ねてる間に太陽がいなくなった。



目を閉じた時には太陽が天辺までも上っていなかったはずだ。それなのに目が覚めると世界はどっぷりと夜に浸かっていた。 一人世界に取り残されたような妙な感覚を覚えながら起き上がると寝巻き代わりのシャツが汗で湿っていた。
薬が効いたのだろうか。寝る前よりは体が楽になっているような気がする。
それでも体は熱かったし頭はボーっとしていた。それに加え風邪を引いたとき特有のダルさが体全体を覆っていた。

「...のどかわいた」

呟いた声は鼻声だったし聞き苦しく擦れている。重い体を引きずってキッチンまで歩く。フローリングの床が冷たくて 熱を持った足の裏を気もちよく冷やしてくれる。
キッチンの流しには乱雑と使ったまま放置していた食器が並んでいた。嫌なものを見てしまったと思いながらコップ立てに 吊るしてあるコップを手にとって冷蔵庫まで歩く。冷蔵庫のドアを開けるとひんやりした心地いい風が体の脇を通り過ぎていった。 中からミネラルウォーターの2リットルペットボトルを取り出して、まだ封を切っていなかったそれを開ける為にキャップの部分 を握って捻る。が、熱のために手に力が思うように入らない、なので蓋も開かない。

「...だめだ...」

何もここまできつく蓋を閉めることも無いだろうに...一人暮らしで熱を出している人の事を少しも考えてないな!  どこの企業かラベルで確認してこれからはこの企業の飲料水を買わないことを朦朧とした頭で決意する。もう一度冷蔵庫の中を覗いて みるが、一本しか冷やしていなかったようでペットボトルは一本も入っていなかった。つまり私の体が猛烈に欲している 冷えた飲み物は私が握っている一本しかないのだ。
...今なら砂漠でオアシスを求めて旅してる人の気持ちが分かる。
絶望の気持ちと共にため息をつき冷蔵庫を閉めたその時、僅かにだが物音が聞こえた。
ベランダからのようだった。鳩か何かだろうか。そう考えながらほとんど無意識に足がベランダ方向に向かっていった。 ただでさえ風邪を引いてしんどいのに何故ベランダに足が向かったのか分からない。もしかすると鳩じゃない何かだと 第六感が告げていたのかもしれない。

辿り着いたベランダに続く窓を覆っているカーテンを一気に横に滑らせる。シャッと音がして真っ暗だった部屋の中に月明かりが差し込んだ。
そして目に飛び込んできた光景に私は一瞬息をするのを忘れて飛び上がった。
だってまさか自分の家のベランダに人が居るなんて思わないじゃないか。ベランダにあるものとして私の頭にインプット されているのは洗濯物や鳩やすずめ、それぐらいだったのだ。そしてそのどれもがハズレで変わりに人が居た。そりゃ息だって止まるし、その場で飛び上がったりだってする。 驚いて目を見張る私と一緒で向こうも驚いたように目を真ん丸にしていた。月明かりを浴びて金色の髪がきらきら光っているのをきれいだと頭の隅の方で考えながら 言葉が出てこずに陸に上げられた魚のように口をパクパクさせるだけの私と比べて相手は座り込んでいた体勢から 慌てたように立ち上がってこちらに向かって歩いてきた。そこですぐにその不審人物を中に入れないために鍵をかけるべきなのに 私は自分を防衛する本能が欠けているのか、ただ馬鹿みたいにそこに突っ立っていた。
口をパクパクしてる上に髪や格好もぐしゃぐしゃで、その上に片手には2リットルのペットボトルを握っているのだ。おかしな人以外には見えなかっただろうに、よく近づいてきたものだ。

「...違うんだ! 聞いてくれないかい?!」

窓を開けられてそこで初めて鍵をかけておくんだったと気付いた。けど不審人物は中には入って来ようとはしなかった。

「ちょっと、その...休憩をさせてもらっていたんだ!」
「...休憩?」
「そう! 休憩!」

不審人物の弁明は少しも弁明出来ていなかった。いくら風邪を引いて普段より判断力が鈍っているとはいえその言葉には 納得できない。休憩するために六階のベランダに登ってくるというのだろうか。
不審者を見る目で見ていると言うのに不審人物はにこにこと笑っている。今ので私が納得したと思っているのか? そうだとしたら ずいぶんと舐められたものだ。

「君はどうしてペットボトルを握っているんだい?」

不意に気付いたように私が右手に持っていたペットボトルを指差して不審人物が不思議そうに尋ねた。そこで私は今まで ペットボトルを握っていたことに気付いた。それまでは重さなんて少しも感じなかったのに急に2リットル分の重みが肩に圧し掛かる。

「蓋が硬くて開かないんです...」

風邪で頭がおかしくなっていたのだと思う。私は素直に何故ペットボトルを握っているのかを不審人物に説明した。 すると不審人物は謎が解けたというように両手をぽんっと叩いて笑みを浮かべた。

「そうなのか。私に貸してごらん」
「え、はい」

言われるままにペットボトルを渡すと不審人物は笑顔で受け取っていとも簡単に蓋を開けた。カチッと音が聞こえたかと 思うとキャップの部分を回して渡してくれた。

「はい、どうぞ」
「あ、ありがとうございます」

開いたペットボトルを受け取って思わず力の抜けた笑みが浮かんだ。これで水が飲める。私の体は一刻も早く水分が 欲しいと訴えている。だがその前にこの状況をどうしようかと考えていると不審人物が何か言いたげな...何か微笑ましいものを みているような顔をして私を見下ろしていた。

「君は力が無いんだね」
「いつもなら開けれます!」

おかしそうに笑う不審人物に何故かムッとした私は噛みつくように言い返した。力が無いと言われて力が有ると言い返すなんて 女としてどうなのか。けれど風邪を引いて判断力が著しく低下しているのだからしょうがない。

「いつも? 今日は調子が悪いの?」
「風邪を引いて熱が出てるんです。だか...」

だから力が出ない。と言う声は不審人物の声にかき消された。

「なんだって! それなら寝てないといけないじゃないか!」
「...けど喉が乾いたんです」

何故か怒ったような口調で私を責める不審人物に、私も何故か言い訳するような口調になってしまった。

「中に入ってもいいかな?」
「はい」

頷いてから、あ、と思った。雰囲気に流されて頷いてしまったが相手は友達じゃないんだ。友達どころか勝手に ベランダに侵入していた不審人物だったのだ。
だが気付いた時には遅く、不審人物は家の中に入ってきて(私が了承したのだから当たり前だけど...)キッチンまでずんずんと大股で 進んで行った。そこでコップを見つけて私の元にまで持ってきた。それから私が持っていたペットボトルを取り上げて コップに水を注ぐ。とぷとぷと水が注がれている音を聞いていると、飲みたくてしょうがなくなる。

「...ありがとうございます」

八分目ぐらいまで水が注がれたコップを渡されて私はお礼もそこそこに一気に飲み干した。

「いい飲みっぷりだ。もう一杯飲むかい?」
「お願いします」

口の端から垂れてきた水を腕で拭ってコップを渡すと水を注いでくれる。喉がからからだったから水がすごくおいしく 感じる。飲み終わって口元を腕で拭っていると背中をごく僅かな力で押された。
何だ? と思って振り返ると不審人物が私の背中を押していた。

「ほら、もうベットに戻って寝ないと」
「え、え...」
「風邪を治すには寝るのが一番なんだよ」

ベットに入るのを嫌がって駄々をこねている子供に言い聞かせるように風邪の対処方を説かれ、私はベットまで連れて行かれ寝転ばされた。 寝転ぶと上から不審人物が布団を首まで掛けてくれた。何だかおかしな展開になっているとは思ったが、水が飲めなくて 困っていたところを不審人物が助けてくれたので私の中で不審人物の株が鰻上りで上昇していた。マイナスからのスタートだったのに 今ではピザをデリバリー注文すると配達してくれて、おまけをしてくれるいつものお兄さんを追い越してしまっていた。 こんなことはそうそう無い。
何故うちのベランダに居たのかという問題はちっぽけなことに思えてきていた。
熱を出して心細くなって居る時にはどうも気が大きくなって、大体のことはさほど気にならなくなるらしい。ただ不審人物は とても良い人だというのが頭にインプットされた。

「薬は飲んだのかい?」

いつもパソコンをする時に使っている(座り心地はあまりよくない)木で出来た椅子を持ってきて、ベットの隣に置いて 腰掛けた不審人物は体をこちらに倒して囁くように私に話しかけてきた。

「...朝飲んだからいいです」

ぼんやり返答しながら頭の中では全然違う事を考えていた。
今は青く見える瞳は太陽の下でならどんな色になるんだろう、とか、考えていた。

「おやすみ」

囁く声が私を眠りに誘うようだった。次いで頭を撫でられると急に抗えないほどの睡魔に襲われる。けれど、瞼を無理やり押し上げて抵抗した。

「救急箱は右の棚の二段目...」

私の頭を撫でていた手の動きが止まって、目の前の顔が驚いたように目を見開いたのを見た。それから切り傷のある 己の右腕を見るために青い瞳が動いた。私も青い瞳の視線を追って切り傷を見る。どこで怪我をしたのか知らないけれど 服がぱっくりと引き裂かれてそこから黒く見える傷が丸見えになっている。すごく痛そうだ。私が手当てをしてあげたいところ だけど、もうこの睡魔に抗えそうも無い。

「...ありがとう。そしてありがとう」

どこか聞き覚えのあるフレーズを耳にしながら、目を閉じる寸前に見えた笑みに私も笑みらしきものを返して私は深い眠りに落ちた。










ナイトメモリー








(20110622)