玄関のドアを開けると冷たい風が吹き込んできた。ある程度の寒さを予測して身構えていたのだけれど想像以上の寒さに思わず首をすくめる。 マフラーを口元まで引き上げて手袋をしっかりとはめて家を出る。「いってきまーす」とマフラーによって多少くぐもった声が出たけ れど家の中まで聞こえたらしい。「いってらっしゃーい。気をつけてねー」と言う母の声が背後から返ってきた。
 暖かい家から離れがたい気持ちを押さえ、歩き始める。肌を刺すように冷たい風は無防備な足も容赦なく攻撃してくる。 絶対に学校に着いた時には膝小僧が真っ赤になっているに決まってる。そんなことを考えながら、まだ誰も登校する生徒が いない通学路を鼻を啜りながら歩く。
 いつもならまだ、ストーブの前にへばりついている時間なのに、何故私がこんなにも早く家を出たのかというと、日直だか らだ。だが、日直と言う理由だけではここまで早く家を出ない。少しは早く出るが、まだ家の中でとろとろと制服に着替えて いるころだろう。なら何故こんなに早く出たのかというと...

「おはよう」

 突然背後から聞こえた声に思わずビクリ、と肩が揺れた。その上小さく「わ」なんて声を上げてしまった。恐る恐る隣へと 視線を移せば今日、私がこんなにも早く家を出ることになった原因の人がいた。

「ごめん、驚かせた?」

 ごめん。なんて全然思っていなさそうに笑いながら善法寺くんは白い息と共に謝罪の言葉を口にした。カラカラと善法寺くんの自転車の 車輪が鳴っているというのに考える事に没頭しすぎていて全然気づかなかった。

「...おはよ。心臓が止まるかと思ったよ」

 軽口を返せば、小さい笑い声が返ってきた。鼻が少し赤くなっている善法寺くんは寒そうなのにマフラーを私のように口元 まで隠しては居なかった。白いもやになった息が空気の中に解けていくのがよく見える。

「今日は一日よろしく」

 屈託ない笑みを浮かべて善法寺くんが言った。

「よろしく」


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 まだ新しいクラスにも教室にも友人にも慣れていない春の頃。私と善法寺くんは二人で日直当番になった。黒板の右端に日付 が書かれており、その下に"善法寺"と""の名前が仲良く並んでいた。それを見ながら私はどこか他人事のように、 あぁ、明日私日直なんだ。と思ったのを憶えている。
 当日、私はいつもより早く家を出た。まず学校に着いたら職員室に行って日直日誌と出席簿と教室の鍵を貰いに行かなくちゃ いけない。この時点で私は同じ日直当番の善法寺くんに一ミリも期待などしていなかった。善法寺くんがどういう人だか知らない けれど、こういう時男の子というのはあまり積極的に当番するものではないと思っていたからだ。
だが、その私の考えを裏切って善法寺くんは一足先に用を済ませていた。まさか、と思い教室に行くとすでに教室の鍵は 空いているし、窓も全開に開け放たれていた。驚く私を他所に善法寺くんは席に着き俯いていた顔を上げ、爽やかに笑った。

「おはよう」
「お、おはよう」

 今まで話をしたこともないのにさらりと挨拶をされ私は少々面食らった。そして、一種の衝撃を受けた。こんなに爽やかな 人だったのか...。

「あっ、日直の全部してもらったみたいで、ありがとう」

 いつまでも衝撃を受けているわけにもいかずお礼を言うと、善法寺くんは少し意外そうに驚いたようだった。何が意外だった のか、実に気になるところだが親しくもないのに突っ込むことも出来ずそこはスルーする事にした。

「いいよ。たまたま早く来たからやっといただけだから」

 いつまでもボケッと入り口で立っているわけにもいかないので、肩にかけた鞄をかけ直しながら自分の席まで行く。

「まだ、何かやることある?」
「うーん。じゃあ日誌書いてもらってもいい?」
「うん。いいよ」

 返事を返しながら鞄を自分の席に置いてから、善法寺くんの席まで歩いた。そこで善法寺くんが机の上に広げていたのが 日誌だったのだと分かった。そしてまだ真新しいそれをぺらりと捲ってみると、今日の日付に名前に時間割とが、すでに書き 込まれていた。

「もう書いてくれたの?」
「あぁ、うん。今書けるところまでは」
「ありがとう」


 その日は色々なことを善法寺くんがやってくれた。例えば移動教室のとき鍵を閉めるだとか(そして鍵を開けるのも)黒板 を消すのも、授業の号令も、とこちらが申し訳なくなるほどに色々としてくれたのだ。 「私がやるよ」と言っても「いいよ、僕の方が背が高いから」と黒板を消してくれたり「いいよ、僕鍵かけるの上手い から」と言ったり(正直鍵をかけるのが上手いと言う意味が分からないが)それでも善意でやってくれていることは分かって いるので、それ以上言うのもなぁ、と思い善法寺くんに甘える事にした。

 それからは男子と女子の人数が一緒ではないので、共に日直をする機会はなくなったかと思った。のだが... そのリベンジをするチャンスが私に訪れた。それが今日というわけだ。
鶴の恩返しならぬ、の恩返し。なので今日はいつもより早く家を出てきたのだが......。
前の反対で私が先に全ての日直の仕事を終わらせようと思っていたのに、綿密に計算された計画(=早起き)は初っ端から 転んでしまった。
(まさか善法寺くんがこんなに早く登校してくると思わなかった。)
上手くいかなった計画に思わず肩を落とすと、隣から視線を感じた。自転車なので私を置いて先に行くと思われた善法寺 くんはそのつもりがないのか、ずっと自転車を手で押している。

「あっ、先に行ってくれていいよ」

 自称鍵をかけるのが上手い善法寺くんから鍵を取れるか、黒板消しを取れるだろうか、と考えながらそれだけを言うと善 法寺くんは眉を寄せて苦笑を浮かべた。私は何かまずい事を言ったのだろうか。

「僕と一緒に行くのいや?」
「いや! そんなつもりで言ったんじゃないよ!」

 慌てて言うと、善法寺くんの表情は柔らかなものへと変化した。それからおかしそうに喉を震わせて「冗談だよ」とも言った。 それからまた歩き続ける。正直善法寺くんと話すことなんて思いつかないので、先に言ってくれた方が良かったなぁ。なんて 思いながら首をマフラーの中に縮こまらせる。

「そういえばさ、」

 このまま沈黙が続くかと思われたが、それは案外あっけなく善法寺くんによって破られる事になった。視線を隣に向けると 善法寺くんも私を見ていた。

さんはさっきの曲がり角、右に曲がるでしょ?」
「うん」

 たしかにさっき私は右の曲がり角を曲がってきた、と思い出しながら返事を返す。

「僕は左なんだけど」
「そうだね」
「え、」
「えっ」

 突然止まった会話と足につられ、私も足を止めると何やら驚いた様子の善法寺くんがいて先程の会話を慌てて思い出す。
ま、まさか、ストーカーとか思われた? そんなバカな! とは思いつつ変に誤解されてはたまらないので言葉を補う。

「たまたま左に曲がった善法寺くんを見たことがあって...」

 なんとも言い訳がましい言葉だと自分で思いながら、ちらりと隣を伺うと「たまたまか、」と言いながら善法寺くんがまた 歩き始めた。何とも歯切れの悪い返事だったが、それ以上突っ込む事も出来ずそのままそこは流す事にした。

「前にさん、右の曲がり角の方においしいたこ焼きやさんがあるって言ってたでしょ」
「あ、うん」

 その話はよく憶えている。なんせ自分でも興奮しすぎたと後で恥ずかしい思いをしたのだから。
あれは一緒に日直をした時、放課後に残って日誌を書いていた時のことだ。今となっては何がどうなってたこ焼きの話に辿り着いたの か思い出せないけれど、 たこ焼きについて熱弁する私に善法寺くんは楽しそうににこにこ笑いながら相槌をうってくれていた。思い出しても恥ずかしい どれだけ食い意地がはってるんだと思われても仕方がないほどにあの時の私はたこ焼きについて熱く語っていた。
出来る事なら忘れていて欲しいと思っていたのだが、私の願いをよそに善法寺くんはばっちりと覚えてしまっていたらしい。 またしても羞恥心を覚え、私は誤魔化すように頭をかいた。

「それで一回友達とそのたこ焼き屋に行ってみたんだけど、あっちの道ってあんまり行ったことないから、  どこにそのたこ焼き屋があるのか分からなかったんだ」
「あー、ちょっと入り組んだ所にあるから分かりにくいかも...」

 たこ焼き屋までの道を思い出すと、確かにたこ焼きは分かりにくい所にある。表の通りにはなく、細い道を行かなければ その店にたどりつく事が出来ない。なので知る人ぞ知る。という感じの店なのだ。だが、私はそこの所も含めてとても気 に入っている。

さんがそんなに絶賛するなら一度は食べてみたいと思ってたんだけど...」

 ひどく落ち込んだように聞こえる善法寺くんの声に、そんなにたこ焼きが好きなのか? と考えてみる。
そして、こんなことで日直の恩返しになるとは思わないけれど少しでも恩返しできるかもしれない、とも考えてみる。

「良かったら今度連れて行ってあげようか?」
「えっ、いいの?」
「うん。善法寺くんが良かったら」
「うわぁ、ありがとう」

「楽しみだなぁ」と呟いた善法寺くんは本当にたこ焼きが好きなのだろう。私としてもあのたこ焼き屋さんのファンが増える ことは嬉しいので、一緒になって頬を緩める。

「それじゃあ、その時は二人で行こうよ」
「え、うん」

 特に何も考えずに頷くと善法寺くんの笑みがますます深いものに変わった。自分が好きなものを他の人に紹介してその人も 好きになってくれるというのはとても嬉しい事だ。一種の高揚感のようなものを感じながら、それじゃあいつ行くことにす る? と尋ねようとしたが、さっきまで正面を向いていたはずの善法寺くんがじっとこちらを見ていたので思わず言葉を 飲み込んでしまう。ごくん。と言葉は喉の奥へと流れていってしまった。そして何故か歩みを止めてしまった私の足につら れるようにして善法寺くんも歩くのを止めた。寒さの所為なのか善方寺くんの鼻の頭と頬は赤くなっている。マフラー上ま で上げればいいのに。そういう私も話し話づらかったので口元まで引き上げられていたマフラーは首の所に留まっている。

「なんだかデートみたいじゃない?」

 ますます赤みを増す頬に、寒さの所為じゃなかったのかと考えながら自分の頬にも熱が上がっていくのを感じた。







Angel of spring!
(春の予感)









(20100305)千雪さんリクエストありがとうございました!