委員会が始まるまでの僅かな時間、墨を摩りつつ後輩たちが集まるのを待つ、精神を集中させこれから始まる長い夜に向け 気合いを入れる。この行為は習慣になっていた...と言っても俺が部屋に着いたのが一番だった時に限られるのだが。
硯を摩り下ろす音と、香ってくる匂いに不思議と心が落ち着くのを感じた。




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輪郭を象る
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先程まで自分が墨を摩る音しかしなかった部屋の中はがやがやとうるさいものになっていた。
後は三年の神崎左門と の二人が揃えば会計委員会が全員集合する事になる。というのに、一向にあの二人がやってくる気配がない。左門は一人で ここに辿り着く事が出来るのか不安なので同い年と言う事もあり、いつもが左門を連れてくることになっている。
まさかそのが道に迷ったなどということはないだろうに。すっかり考えに意識を集中させてしまい筆を持つ手の動きが 止まってしまっていた時だった、僅かにこちらに向かってきている気配を感じた。
一人分のそれに、左門はの手を振り切りどこかに行方を眩ませたかと予想する。だが、予想を裏切り部屋の戸を開けた のは左門だった。

はどうしたんだ?」

今まさに口をついて出そうになった言葉は一瞬の遅れを取り、三木ヱ門に先を越された。左門は体に付いた葉っぱやら泥 やらを手で払っていた。その姿を見れば人が通らない所をうろついて来たことは一目瞭然だ。

「実習中に怪我をしたから保健室に寄ってから来るそうです」
「あー! 汚れを落とすなら外でにしろ、馬鹿!」

三木ヱ門の怒鳴り声が遠い所で聞こえたが、そんなことよりも左門が言った言葉に意識は占領されてしまっていた。
が怪我をした?

「どの程度の怪我なんだ」

気付けば口をついて出た言葉に自分で驚く。左門はいつのまにか部屋の中には居らず、戸から顔だけ覗かせて答える。

「見てないんで分かりません! けど、大した事ないっての友達が言ってました」
「...そうか」

それ以上、言葉は見つからなかったので会話を打ち切る。


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ばちっ!

またやってしまった、慣れた動きであるはずのそろばんを弾く手が思うように動かず、イライラしてしまう。苛立ちに任せ 頭を掻き毟りたいが、後輩達の目があるということで手を握り留める。認めたくはないが、一向に現れないがこの苛立 ちの正体であることは分かっている。
...大したことがないと言うわりに遅すぎやしないか。
このままここに居てそろばんを弾いても一向に答えは導き出せないだろう。にしても、帳簿の計算にしても、それなら ば、と立ち上がる。一斉にこちらに向けられる視線を避けながら戸口に向かう。

「...厠に行って来る」



知らず、そろそろと足を運んでいたことに気付き、何を隠れる必要があるのだ。と自分で自分に叱咤する。保健室の戸は きっちりと閉められており、中の様子は分からない。だが、気配を探れば中に人が居ることは分かる。もう少し、近づいて も大丈夫だろうか、と足を一歩進める。

「...何してるの、文次郎」

後ろを急いで振り返ると、伊作が嫌そうに顔を歪めて立っていた。その目は明らかに俺のことを怪しんでいる。
保健室の中にばかり意識を持っていたものだから伊作が後ろにいた事に気付かなかったのか...己の未熟さに苛立つ。

「あぁ、いや...何でもない」
「何でもないのに何でここにいるの」

伊作はますます怪しいものを見る目で俺の事を見ている。じとりと、した目つきは俺の嘘を見抜いているようだった。 だが、ここでの様子を見に来たなどと言えば、からかわれることは目に見えている。

「あれっ? 潮江先輩?」

後ろから聞こえた声に振り返るとが保健室の戸口から顔だけを覗かせてこちらを見ていた。驚いたように目を少しばか り見開いている所を覗けばいつもと変わりない様子に見える。起き上がることも出来ているようだし、本当に大したことが なかったらしい。思わず安堵の息を吐く。

「...ふーん」

何やら意味深に"何か"を心得たようにニヤリと笑みを浮かべ伊作が頷いた。そのいやらしい笑みに「なんだ!」と怒鳴るも 伊作は怯むどころか、一層笑みを深めた。何か言い知れぬものを感じた俺は背中を冷や汗が伝うのを感じた。

「...そっか。文次郎はさんを...ね」

春か...。と呟いた声が聞こえた気がしたが、それをかき消す勢いで俺は声を張り上げた。

「よしっ! 委員会に行くぞ!」
「え、はい!」

早く伊作から離れたいと急ぐが、そこで威勢のいい返事をしたはずのが付いてくる様子がないので動きを止める。は 未だ、保健室の中から一歩も出ていなかった、のろのろと戸に手を付いて立ち上がっている。様子のおかしいに首を傾げ ながら手を貸す。「すいません」と眉をハの字にして笑うの手を引っ張り上げるとようやく立ち上がった。そして、重心 を右に傾けている様子を見て納得した。

「...足か」
「はい、少し失敗してしまって...」

またも情けない顔をして笑うを無視し、手を伸ばす。「えっ? あの、先輩?!」ぐっと近くなった距離に声が耳に直接 聞こえてくる。

「やかましい。掴まれ」
「は、はい」

手が首に回された事によって、さっき以上に距離が近い...というよりも密着している。今更ながらにその事実に焦るが、後 には引けないとを抱きかかえ歩く。息がかかりそうなほどに近いの赤くなった顔に、ふわり香った嗅ぎなれない 甘い匂いがこの事実が現実離れしたもののように感じさせる。

「...これの方が早い」

言葉にしてから言い訳がましかったと気付く。バツの悪い思いで居るところに後ろから伊作の「文次郎ってば大胆ー」 と言う声が聞こえ、ますます追い討ちをかけられる。少々強引過ぎたかもしれない、と少しばかり反省しながら、ちらりと の表情を伺う。するとも俺を見ていたらしい、ばっちり目が合ったかと思うと恥ずかしそうにはにかんだ。それか ら俺の首に回されていた手に力が入り、ぎゅっと抱きついてきた。零になった距離に心臓が大きく跳ね上がる。

「...確かに、この方が早いですね」

耳に直接響いてくる声に先程の反省は吹き飛んだ。








(20100406)25000を踏まれたロカさんへ。リクエストありがとうございました!