ばかりだけどそれをいろいろな種類に変えている)

「ねぇ、僕の前で虚勢を張るのは意味がないよ」

だってさんすごく"分かりやすいから"。
私の中を踏み荒らされたと思った。虚勢を張ることによって守ってきた私の内側にこの人はやすやすと入り込んできた。 入り込んできたこの男に憤り、守りきっていたつもりでいた自分に恥、私の頭の中は色々な感情でごちゃごちゃになった。 それでも自分を守るために足は動き、一刻も早くこの場から去ろうとした。

「明日も来るんだよ、ぜったい」

振り返らずに障子を思い切り閉めてやった。それでも耳には善法寺先輩の声がこびり付いている様だった。






  れ

怯  

る 








(20100130)