視界にその黒がちらつくと私はそちらに視線をやらずにはいられない。


こちらに気づくことはなく、その黒はそのまま角を曲がって消えた。じっと瞬きさえも忘れ、その黒を目で追っていた私 は無意識に息を止めていたようで、空気を求めて大きく息を吸いこんだ。
「話しかければいいのに」
呆れ半分に友達は言う。けれど、私は横に首を振った。
「見てるだけじゃどうにもならないよ」
私に言い聞かせるように彼女は続ける。それでも私は「いいの」と答え、首を振った。












黒が全てを包む夜が好きだ。それは似て非なるもので模造品でしかないけれど、何の混じりけもない黒(例えば夜空の 下の影だとか)は、もしかすると先生の胸の中に顔を埋めればこういう色なのかもしれないと考えると嫌いになんてなれる訳がない。
土井先生の黒も他の先生の黒も同じように見える、と言っていた友達に向かって私は全く違うのにと胸の中で呟いた。 今夜の空は少し青みがかっていて、先生の黒とは少し違う。けれど、今まで先生の 黒と全く同じ黒の夜空に出会ったことはなかった。今日のように少し青みがかっていたり、赤いときもあった。月の光りが 強すぎることも。どれもこれも先生の装束の色と同じものではなかった。それでも夜空を見上げながら目を瞑れば、先生の色と似た色になる。 こんな事に気づいたのはきっと私だけだろうな、と考えると誇らしく思うのだけれど、ほんの少し空しくもあった。 膝を抱え座り込んだ床の上は冷え切っていて、最初こそは冷たいと思っていたのだけれど今ではさほど気にならなくなって いた。吐き出した息はきっと白いのだろう、だが私には確かめる事が出来なかった。明かりを灯すものを何も持っていなくて、 布団の中から起き出してきたままの格好だったからだ。一向に訪れない眠りに、布団の中から抜け出してきたのだ。
いつもの喧騒が嘘のように学園の中は静まり返っていて、ここがどこだったのか忘れてしまいそうになる。静寂はこの世界 に私一人しかいないような錯覚に陥らせる。

「もうとっくに消灯時間は過ぎてるぞ」

急に聞こえた声に心臓が飛び上がった。反射的に声の聞こえた左を見てみると黒の中に浮かび上がるようにして、あの私が探し求めて 止まない黒が立っていた。また違う意味で驚いて、声を発する事が出来ない私に土井先生は何を勘違いしたのか「すまない 。驚かせてしまったな」と申し訳なさそうに謝った。それから足音一つさせずにこちらに近づいてきた。慌てて立ち上がった 時には、もうすぐそこまで先生は来ていた。

「眠れないのか?

優しい響きで問いかけられる言葉は間違いなく私だけのもので、先生の中に今私が存在しているのだと思うと胸がどきどきした。 先生は手に灯りを持っていなかったので、辺りは相変わらず暗いはずなのに私には先生が気遣わしげな表情を浮かべている のが見えた。

「目が冴えてしまって...」
「そうか、だが出歩くのは止しなさい」

先生の言葉を合図にするように体の芯から冷やそうと目論んでいるような風が巻き起こった。あまりにも強い風に薄く目を瞑り 、それをやり過ごす。数秒経ち弱くなったそれに目を開くと、目の前にあの黒があった。

「ほら、風邪をひいてしまう」

頭の上から降ってきた声に、先生が風除けになってくれたのだと理解した。私には風があまり当らないというのに先生の 装束は風にはためかされている。さりげなくこんな事にまで気を配ってくれる先生は本当に素敵な人だ。けれど同時に罪 な人でもある。これ以上先生を好きになることなんてないと思っていたのに、いとも簡単に先生はその私の予測を打ち破って くれた。それが良い事なのか、悪い事なのか私には判断できない。ただただ制御出来ない心はこの思いを加速させる。 そんなことを考えている私をよそに先生は両手を私の肩に乗せるとくるりと私を回転させた。すると、今まで見えていたあ の焦がれて止まない黒ではない、何の変哲もない夜を表す黒が視界を覆い尽くした。
それでも肩の上に乗せられた暖かみが私の胸をどうしようもないくらいに高鳴らせる。

「それじゃあ部屋に戻るんだぞ」

その言葉を言い終わるか終わらないかの所で、そっと背を押された。ととと、と三歩進んで慌てて後ろを振り返った時には 先生の影も形もなくなっていた。ぽつりと一人取り残されると、先程の事は夢なのかもしれないと考えるのに仄かに熱をもった 肩が現実なのだと知らせている。
空を彩る黒は、やはり先生の色ではない。







詠み人知らず
知らせるつもりはない、否、知られてはいけないこの恋はいったいどこに向かうのでしょうか?









(20100314)みどうさんリクエストありがとうございました!