足場がぐらつき「あ、」と声を上げた時には浮遊感。

ぽっかりと丸く茜色の空が切り取られたかのように見える。だが、実際は私が丸く開いた穴の中に居るだけなのだ。
間抜けにも私は罠が仕掛けられている事に気付かずに足を踏み出し、穴の中に落ちた。だが、よく考えて欲しい。 そもそも何故私が穴に落ちる事になったのか! それはつまり、ここにどこぞの馬鹿が穴を掘った所為だ!
沸々と湧き出る怒りのままに土の壁を叩くも、穴はびくともせずに私の手が汚れただけだった。生憎と、この穴の中から 脱出できるような物は持っておらず、私はしょうがなく誰か救世主が訪れるのを待つ事にした。(このまま誰も通らない という可能性については見てみぬふりをして...)


「おやまぁ」


聞こえた声に思わず眉が吊り上がる。サッと上を見上げれば私が望んでいた救世主...などではなく、小憎たらしい顔をし た綾部が私の居る穴の中を覗いていた。その顔を見ると同時に今まで沸々と湧き出ていた怒りが沸騰して爆発した。


「あほ綾部! ここから出せ!」
「これはこれは...活きのいいのがかかった」


芝居がかった調子で綾部は顎を撫でながら喋る。それさえも腹が立って今すぐに殴ってやりたい。握った拳の行き先は綾部 の頭に決定した。だが、殴るにしてもまずはこの穴の中から出なくてはならない。


「私は魚か! いいからここから出せ! 綾部のハゲ!」
「はげ...」


適当に口から出た罵倒の言葉だったのだが、綾部は敏感にハゲという言葉を聞き取り、ぱちくりと瞬きした。
それから徐々に後退し始めた。ここで帰られてはもしかするともう誰も通りかからないかもしれないと焦った私は慌てて 大声を上げ、綾部の後退を止めた。


「わー! ちょっと待って! ごめん、間違えた綾部はハゲてない!」
「あー、驚いた。さっきまであった髪がなくなったのかと思って確認しに行くところだった」


飄々とした調子で嘘をつく綾部に若干イラつきながらも、我慢我慢...と自分を押さえ込む。 ここは一応下手に出て、この穴から出してもらおう。穴を出たらこっちのものだ。思いっきり頭殴ってやろう。 綿密に計画を立てながら、上に居る綾部に手を伸ばした。


「ここから出るのに手、貸して」


だが、綾部は私の手を取る素振りもせずにジッと私の事を見下ろしている。無言で、瞬きさえもせずに見てくるものだから、 見られている方としては落ち着かない。もしかすると、ハゲと言ったのを相当気にしているのだろうか...。
将来、ハゲそうになんてないけど、もしかしたら綾部の中の触れてはいけないところだったのだろうか...そうだとしたら 別に意味の無い罵倒だったのだが、私の一言で綾部の心に多大な打撃を与えてしまったんだろうか。だとしたら悪い事 をした。謝るべきだろうか...と思い、上にいる綾部を恐る恐る見てみる。


「あ、」


すると、突然綾部が声を上げた。目を真ん丸にさせてジッと私の事を見ているのに変わりは無いけど口は「あ」の形で 固まっている。「あ」ってなんだ。
「あーぁ、お前もうマジありえねーよ。今日はそこで寝とけ」の"あ"なのか。
「あっ! そういえば急用思い出した」の"あ"なのか。
どちらにしても私にとっては恐ろしい言葉である。ハラハラしながら綾部の次の言葉を待つ。


「...」
「...」
「...」
「...えーと、さっき何か言いかけてなかった?」


いつまでも話す様子の無い綾部に痺れを切らせて、自分から切り出してしまった。綾部はぱちぱちと大きな目を瞬いてから 「うん」とだけ返事をした。


「えっと、私に言ったんじゃないの?」
「違うよ、独り言」
「そう...」
「うん。いつもなら見れないものが見れたから」


謎掛けのような綾部の言葉に私は首を傾げた。それに合わせる様に一緒になって綾部も首を傾げる。将来ハゲそうにない、ふわふわのくせっ毛が 揺れた。どうやら私のハゲと言う言葉についてはそれほど気にしていないようだ。 茜色だった空は徐々に紺色にその姿を変えてきている。このまま綾部との会話(なのだろうか、果たしてこれは...) を続けていれば、すぐに夜になってしまいそうだ。ちらりと見た、綾部は相も変わらずに私の事をジッと見続けている。居心地が 悪いったらありゃしない。


「あの、そろそろ出してくれませんか」


綾部の機嫌を損ねるのは得策ではないと考えた私は綿密な計画通り、下手に出た。


「出たいの?」


ぱちぱちと瞬いた綾部は、驚いた顔をして見せた。お前っ、さっきから出たいって言ってるだろ! と怒鳴ってやりたい所だが、 そんな事をすれば綾部がへそを曲げてしまう可能性がある。ごくり、と言葉を飲み込み頷く。


「出たい」
「困ったなー」


別に何も困った事など無い。むしろこのまま穴の中から出れないほうが困った事態なのだが、綾部にとっては私がこの穴から 出る事が困った事らしい。


「そんなに出たいの?」
「ものすごく出たい」
「あとちょっと待てない?」
「...あとちょっとってどれくらい?」


何やら本当に私がこの穴から出ると(綾部にとっては)困った事があるらしい。渋り、何度も私にここから出たいのか、と 聞くものだからその理由について私は知りたいと思った。綾部は私の問いに、うーん、と唸りながら上を見た。


「私が大きくなるまで」
「それってあとちょっとじゃないじゃん!」
「じゃあ、よりも大きくなるまで」
「それだって、何ヶ月も先の事だろが!」


私の言葉を聞いた綾部は何故だか目を大きく開いて驚いたようだった。


「そんなにかかると思う?」
「かかるんじゃない?」


綾部と私の身長差は結構ある。女の子は男の子よりも成長が早いのだ。三木と滝と綾部と私、四人並んで立っていると私が 一番でかい。そこにタカ丸さんが加わると、私は二番目に大きくなるわけだけど......。 それでも五年生になると私よりも大きい人ばかりなので、きっと五年生になるまでの間に三木にも滝にも綾部にも身長を抜 かされるのだと思う。そう考えると面白くないけれど、男の子と女の子では身長はもちろん色々な所が大きく違うのだ。 そしてその変化が顕著に表れるのが今ぐらいの年なのだと思う。


「そうか...」


残念そうに呟いた綾部の真意はよく分からないけれど、私よりも大きくなりたいと思っている事は分かった。
どこか遠い所を見ている綾部は気のせいでなければ、落ち込んでいるように見える。そこで私は、何で私が励まさないと いけないのか、と不満に思いながらもここから出るためだ。と自分を納得させて綾部に話しかけた。


「大丈夫だよ、すぐに追い抜くよ」
「...ホントに?」
「ほんとほんと(知らんけどな)」
なんてすぐに追い抜かせる?」
「(なんて、だと? こいつ!)あぁー、すぐかどうかは知らないけど」
「すぐじゃないの?(しゅん)」
「(やべっ)いや! きっとすぐだよ」
「そう。それなら良かった」


綾部はその言葉どおり安心したように、少し、ほんの少し頬を緩めた...ように見えた。
何がそんなに嬉しいのか私には分からない、だってどうせは綾部も三木も滝も私の身長なんて近いうちに越すに決まっている んだから。遠い目で見上げた空の色は茜色から紺色へと変わってきていた。ぼんやりと茜色と紺色の狭間を見つめる。 綾部も一緒になって私の視線の先を眺めている。そして、なんてことない調子で呟いた。


「やっぱり好きな子よりかは大きくなりたいよね」
「?!」






未だ成長途中









(20100522)