隣のクラスに英語の教科書を借りに行くと、なぜかやれやれと呆れた風に首を振って両手を腰に当てた滝夜叉丸 にドアのところで行く手を阻まれた。

「やっと来たか。遅いではないか」
「あ、はい...」

なんで私が英語の教科書を忘れたことを知っているんだろうと思いつつ、この際、滝夜叉丸でもいいやと思い右手を 差し出す。すると何故か滝夜叉丸も一緒になって右手を差し出してきた。二人して手を突き出していてなんだかおかしな風景 だ。すると、滝夜叉丸もそれに気付いたらしい「む?」と、言って首を傾げた。

「なぜが手を差し出すんだ?」
「え? 英語の教科書貸してもらうために」
「...は?」
「ひ?」
「ふぅー」
「ぎょわっ!」

突然、右耳に息が吹き込まれて、そのぞくぞくした感覚におかしな言葉を叫んでしまう。一体誰だ! と思いつつも内心ではこんな ことをするのは奴しかいないと思って右に首を曲げてみれば、やっぱり予想通り綾部が居た。 それも何故か驚いた顔をしている。驚かされたのはこっちだというのに。

「ダメじゃない。“ふ”の後は“ほ”って言わなきゃ」
「...いや、“ふ”の後は“へ”だ」

律儀に滝夜叉丸が綾部の言葉を訂正している。まぁ、そんなのはどうでもいいから早く教科書を貸してくれないだろうか。 10分休憩なのであまり時間がないのだ。残り5分を指す時計を一瞥しながら綾部の所為で痒く感じる耳を掻いた。

「滝はつまんない。決められたルールに縛られたままでいいの?」
「それとこれとは違うだろう」
「大人が決めた勝手なルールを破ってみたくはならないの?」
「ならない」
「若さが足りない」
「お前に言われたくない」
「滝夜叉丸が若くなくて、綾部がルールに縛られたくないのは分かったから、英語の教科書貸してくれ」

長くなりそうな会話に割り込んで無理やりに話を戻す。
すると滝夜叉丸がハッとした様子でこちらを振り返った。さっきまでの会話の内容をやっと思い出したらしい。 そして何故だか顔が赤くして、もじもじしだした。一体何事だ。いつも無駄に堂々としている癖してなんだか気味が悪い のを通り越して、心配になる。
そもそも綾部が出てきたからややこしくなったのだ。引っ掻き回すだけ回して綾部は自分の興味のない話になると、 途端にどこかにふら〜っと言ってしまう。だが、今日はどこかに行く気はないらしい。じっとその場で立ったままに、 私を見ている。

、教科書忘れたの?」
「うん。綾部でもいいから英語の教科書貸して」
「いいよ」
「なに?! 私にっ! この滝夜叉丸にっ!! どうしても貸して欲しいと言ったではないか?!」
「そこまで言ってないよ! ...どっちでもいいんで貸してください」
「喜八郎! 待て! 私がに貸す!」

すでに歩き出そうとしていた綾部を引き止めてまで私に英語の教科書を貸したいらしい滝夜叉丸は自分の机まで 走っていった。そんなに貸したいのならもっと早く貸してくれればいいのに...。机の中を覗いている滝夜叉丸の姿 をぼんやりと見ていると、隣に立っていた綾部から視線を感じた。私も見つめ返せば、大きな目をまっすぐ私に向けている 綾部と目が合う。その大きな目を羨ましく思いながら見つめる。

「ねぇ、今日は何の日か知ってる?」
「今日? あぁ...」

急に切り出された会話に少し考えるも、すぐに思い至った。一応私だって女の子なのだ。

「バレンタイン?」
「うん」

こくんと頷いた綾部はきっと今日はチョコをたくさん貰っただろう。
現に友達にも綾部に渡すと言っていた子が居た。

は誰かにあげた?」
「友達に」
「友達以外は?」
「あげてない」
「あげる予定は?」
「ない」
「そう。滝がモガッ...」
! これでよかったか!!」

やたらと大きな声で滝夜叉丸が話すもんだから思わず顰め面になった。それは綾部も一緒だったらしい、滝夜叉丸に 口を塞がれた状態で迷惑そうに顔を歪めている。滝夜叉丸は何故か顔が赤い。差し出された教科書を受け取り「ありがとう」 と言うと、背中を押され強制的に教室を出された。目の前で閉まったドアを唖然と見ていると中から押し殺している ようだったけれど十分ドアを突き抜けている声量で滝夜叉丸が喋っているのが聞こえた。

「喜八郎、余計な事は言うな...!」
「余計なこと? そんなこと言ってないけど」
「言おうとしたのを直前で私が止めたんだろうが...!」
「だって滝、に言わないから。チョ......キーンコーンカーンコーン」

とんでもないタイミングで鳴った始業ベルに思わず「えぇぇー?!」と突っ込んでしまう。タイミング良すぎるでしょ。 重要なとこで被せてくるとか、コントか!

ー、そんなとこでドアと話してると遅刻にするぞ〜」
「ぎゃー! 待ってください!」


まぁ、重要な部分は聞こえなかったけど、それでも綾部が何を言おうとしていたのかは予想がついてしまうよなぁ...。



.
.
.



「滝夜叉丸、これありがとう」
「ん? あぁ...」

さっき会った休憩時間より元気がない様子の滝夜叉丸に英語の教科書を返す。それを力なく受け取って、滝夜叉丸は 机の中に入れた。

「綾部は?」
「連れて行かれた」
「へぇー」

誰に? というのは聞いてみたい気もしたが、野暮な気がしてやめておいた。バレンタインの昼休憩という事もあって か教室の中はガランとしていた。滝夜叉丸の前の席の人もバレンタインに浮かれたのか、呼び出されたのかどちらか 知らないが席を外している。

「滝夜叉丸はチョコ貰った?」
「...あぁ」
「え、」
「何だその反応は失礼な奴だな!」
「いや、ちょっと意外だったから...」
「それでフォローしたつもりか? むしろ状況は悪化だ」
「悪化の一途を辿るばかりか...この状況も世界情勢も...」
「その二つを同じように並べて言うな」

呆れた顔をしながらもしっかりと突っ込んでくれる滝夜叉丸は何だかんだで付き合いのいい奴だ。だが、それを知っているのは一部の人間だけだと思っていた 。面倒見が良かったり、何気なく優しかったり、固いけど冗談だって通じる。そんなところを分かっているのは、 滝夜叉丸の周りにいる私や綾部を含んだ一部だけだと思っていた。それなのに見ている人は見ているらしい。 チョコをもらったという言葉と、いつもより膨れ気味で机の横に掛けられている鞄がいい証拠だ。
きっと結構な数のチョコが入っているだろう鞄に視線を落としていると、不意に例えようのない感情が胸に湧いた。 もやもやと胸焼けするような感覚がする。胸の辺りを撫でると、滝夜叉丸が気付いてこちらを見た。

「どうした?」
「いや、なんか変な感じがして」
「変な感じ?」
「どんな感じ?」
「私が聞きたい!!」

やたらと大きな声を出す滝夜叉丸に声を出さずにやかましいと伝えると、口ぱくでお前が悪い! と言われた、何故口ぱく なのか? こんなところまで付き合いがいい。

「まぁ、いいや」
「...いいのか」
「それより世界情勢は...」
「なんだ? さっきの話に戻るのか?」
「うん。世界情勢を良くするのは無理だけど、この状況は良く出来る方法知ってるんだけど知りたい?」
「......あぁ」
「なんだその間」

......なんでもない。と、またもたっぷり間を開けて言った滝夜叉丸に多少の文句はあるがスルーして、ブレザーの 左右のポケットに両手を突っ込む。少し間を置いてしまうと怯んで渡せなくなってしまいそうだから、こういう ことはちゃっちゃっと終わらせないといけない。
滝夜叉丸は別段私の手の動きを気にしていないようで、視線は相変わらず真っ直ぐに私の目に向かっている。

「いっぱい貰ったみたいだから滝夜叉丸はいらないかもだけど、これあげる」

両方のポケットに詰め込んできたいっぱいのチョコレートを取り出し滝夜叉丸の机の上に置く、一回では全ての チョコを取り出せなくて、もう一度ポケットに手を突っ込む。固い音をさせて机の上に転がる包装紙に一粒づつ包まれた チョコは20個はあるだろう。鞄に袋ごと詰めてちびちびと食べていた残り全てを持ってきたのだから。
滝夜叉丸は言葉も出ないようでほんの少し口を開けて、机の上を凝視している。たくさんチョコを貰っただろうが、 こんな渡され方は一回もしなかっただろうし、剥きだしでチョコをあげた人もいなかっただろう。きっと、きれいに ラッピングしたものばかりが滝夜叉丸の鞄を膨らませているのだから。
滝夜叉丸の反応に焦るようにして私は慌てて口を開いた。

「あ、大丈夫。これすごいおいしいから! あっさりショコラっていうんだけど、すごいおいしいから!」

すごいおいしいって二回言った。間抜けだ。けどなんだか急に恥ずかしくてしょうがなくなってしまったのだ。

「友達にはチロルチョコあげたんだけどもう無くってね。それで、鞄の中に入れてたあっさりショコラを滝夜叉丸には あげようと思って...あ、残り物とかじゃないから! ちゃんとすごいおいしいから!」

本日三度目の、すごいおいしいを口にして私は「えーと」だとか言いながら頭を掻いた。
滝夜叉丸は依然として固まったままで、私の話を聞いているのかいないのか分からない。慣れないことはするもんじゃ ないな、と胸中で呟いてから私はさっきよりも悪くなった状況に居た堪れなくなって教室に帰ろうと思った。

「まぁ、そういうわけだから...じゃあ」
「待て!」

ポケットに手を突っ込んだままだった腕を掴まれて、驚いて振り返る。

「な、なに?」
「こっ、こんな、剥き出しでチョコだかあっさりショコラだかを渡す奴がいるか!」

滝夜叉丸は何故か机の上のあっさりショコラをガン見で怒ったように言った。怒っているようなのに私の腕は放さない。 これでは逃げようにも逃げれない。観念して私は教室に帰ろうとしていた足を止めた。それから、やっぱり慣れない ことはするもんじゃない。と胸中で呟いた。もしかして滝夜叉丸は私からのチョコを待っていたんじゃないだろうか、とか 勘違いしてこの失態だ。
早く綾部帰って来い。この状況をどうにかしてくれ。

「...ごめん。いらないならいいよ。持って帰るから」

そう言いながら滝夜叉丸の机の上に広げたチョコを回収しようと手を伸ばした。...が、チョコに触れる直前に手は 滝夜叉丸に掴まれてしまった。意外に冷たい滝夜叉丸の手に体がびっくりして跳ねた。

「誰もいらんとは言ってないだろう!」
「...え」
「...食べると言っているんだ!」

驚きに目を見開いた私の目には耳まで真っ赤になった滝夜叉丸が映った。眉を吊り上げているくせして少しも 怖くない。あれ? 怒っているのかと思ったのに、そうじゃなかったの?
まじまじとその真っ赤な顔を見つめると、滝夜叉丸はぷいっと視線を逸らして俯いた。それなのに手は未だに掴まれたままだ。

「一つ聞いてもいいか」
「...なに?」
「...このチョコにはどういう意味があるんだ?」

今までの声のトーンとは明らかに違う、低く響く声に真剣な顔をした滝夜叉丸が掴んだままの私の手を握る手に力を 込めた。私はそれがどういう意味があるのか聞きたい。滝夜叉丸に掴まれた手を私も握り返すと、滝夜叉丸がこちらを 見て驚いたように目を開いて顔を赤くした。



「あー、見ちゃった〜」



二人して肩が跳ねた。突然聞こえた第三者の声に私も滝夜叉丸も振り返った。

「二人で手を握り合って、いけないんだー」

飄々と少しも表情を変えずに言う綾部が教室の入り口に立ってこちらを見ていた。その腕にはかわいい袋やおしゃれな 箱がいくつか抱えられていた。
綾部の言葉に滝夜叉丸の手を放して振り解く。滝夜叉丸も同じことを考えていたのだろう、別段何も言われず、さっき まで放されなかったのが嘘のようにあっさりと手が離れた。途端“残念”だなんてそんな言葉が頭に浮かんで慌てて その言葉を打ち消すために頭を振った。

「あっ、あっさりショコラ」
「おい! それは私のだ!」

こちらにやって来た綾部がナチュラルな仕草で机の上のチョコに手を伸ばした。その手を俊敏な動きで滝夜叉丸が 叩き落した。手を叩かれた綾部は不満顔で叩かれた所を擦りながら滝夜叉丸をじとりと睨んでいる。

「...いいじゃない。一つくらい、いっぱいあるのに」
「ダメだ! これは全部私の物だ! いくら喜八郎でも一つたりとてやれん!」

胸を張って話す滝夜叉丸はすっかりいつもの自信に満ち溢れた滝夜叉丸だ。一つもあげないと言った言葉通りに滝夜叉丸 は全てのあっさりショコラを鞄の中に詰め込んだ。机の上に転がっていたチョコは一つ残らず彼の鞄の中に入れられた。

「滝のケチ」

悪態をつく綾部の声を隣に聞きながら私は小さく声を抑えて笑った。









午後1時のあっさりショコラ






(20110218)バレンタイン?とっくにすぎてますね!