ピンと伸ばされた背筋と、一つに結ってある黒く艶やかな髪がゆらゆらと揺れるのを眺めながら。まるで猫のしっぽのよう だと思った。



彼女――は他の女の子達とは少し違う。

まず私の姿を見ても表情を少しも変化させない。なにも全員が全員私の姿を見れば微笑む、だとかは言っていない。だが、 圧倒的にそういう女の子の方が多いのだ。だけれど、彼女は小さく会釈をしてそのまま何事も無かったかのように髪を揺ら して歩くのだ。
あぁ、彼女にとって私はただの教師の息子というだけでしかないのだな。そう理解したというのに何故か私は彼女を目で追 うことをやめられない。
彼女と私の関係を表す言葉は"知り会い"これがぴったりだ。面識はあるけれど、それだけ。彼女が好きな食べ物も彼女が好き な天気も休日は何をしているだとか、そんなことは一つだって知らない。忍術学園のくのたまで私に対して少しも媚びた 態度を取らない、いつもピンと背筋を伸ばして堂々と歩く。これくらいだ。
私は彼女と距離を縮めたいのか? 私は彼女が好きなのか? 色々な疑問を自分自身に問いかけてみたが、どれも 首を傾げてしまう。唯一、頷く事が出来るのは彼女の事が気になるというものだった。それでもどういう意味で気になる のかと問いかければ、それがとても不明瞭なものであることに気づいた。


久しぶりに会った母上は父上が帰ってこないことに、それはもうご立腹だった。いつものことながら母上の愚痴を聞かされる のは自分なのだ。そして、その話から飛び火するように自分の話になって。やれ、いい娘さんがいるだの。やれ、早く孫の 顔が見たいだの、と言われるのだ。話し終わった時には母上の顔はすっきりとしたものだったが、自分は生気が抜き取られ たかのような心地になった。
こんなことはもう御免被りたい。ともすれば父上に帰ってもらうしかないのだ。私はいつも以上に気合を入れ、学園の門を 跨いだ。今日こそは帰ると言わせてみせる。
意外や意外、父上はあっさりと今度の休みには帰ると言った。拍子抜けする私を前に父上は、そろそろ帰らないとまずいと 冷や汗を流しながら呟いた。なんとも、あっさりしたものだ。いつものように父上は姿を眩ませたりするだろう、と踏んで いた私は仕事が休みの日を狙いやってきたので、ぽっかりと空いた空き時間にどうしたものかと呆けた。日頃から仕事、仕事 と忙しかったものだから、急な暇を与えられると何をすればいいのか分からない。

小松田くんが掃き掃除しているのを眺めながら、頭を掻くと、前から見知った顔がやってきた。一瞬、大きく心臓が一度 飛び上がった。だ。
彼女は立ち尽くすだけの私を見て少々訝しげに小さく首を傾げた。これは初めて見る表情だ。私が見る表情と言えば、興味 など一欠けらも無いというような無関心なものだった。だからか私は少し感動のようなものが胸に湧いた。つまり、彼女の 視界に映っただけではなく、ちゃんと心まで私の存在を知らしめる事ができたと言う事じゃないか。
訝しげな表情を消した彼女は、けれどその瞳にしっかりと私を映して、一歩一歩私に近づいてくる。
一歩、彼女が足を踏み出す度に距離は縮まる。後二歩、踏み出せば私との距離は無くなる、というところでやっと彼女は 歩みを止めた。下から覗き込んでくる彼女の瞳に、間抜けな顔をした私を見つけて表情を引き締めた。

「山田先生なら忍たま長屋の方にいらっしゃいましたよ」

思った以上に落ち着いた声だ、と考えてから私は彼女の声を聞いたのが今が初めてだということに気づいた。この至近距離 も初めてだし、声を聞いたのも初めてならば、話をするのも初めてだ。そう考えると、恥ずかしながら少し緊張してきた。

「あぁ、ありがとう。けれど、もう会ってきたんだ」
「そうでしたか...すいません」
「いや、ありがとう」

それ以上、話をすることなどあるわけがない。何せ、今始めて話をしたのだから。いつもは煩いはずの学園がやけに静かに 感じる。

「それでは」

彼女はそれだけを言うとすぐさま踵を返そうとした。猫のしっぽのような髪が宙を舞ったかと思うと、知らず私は声を上げ ていた。

「今から何か予定はあるかい?」

声量が調節できないかのような大声を上げてしまい、彼女は驚いたように目を丸くさせ振り返った。バツが悪いのを苦笑を 浮かべ誤魔化す。けれど、この行動はどう考えたって不審な物だ。まずいことをした、そう思いながら彼女を見つめる。 彼女は丸くした目をいつものものに変化させ、考えるように一度、視線を上に向けた。

「いえ、特に無いです」

くるり、目玉を回して感情の読めない声音で答える。

「それじゃあ、私の相手をしてくれないかい?」



意外なことに断られると思った誘いを彼女は頷きながら答えた「いいですよ」それから私にどこか行く予定かと聞き、手持ち 無沙汰であった旨を答えると「それなら食堂に行きませんか」という彼女の誘いにのり、私は今食堂にやってきていた。 あまりにもたんたんと決まっていく、そう思いながら調理場でお湯を沸かしているの後姿を見やる。じろじろと見れ ば彼女とて私の視線に気づくだろうと思い、抑え目に見つめる。
食堂のおばちゃんはどうやら留守らしい。食堂の中には人の気配など一切せず、シンと静まり返っていた。それでも、彼女は 慣れた様子で薬缶に水を入れ、それを沸かし始めた。
くのたまの子達と言えば、私の姿を見ればくすくすと笑いあったり、微笑んだり、甘い声で話しかけてきたり、と様々だが、 いずれも私に興味がある様子だった。それなのに彼女には一切そんな様子が無い。このお茶会も、ただ暇な人に付き合って あげているという風でしかない。先程から、一向にこちらを振り返らない彼女にその考えは正解であると言われたようなも のだ。小さく落胆するかのような溜息をついた自分がいて、私は驚いた。彼女が私に興味が無いのが、不満だと思っている のか――

「なにか?」

急に彼女が振り返り、その瞳に私が映りこむ。彼女の事を考えていたので驚きと後ろめたさを感じる。

「いや、ずいぶん慣れているね」

そう言いながら薬缶を指させば、私の指の先を確かめて彼女が薬缶に視線を落とした。伏せ目がちな瞳に睫毛がかかってい て、影を落としている。

「時々、おばちゃんの手伝い当番が回ってくるので」

しれっと答えた彼女はそれ以上会話を続ける気はないのか、また体を薬缶に向けた。私からはまた、後姿しか見えなくなった。
やがて、シューという音をたてて薬缶の中の水が沸騰した事を告げた。
あらかじめ用意してあった急須に彼女がゆっくりと湯を注ぐ。それを私は頬杖をつきながら眺めるが、彼女は一切私の方を 見ない。まるで、私という存在が居ないかのようだ。

「もう少し待ってください」

突然、私に向けられた視線にどきりとする暇も無く、視線は外された。当たり前だが、やはり私は存在していたらしい。
茶葉が湯の中にしっかりと染み出すのを待っているらしい、彼女は急須に視線を落とす。私は彼女と同じように急須に視線 をやるのではなく、彼女のその横顔を眺めていた。ちょうど柔らかな昼の光が彼女に降り注いでいて、黒い髪が陽に透け 、金色になっている。瞳にもいつものような無感情な光ではなく、安らいでいるような柔らかさを感じる。
いつまでもこうしていたい、そう考えている自分に気づき私は驚いた。仕事中毒とはよく言ったもので、仕事をしていない と落ち着かないと常から考えている私が茶が出来るまでの身動きしない時間を心地よく感じるなど思いもよらない出来事だ。 やんわりと吹く風が彼女の前髪を揺らし、それをくすぐったそうに手で払った彼女に目を細める。
「そろそろかな」囁くように彼女が呟いたかと思うと、急須を持ち上げ湯呑みの中に注いだ。薄く緑に色づいた湯は 、とくとくと湯呑みの中に注がれる。
あぁ、これで終わりか。さっきまでの時間を惜しむ気持ちで小さく息を吐く。

「どうぞ」
「ありがとう」

向かい合って座った食堂の席で目の前の彼女は少し熱そうに湯のみを両手で包んでいる。それを横目に私は手の中の湯気を 立ち上らせた湯のみに口を付けた。

「...おいしい」

お世辞でも何でもない、思いついたままの言葉だった。思わず呟いてしまうほどにおいしいと思った。見かけには何の変哲も ないただのお茶なのに、今まで飲んだどのお茶よりもおいしいと思ったのだ。向かい側の彼女に視線を向けると、僅かに目を開いて いた。

「いや、お世辞じゃなく本当においしいと思ったんだよ」

慌てて言えば彼女は「ありがとうございます...」といつもからは想像できないような小さな声で呟き、徐々に俯いていった。 遂にはつむじしか見えなくなった姿を見て、ようやく彼女が照れているのだと理解した私は口元を緩めずにはいられなか った。




それと同時に理解した、これは恋だ。








まどろみの茶会









(20100221)真砂さんリクエストありがとうございました。