05 紐解いてみれば単純





っ!」

突然名前を呼ばれ、はびくりと肩を跳ねさせてからとろとろと動かしていた足の動きを止めて振り返った。
そして振り返り視界に飛び込んできた意外な姿に目を丸くさせる。忍ばせねばならないはずの足音が聞こえたので てっきり下級生の誰かであろうと思っていたのだ。なのに名を呼ばれ振り返るとそこには今さっきまで考えていた人物がいたのだ。
あの日以来、度々頭をちらつく姿――久々知兵助だった。
すぐに気まずさを感じたはその場から走り去ろうと体が動いたが、そうすれば自体は余計に悪化するだろうと考えて 踏みとどまった。今にも走り出しそうな足をその場に理性で縫いつけ、は目をきょろきょろとせわしなく動かしながら口を開いた。

「な、なんですか?」

思い出すのはこの間の最低な自分の態度だ。
この人は気付いたんだろうか? はきがきではない心情を隠しながら様子を伺う ように一瞬兵助を見遣った。

「話があるんだ。聞いて欲しい」

返ってきたのは力強く響く言葉と何か決心しているかのようにじっとこちらを見つめる視線だった。
は咄嗟にサっと俯いてその真っ直ぐすぎる視線から逃げる。
あぁ、まただ...。
脈がおかしいのを感じては今すぐにでもこの場を走り去りたかった。どこでもいい、この自分の脈をおかしくする 視線が届かない所ならどこだっていい。だが、先日の失礼な態度を思い出しそれは踏みとどまった。
兵助は自分の方を見ようとしないの姿を見て決心が折れてしまいそうになったが自らを奮い立たせるように拳を握って、唐突に言葉を繰り出した。

「...俺は今まで自分の気持ちに気付いていなかった」
「...はい」

よく分からない展開にはただただ大人しく頷くしか選択肢がなく、こくんと一つ頷いた。
それを見て、このまま逃げられる様子はないのを確認して兵助は安堵の息を吐いて慎重に言葉を紡いだ。

「それに最初のが悪かった」
「...最初の...」

最初...と言われても何のことだか分からない。そもそも兵助が何の話をしているのかも分からず、は話の先を 読もうと考えを巡らせようとした。
兵助は兵助で勢いのままに部屋を飛び出してきたのはいいが、何から話せばいいのか分からず頭の中がぐちゃぐちゃに なっていた。どれを優先すべきで、どれを後に回すべきか、そのごちゃごちゃに絡まってしまったものを解くには時間がかかる。

「...ごめん。ちゃんと頭の中を整理してからくればよかった...とりあえずそもそもの誤解を解きたい」
「...誤解?」
は知らないか? しゃくとりむしについての恐ろしい噂を...」

やけに真剣な表情でおどろおどろしく話す兵助には思わずごくんと唾を飲んでから知らないと首を振った。
話したいこととはしゃくとりむしのことについてだったのだろうか...は真剣な表情をしている兵助を見つめ返しながら 考える。そうして、そういえばしゃくとりむしが原因では兵助のことが苦手になったことを思い出した。
それと何か関係のある話なのだろうか?
それにしても突然やってきたかと思うとしゃくとりむしについての恐ろしい 噂を知っているか? なんて尋ねて来た兵助はやっぱりの中ではわけのわからからない人だ。

「そうか、知らないのか...」

あれやこれやが考えている様子を見て、兵助は納得したように頷いた。
それからその真剣な表情を崩さずに「実は...」 と、意味深に言葉を紡ぐ。
は兵助の普通ではない様子にもう一度ごくんと喉を鳴らしながら、噂と言ってもしゃくとりむしについてのなんだから ここまで怖がることもないのではないだろうか...と思ったのだが、兵助の雰囲気に完全に飲み込まれてしまっていた。 昼間で太陽は確かに頭上で光りを放っているというのにと兵助の周りだけは光りが届かず暗くなっているかのような錯覚まで 覚え始めたころだ。
意味深に一言だけ言葉を放ち、溜めて溜めて溜めて...から兵助は口を開いた。

「...全身の長さをしゃくとりむしに測り切られると死ぬという噂があるんだ...」
「...」
「...」
「そ、そうなんですか...」
「...あぁ」

重々しい空気に何と返せばいいのか分からず、の返答は少し遅れた。それに対してまたもしてもずっしりと重い相槌が 返ってくる。兵助の表情は至って真剣で、が苦手な真っ黒な瞳は真髄にを見つめている。確かにこの視線が苦手 でしょうがなかったはずなのには真っ直ぐに見返すことが出来た。そして何だかこの状況がおかしくて笑い出した い気分になった。雰囲気から想像してどれだけ恐ろしい話をされるのかと思ったが、兵助の口から出たそれはあまり恐ろしいとは思わなかった。 だがこんなにも真剣な兵助を前に笑うのは失礼だと思い、口元に拳を持っていき、すでに上がってしまっている口角を隠した。
何故か面白そうにしているに兵助は纏っていた重苦しい空気がふっと軽くなったのを感じた。

――が笑った。

きっと笑みを浮かべているであろう口元を隠している拳が邪魔で、それを退かせたい衝動が兵助の中に起こった。正面からその控えめな笑顔を 見つめてみたかった。兵助の記憶に居るは泣いているか、気まずそうに目をそらしているところばかりだ。
貴重すぎるその笑みを瞳に写したかった。一度自覚してみればこの感情が働く根底にへの気持ちがあるのだと気付く。 いつまでもあの日の、頬を赤くして泣いていたの姿が瞼にこびり付いていたのには理由があったのだ。
そしてあの時から自分はきっとすでに......。
だからこそ、今のこのとの状況が胸を締め付ける。気付けば口から言葉が滑り出ていた。

「...は俺のことが嫌いなのか?」

驚いたのはだ。
思わず笑みを隠そうと俯いていた顔を上げ、兵助の顔をもろに見てしまった。視線の先には何を考えているのかいまいち いつも分からなかった兵助の顔はなく、自信無さ気に眉を寄せている兵助が居た。
あまりの驚きに魚のように口をぱくぱく開閉させるを見、兵助はハッとして誤魔化すように小さく口に笑みを乗せた。 気付けばさっき部屋を飛び出してきた時に高ぶっていたはずの兵助の気分は急激に落ちていた。
の表情一つでここまで 気分が落ちるのだ。ここまで分かりやすいのに何故今まで...指摘されるまで気付かなかったのだろう。
自分の鈍感さに呆れながら兵助は今の言葉を取り消すべく口を開こうとした。

「き、嫌いじゃないです! 苦手なだけなんです!」

取り消す言葉が口から発せられるよりも早くが大きな声で先ほどの兵助の言葉への返答を叫んだ。
ぽかんと口を開ける兵助を見て、は後の一文はいらなかったんじゃないだろうかと気付いた。けど、言ってしまったものはしょうがない。 ただでさえ大きな目を丸くさせる兵助は想像していた言葉と違う言葉がの口から放たれたことに呆けた。
それが例え自分のことを“苦手”だと評していることでも、嫌いと言われるよりは全然いい。

「そ、うなのか?」
「...そうです」

真っ直ぐ向けられる苦手な視線をは真っ向から受け止めた。ここで視線を反らそうものなら、たちまち言葉の効力 が無くなることはぐらいは分かっている。暫くお互い無言で向き合って目と目を合わせるという、端から見れば妙な光景が 続いた。
は脈が不規則に運動し、顔に熱を持ち、掌におかしな汗をかいているのに気付いたが黙って耐えた。
兵助はの正面からの視線を受け止め、あの、初めて会ったときの痛みを胸に感じた。胸を貫く痛みだ。
今なら間違ったってしゃくとりむしの呪いだとは思わない。

「...よかった。俺、嫌われてると思って...」

ホッと息をついた兵助は心から安堵したように表情を緩めた。
苦手と言われているのに何故か喜んでいる兵助を見て、 またしてもは変な人だとこっそり胸のうちで感想を述べた。よかった、と薄く笑みを浮かべた兵助と視線が合い、 もぎこちなく笑みを浮かべて答える。そこで自分が自然と兵助と視線を合わせたことに軽く衝撃を受ける。
兵助は兵助でがぎこちなくではあるが自分に笑みを返したことに衝撃を受けた。まぎれもなく正面からの笑みを見た。 そして間違いなくの笑みは自分に向けられていた。そんな些細な事がどうしようもなく嬉しい。
兵助は勝手に釣りあがる口角と勝手に熱を帯びる頬を隠す事も忘れて正面からを見つめた。
はその真っ直ぐな視線を正面から受けて戸惑ったが、ここでまたしても視線を反らせば兵助を傷つけることになって しまうかもしれないと考え懸命に見返した。
確かに兵助のことは苦手だが嫌いではない、傷つけるのは不本意だ。
握り締めた手がじとりと汗ばみ、頬は赤みを帯び、心臓が早鐘を打つ。それでもは視線を反らさなかった。
今までは絶対に合うことが無かった視線が絡む。
出会ってから四年、確かに何かが壊れたのを二人は感じた。そして何かが始まったことも...

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「勘右衛門良いのかよ...兵助が気付くまでそっと見守るんじゃかったのか?」
「だってじれったい。誰かが言ってあげないと」
「けどよー...」
「見守ってて四年経ったんだから別にいいんじゃない?」
「何か投げやりだな...」
「だってどうせあの二人両思いじゃん」
「え......えぇー?!」
さんは気付いてないみたいだけど、あれは兵助を意識しすぎてあぁいう態度を取っちゃってるんだと思うね」
「マッ、マジで?!」
「マジで」
「ていうか、雷蔵と三郎も薄々気付いてたと思うよ。全然気付いてないのってハチと本人達だけじゃない?」
「え、...マジで?」
「マジで」
「...」
「...」
「あ、今みんなが遠くに感じる...」
「そういうのいいから」






(20111106)