「こんちはー」

ぺこりと頭を下げた拍子に高い所で一つに纏めた長い黒髪が揺れた。それを目で追いながら「こんにちは」と返し、食後の一杯 に飲んでいた熱いお茶を啜った。
忍術学園にしては珍しく静かな昼下がり。実習が重なったとかそんなところだろうか。天気もよく、いつもであれば 元気よく忍たまが外を走り回る姿が見えるはずのところに今は人っ子一人居ない。それどころか、子供達の声さえも 聞こえないのだ。いつもの騒がしさを考えれば異常だと思ってしまうほどに静かだが、たまにはこんな日があっても いいんじゃないだろうか。
久しぶりにゆっくりと味わって食べる事が出来た食事はとてもおいしかった。おばちゃんが作ったからと言うのも もちろんあるだろうけれど。

「ここ、いいっすか?」

尋ねたくせしてすでにその声の人物は椅子を引いて目の前の席にどかりと座った。もう少し静かに行動できないのだろうか、 というよりも女であるのだからもう少しおしとやかに出来やしないものだろうか。喉の奥から湧き上がってきた言葉は言っても 無駄なものだと判断し、言葉にはしなかった。
だが、ささやかな抵抗にとその行為を咎めるため息を吐いた。
それに対しての反応はなく。彼女は視線をちらりともこちらには向けなかった。

「いっただきまーす」
「おのこしは許しまへんでー」

いつものおばちゃんの言葉が飛んできた。それに「はーい」と元気よく答えた彼女は手に持った箸でしょうが焼きの 豚肉を一切れ掴み、口に運んだ。それからお茶碗の中から湯気の立つ米を箸に乗せた。
粗い言葉使いや動作が目立つわりに彼女の箸の使い方はとてもきれいだ。食べる姿だけ見れば、どこかの良いところの お嬢さんであるのかと騙されてしまいそうになる。感心しながら、目の前の箸捌きを見ていると、彼女がしょうが焼きを映して いた瞳に私を映した。少し眉根を寄せつつも油断ない目つきで私を見ている。

「...あげませんよ」
「いらない」

何を言い出すかと思えば、しょうが焼きを取られる心配をしていたらしい。呆れながら返した言葉は本心のものであったのに 彼女は私の言葉を信じていないようで、明らかに疑っている目をしながらおぼんを自分の方に寄せた。
口に箸をくわえたままにそれをするのだから、行儀もなにもあったもんじゃない。

「いやしい奴め...」
「それは君だろう!」

聞き捨てならない言葉に即座に言い返すと、じとりとした視線が返ってくる。
顔にはありありと“いや、お前こそがいやしい奴だ”と書いてある。

「...私のしょうが焼きを狙ってるんじゃないならこっち見ないでくださいよ」

シッシッっとまるで犬を追い払うかのように手で払われたことに怒りが湧いたが、ここで相手にすれば事態はこんがらがることになるのは 目に見えて分かる。
私は大人なんだ...。自分に言い聞かせ、喉元まで出てきていた言葉をお茶と一緒に飲み込んだ。

「...たくっ、食事くらいゆっくりさせてほしいもんだ」
「それはこちらの台詞だ」

私の手がしょうが焼きに伸びるのを警戒するように横目でちらちらこちらを伺いながら彼女はご飯を口に頬張った。 だが、それも長くは続かなかった。
もぐもぐと咀嚼を繰り返すうちにその表情はとろけていった。
口いっぱいにしょうが焼きとご飯を頬張った彼女は大層幸せそうな顔をして、咀嚼を繰り返す。
ぱんぱんに膨れ 上がった頬とへにゃりと力の抜けた顔が面白くて毒気が抜かれてしまった。思わず小さく忍び笑いを漏らす。だが、彼女は 私が笑った事にも気付かずに未だに幸せそうな顔をしている。
頬が膨れ上がるほどに口の中に詰め込んでいるのだから、彼女がそれらを飲み込むまで結構な時間が掛かった。
ごくり、喉が動いたのが分かった。

「うまい!」
「それはよかったじゃないか」
「そういえば、私の友達が利吉さんのファンらしいです」
「君の話は本当に脈絡がないな...」

突然始まった話にも、予測していなかった話題にも、こちらが驚かされてしまう。
けれど、彼女と話しているとそれはいつもの事だ。彼女の話の舵の取り方と言ったら...粗いどころの話ではない。 少しはそれに対して免疫が出来たのか、私もその話題についてすぐに頭を切り替えることが出来るようになった。
こちらの心情など読み取ろうともしない様子で彼女は一口お茶を啜ってから話を続ける。

「びっくりしてたら他の友達も利吉さんに憧れてるって言ってました」
「へぇ、...というか君はその情報を私に漏らすべきではないんじゃないか?」
「大丈夫です。友達は私の口から自分がファンだって事を利吉さんに伝えてくれた方が、もしかしたら何かロマンス が始まるかもしれないからって言ってました」
「そうか」
「そうです」

喋り終えると彼女はまた口いっぱいにしょうが焼きとご飯を詰め込んだ。どうやら彼女の中ではこの話はここでお終いらしい。 律儀にもその友達の期待に応えてやろうとしているらしい。そこまで考えて、その友達と私の間で何か(ここで言う所 のロマンス)が始まるのを彼女は望んでいるのだろうかと考え付く。すると、何だかおもしろくない。
彼女が咀嚼を繰り返し最後に味噌汁を飲み、口の中が空っぽになるのを待って今度は私が口火を切った。

「けど、ロマンスのくだりは黙っていた方が良かったんじゃないのかい? その友達的には」
「え! まじっすか」
「マジだ」
「えぇー......じゃあ今んとこは聞かなかったことにしてくださいよ」
「聞いてしまったのに無理だ」
「...やべーよ、どうしよ」

箸を口にくわえて彼女はその言葉の通り“どうしよう”というような浮かない表情をした。さっきまでの食欲は失せたのか 青い顔をして視線は上空を彷徨っている。
あまり弱みを見せようとしないくのたまの生徒らしくなく、彼女はこうして時々口を滑らせる。(ただ単に何も考えていないだけかもしれないが... )(いや、その可能性が高い)それからやや経ってから失言であった事に気付き青くなる、という事は何度か これまでにもあったことだ。もう少し言葉を考えてから発言しなくてはいけないと思うのだが、それが彼女なのだ。

「けれど私はその友達を知らないのだから何も問題ないんじゃないか?」
「あ、そっか」

いつまでも青くなって気付きそうにないので親切に事実を言えば、彼女は現金なことに急に食欲が戻ってきたらしい。
また食事を再開するべく箸先をしょうが焼きに狙いを定めた。それを眺めながら手の中に握った湯呑みには後どれくら いのお茶が入っているのか確認する。
...まだ半分ほど入っている。

「それよりも君は何も思わないのかい?」
「はい?」

今まさに箸で掴んだしょうが焼きを口へと運んでいるところで話しかけたものだから、彼女はその格好のままで固まった。

「だから、私とその友達とやらの間に何かが始まってしまったら」
「何か?」
「...ロマンスとやらだよ」

知っていてとぼけているんじゃないかと勘繰ってしまうほどに彼女の反応は鈍いものだった。そのことに苛立ちながら も彼女の返答が気になり、耳を澄ませる。そんな私のことなど気にした様子もなく彼女は「ロマンスかぁ...」と ぽつりと呟いたかと思うと箸に掴んでいたしょうが焼きを口に運び、味噌汁をかき混ぜた。下に溜まっていたらしい 味噌が浮き、砂埃が舞い上がるかのように器の中で回っている。それを彼女は啜った。

「んー、にぼしが効いててうまい!」

こいつ...!

「...話を聞いてるのか?」
「へ?」
「...」
「...」
「...」
「なんの話でしたっけ? あまりにもうまい味噌汁に記憶が飛んでしまいました」

反省した様子など少しも見せずにけろりと彼女は尚も味噌汁を啜る。

「おばちゃーん! この味噌汁まじでうまいんだけど! 記憶吹っ飛ぶほどにうまいんだけど!」
「そうかい?」
「うん! もしかして味噌変えた?」
「あらー、よくわかったわねぇ」
「やっぱり! 私こっちのが好きだわ。深みがあるというか...」
「彩ちゃんの舌はすごいわねぇ」
「いやー、それほどでもぉー」

楽しそうに味噌汁の味噌談義に花を咲かせるおばちゃんと彼女に、さっきまで彼女と会話していたはずの私はおいてけぼりだ。 ありえない。...本当にありえない。
第一に味噌の話なんていつだって出来るものじゃないか。何も私を放ったらかしにしてまで話すほど重要な会話だとは 少しも思わない。
......こうなれば、さっきまで彼女が警戒心丸出しで見張っていたしょうが焼きを食べてやろうか。
一瞬、頭の中を掠めていった提案だがすぐに頭は冷静になり、却下する。そんな幼稚な仕返し、するわけにはいかない。 じとりと目の前に座る彼女を見つめるも、彼女は気付いているのかいないのか未だにおばちゃんと話し続ける。

「おばちゃん! このしょうが焼きも絶品だわ」
「そうかい? ありがとう」
「ちなみに今日の晩ご飯のメニューは?」
「お楽しみってとこだねぇ」
「えー、教えてよぅーおばちゃんのいけずぅー」
「どうしようかねぇー」
「晩ご飯が何か知ってたら座学の授業だってがんばっちゃうのにぃー」
「そうだねぇ。それじゃあヒントだけね」
「やったー!!」
「ヒントは...みんなの大好物」
「えっ、...そっ、それって、まさか...最初の文字は“か”...?」
「そうだねぇ」
「じゃ、じゃあっ、その次はもしかして“ら”...?」

彼女の問いにおばちゃんが笑いながら頷いてみせる。その次の瞬間、私の存在などまるで無視していた彼女が勢いよく 振り返った。内心、突然彼女の瞳に映ったことに驚いていると、彼女は少し興奮気味に目を輝かせて笑みを浮かべた。

「ついてますね! 利吉さん!」

何がついているのか、とは尋ねられないままに彼女に気圧されて頷く。すると、雰囲気にのまれて私が頷いたのが読み取れたのか 彼女は不服そうに眉根を寄せて言う。

「おばちゃんのからあげが食べれてついてますね。ってことですよ」
「...あぁ」
「それとも、もう帰っちゃうんですか?」

味噌汁の入ったお椀を傾けながら上目遣いにこちらを見つめる彼女の視線と今はお椀によって隠されている口から 紡がれた言葉に思考が停止する。
そんな言い方をすると、まるでなんだか...残念がっているように聞こえる。

「仕事、まだあるんですか?」

何も答えずにいると、彼女は首を傾げて尋ねる。その視線は一直線に私に向いている。さっきまでは居ない者として 扱っていたくせに...。胸中で苦々しく呟いた言葉はなんだか情けないものだった。

「いや、ない」
「それじゃあ、食べていったらいいじゃないですか!」

ぱっと表情を笑顔に変えた彼女はいい考えだとでも言いたげに弾んだ声で言った。そんなにも何が嬉しいのか。 思わず苦笑を浮かべる。それを勘違いしたのか彼女は、ほんとにおばちゃんのからあげはおいしんですから! と、 力説している。分かった分かった。宥めるように言えば彼女が不満げにフンッ! と鼻を鳴らした。

「早く食べないとせっかくのしょうが焼きが冷めるんじゃないのか?」

指摘したのはまだ半分ほども皿の上に残っているしょうが焼きのことだった。もしかしたらとっくに冷めているかも しれない。そういう私の手で握っている湯呑みの中のお茶はとっくに冷めてしまっていた。啜る必要のなくなった お茶を口に流し込む。

「ふふん。おばちゃんのご飯は冷めてもうまいんですよ!」

何故、君が得意げなんだ。という私の言葉は綺麗に流された。先ほどと同じようにきれいな箸さばきでこれでもかと口の中いっぱい にご飯を詰め込んでいく。机に肘をつきそこに顎を乗せ、徐々に膨れ上がっていく頬を眺める。それに戸惑ったように彼女が見返してきている のを知りながらも私は気付かないふりをして、じっと見つめる。すると、珍しい事に彼女が居心地悪そうに身じろぎした。 その弱弱しい反応が、あまりにもいつもの彼女とは違っていて気付けば口角が吊りあがった。


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.
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「そういえば、何の話してたんでしたっけ?」

皿の上のものを全て平らげた彼女は満腹だと、腹を擦りながら尋ねてきた。
その目はとろんとしていて放っておけばそのまま眠ってしまいそうだ。どうやら腹がいっぱいになり、眠気が襲って きたようだ。食べてすぐに眠くなるなんて...赤子か、と呆れてしまう。

「さぁ、なんだったかな」

今にも閉じてしまいそうな瞼に、必死に抵抗するように彼女は目を擦った。
普段の子供達で賑わっている学園ならばこうはいかなかっただろう。彼女の無防備すぎる姿を見つめながら、夕食 までの時間、どう時間を潰すか私は考えた。



ワッツ?








(20101216)