寝る仕度を全て終えてベットに入るまでの時間、私はソファに座ってテレビを見ていた。別に見たい番組があったわけでは ないけれど何気なく回したチャンネル先でおいしそうな料理を作っていたものだからついつい見てしまった。 自分でも寝る前にこんなのを見るなんてマゾっ気があるんじゃないかと思う。
やたらとバターを入れる高カロリーな料理が最後には一体どんな形になるのか眺めていると、ピンポという間抜けなチャイムの音が 鳴った。どうやら手を離すタイミングが早かったようだ。こんな時間に一体誰だろうと立ち上がりながら心当たりを 頭の中に浮かべた。その結果、隣の部屋の女の子が浮かんだ。おとついもこんな時間にチャイムを鳴らしてきて、 恋愛相談をされた。相談というよりは私は話を聞いているだけで、女の子が一方的に意中の彼についてマシンガンのように話すのだ。 それが二時間近く続くのだから私としてはあまり嬉しい訪問者ではないけれど、同じく恋に悩む者同士無視をするわけにもいかない。
重い腰を上げて「はーい」と答えながら、鍵を開けて扉を開けると見知った人が立っていた。
見知っているけど隣の部屋の女の子ではない。ちなみに女の子でもない。

「やぁ、こんばんは」
「...キキキキースさん?!」

驚いて素っ頓狂な声を上げる私にキースさんはにこっと笑って指折り数え「キが3つ多いよ」と真面目に訂正した。 けれど私にはそれに答えれる余裕なんてなかった。上から下までキースさんを眺めて、本物だと確信してから言った。

「...どうしたんですか?」
「約束...忘れたのかい?」

もしかしたら緊急の用事かもしれないと考えて少し不安になって尋ねたが返ってきた答えは予想外のものだった。 ポカンとキースさんを見ながら「約束...?」と尋ねると「約束」という言葉と力強い頷きが返ってきた。
......約束なんてしただろうか。キースさんとの約束なら忘れるはずが無いのに...。

「忘れたのかい? 私はとても楽しみにしていたのに...」

しゅんと項垂れて悲しそうな顔をするキースさんに私の胸にズキーン! と痛みが走った。キースさんにこんな 悲しそうな顔をさせてしまうなんて...!! 私は約束を思い出そうと必死で頭の中を探し回った。キースさんに 関しての情報なら絶対に頭の中にあるはずなんだ! 厳重に保存してあるのだから!
最近キースさんと会話したのは...昨日だ。その時の会話にその約束があるはずだ。眉間に人差し指を持っていき、 名探偵よろしくのポーズをとって私は昨日の会話を頭の中で再生し始めた。
確かあれは...自販機の前の椅子に座って窓から見える晴れ渡った青空を眺めていた時だった...。





<再生開始>

「そーらを自由に飛びたいなーハイ、タケ...」
「ん? くんは空を飛びたいのかい?」
「ぎゃあああああ!!!!」
「落ち着いて! 私だよスカイハイ、キース・グッドマンだ! 決して怪しい者では...!」
「...キ、キースさん?」
「そうだ、私だよ。すまない...驚かせてしまって」
「いえ、だ、大丈夫です......それより今の聞いてましたか?」
「ああ! 空を自由に飛びたいと歌っていたね!」
「(ぎゃあああ!!!! 恥ずかしい!!)」
「とても良い歌だ! とても!」
「いや、え、はい...(誰もいないと思って完全に気抜いてた...助けてドラえもん...!)」
「それでくんは空を飛びたいのかい?」
「え? ...そうですね。キースさんが空を泳ぐみたいに飛んでるのを見てると飛んでみたいって思いますね...」
「それなら今度私が空に連れて行ってあげよう!」
「ほんとですか? あはは、楽しみにしときます」
「昼は人目があるから夜のほうがいいな...」
「ですねぇ」

<再生終了>






「...」
「思い出したかな?」
「えと、はい...昨日の...?」
「そうだよ! 昨日空に連れて行ってあげると約束しただろう?」

私が思い出したと聞いてぱあっと顔を輝かせるキースさんを見て、一安心しながらも私はこの状況に軽く パニックを起こしていた。...だって、昨日のアレは完全に社交辞令なんだと思っていた。 キースさんの誘いが本気だと思っていなかったのでこの展開は本当にまさかのことだ。けどよく考えればキースさんが 社交辞令に空への散歩に誘うわけが無い。彼は誠実な人なのだ。一度口にしたことは実行するだろう。
とりあえずこのまま玄関で(キースさんは廊下だけど)突っ立てるわけにもいかないのでキースさんを中に招き入れる。 ドアを全開にして「とりあえず中にどうぞ」と言うとキースさんはだいぶん躊躇ってからおずおずと中に入ってきた。 どうやらこの時間に一人暮らしの女の部屋に入るのはとても気が進まない行為らしい。そんなところもキースさんらしくて私は笑いを噛み殺した。
気の進まない様子のキースさんを中に入れてドアを閉める時、いつのまにか隣の部屋の女の子が帰宅していたようでこちらを見て満面の笑みで 親指を立てられた。その上に口ぱくで“幸運を祈る”と言われた。
完全に勘違いされてる。いや、完全まではいかないかもしれないけれど...。
私はそういう風に勘違いされたのが照れくさくて恥ずかしくてへらっとした笑みだけ返しておいた。
パタンとドアが閉じると(実際はバッタン! ってな感じだったけれど)急にキースさんと二人っきりだということを 意識して私の心臓がばくばくなりだした。ついでに緊張しすぎて意識が飛びそうだ。キースさんは少し居心地悪そうに立っている。

「ソッ! ...ソファにどうぞ...!」

盛大に声が裏返った...恥ずかしい。顔に熱が急上昇していくのを感じながら私はさっきまで座っていたソファを指差した。 キースさんはおかしそうに笑いながら「それじゃあ遠慮なく」と言ってソファに座った。
ちょっと緊張しすぎだろ。自分でもひくほどに緊張しているので私は小さく深呼吸をした。

「おいしそうだね」
「は、はい! ですね!」

テレビに映る高カロリー料理を指差してキースさんがにこっと私に話しかけた。私の返答は全く普通な面白みに欠けるもので、口にしてから後悔した。 もっと話題を広げれるような答えが正解だったのに! けれど生憎と私にはその正解が分からなかった。
しばらくバターをたっぷりひいた鍋で野菜が炒められているのを眺めていた。
「こうすることによって風味が増します」
あっそ。 今はどうやって野菜の風味を増せるかなんてことどうでもいい。

「それじゃあそろそろ行かないかい?」

空に。そう言って上を指差したキースさんは待ちきれないようにうきうきしているのがこちらにまで伝わってくる。 番組はちょうどCMに入ったところだった。キースさんはテレビから視線を外してそのまま隣にいる私を見た。 それから私を上から下まで眺めて「かわいいけれどその服だと寒いかもしれない」と神妙に呟いた。そこで私は自分の今現在の格好を思い出した。サッと血の気が引いた。 そこからの行動は早かった。「着替えてきます!」と叫んで大急ぎで寝室に飛び込んだ。その間15秒にも満たない。
後は寝るだけだと思って上には子供の頃に着ていたいかにも子供が好きそうなうさぎが真ん中にどんっと座っている ピンクのシャツに(ついでにサイズの問題でぴちぴち)、下は黄緑の短パンだった。
ピンクと黄緑って......パッと頭にあるヒーローコンビの姿を思い出して振り払う。
うさぎは無邪気な笑顔を浮かべて色鮮やかなオレンジ色のにんじんを頬張っている。
ホントに勘弁して欲しい...。何にんじんなんかおいしそうにムシャムシャしてるんだか! キースさんの前でにんじんをムシャムシャ食べるなんて...正気の沙汰とは思えない!
私は八つ当たり気味にうさぎのシャツと黄緑の短パンを脱ぎ捨てた。こんな恥ずかしい格好でキースさんの前に立っていた なんて信じられない。私は洋服箪笥から気張りすぎてない、だからと言ってラフすぎでもない服を探した。 箪笥の中を漁りながら私は昨日の格好に比べれば全然マシだったと自分を慰めた。昨日の寝巻きは横ストライプの 上下おそろいのパジャマだった。安さに目が眩んだけれどあれで人前には絶対に出られない。
多分昨日あんな格好をしていたのは私とウォーリーを探せのウォーリーと刑務所の中の人たちだけだ。
横ストライプ同盟の出来上がりってわけだ。
どうにかそれなりに見られる格好になった私は(大体の服はさっきの格好よりマシ)キースさんが待つテレビ前まで小走りに駆け寄った。キースさんは 料理番組に釘付けになっていた目を私に向けて頷いた。

「それなら寒さに震えることも無い! これからのフライトにバッチリだ! とても!」
「よかったです!」
「先ほどのうさぎもかわいかったのだが...」

合格点のもらえた私はにこりとしたが、その後に独り言のように呟かれたキースさんの言葉にたちまち笑顔はぎこちないものになった。 キースさんに悪気があるわけないことは分かっているけれどもうあの服については触れてほしくない...。

「よし、では行こうか」

私のテンションがガタ落ちした事にどうやら気付いていない様子のキースさんは張り切った様子で私に右手を差し出してきた。 思わずジッとキースさんの右手を見て固まっているとその手が伸びてきて左手を掴まれた。またしても反応できず 私は馬鹿みたいにキースさんの大きな手に掴まれた自分の左手を見ていた。遅れて心臓がまたしてもばくばくと激しく動き出した。

「ベランダから行こう」

キースさんは電池が切れたみたいに動かなくなった私にどこから飛び立つのか教えてくれた。そのまま引っ張られてベランダの方まで連れて行かれる。 見慣れた景色が目の前に広がっていた。夜なのにシュテルンビルトの夜はずいぶんと明るい。地上からの光りの所為で 空は暗いけれど。
窓を開けて、キースさんが私の手を掴んでベランダに足を踏み入れた。裸足だったのでコンクリートの地面が冷たい。風が強いとまでも いかなくても髪を巻き上げるほどに吹いている。あの最悪な寝巻きを見られた今となっては今更かもしれないが、私は 風の悪戯で変な髪形にならないように手で撫で付けた。相変わらず私の心臓は胸を激しくノックしていた。

「いい風だ」

キースさんは気持ちよさそうに目を瞑って風を浴びていた。その横顔に私の脈がまたしても速くなるのを感じる。 ここまでくると一体どこまで早く心臓を動かせるのか調べてみたいもんだ。隣に居るキースさんに音が聞こえそうだなんて ベタに考えるがどうやら聞こえていないらしい。
私の自意識過剰な妄想だったようだ。恋する女の子にはありがちだ。
自分で気をつけていないとボーっとキースさんに見惚れてしまいそうなので自分の気をそらすために私はベランダから下を覗き込んでみた。
......ゾッとした。
落ちたら間違いなくぺっちゃんこになる...。頭の中で映画でマスクが高い所から落ちてぺっちゃんこになりながら 「おせんべいになっちゃった」と言っていたことを不意に思い出した。私もここから落ちるとおせんべいになっちゃうかもしれない、 正しマスクではないのでおせんべいのまんま復活はしない。
......ますますゾッとした。

「それじゃあ行こうか!」
「や、ややややっぱり...」

おせんべいになる可能性に気付いて怖気づいた私はキースさんをまともに見ることが出来ずにきょろきょろと挙動不審に 視線を動かした。キースさんと手を繋いでいるのとは違う意味で心臓がばくばくしている。軽々しく空を自由に飛びたいなんて 歌うべきではなかったんだ。もっと本気で空を飛ぶ覚悟が出来てから歌うべきだった。それほど私には重みのある歌に思えてきた。

「大丈夫さ。私が君を落とすわけが無いだろう?」

キースさんは私の心をお見通しだったらしい。パチンとウインクを私に送ってくれたけど、私の頭の中からおせんべいになるかもしれないという 恐怖は消えなかった。こんな場面じゃなかったら間違いなく喜びの悲鳴を心の中で上げてたんだろうけど。

「よし、じゃあ行こう!」
「ぅわっ」

ぐずぐずする私を強引にキースさんがいとも簡単にひょいっと持ち上げた。慣れた手つきなのはやっぱり日頃ヒーローとして人命救助をしているからだろうか。 それに比べて私はこの状況にパニックを起こして体が完全に固まった。これっていわゆる...アレ、女の子が一度は 夢見るお姫様抱っこってやつで...それもそれをしてくれてるのはキースさんで...?!

「腕は首に回してもらえるかな?」
「は、い!」

体がかちんこちんのままキースさんに首に腕を回すと近かった距離がもっと近くなった。まだ離陸もしてないっていうのに すでに私はいっぱいいっぱいだ。今にも口から心臓が飛び出しそうだ。まぁ、大げさかもだけど、遠からずってところだ。

「あ、あの、おんぶとかって無理ですか...?」
「おんぶ?」

見目的にはそりゃあお姫様抱っこの方がいいに決まってるけどこのままじゃフライトどころじゃない。私の提案に キースさんは眉根を寄せて真面目な表情になった。

「いや、おんぶはどうだろう。ヒーロースーツの関係でおんぶをして飛んだ事は無いから安全とは言えないかもしれない」
「...そうですか」

確かにスカイハイの背中にはジェットみたいなのがついていた。人をおぶって飛んだことは無いというキースさんの言葉に納得する。 安全面のことを言われると私も納得するしかない。出来るならおせんべいになんかなりたくないし。

「私にこうされるのは嫌なのかい...?」

キースさんが落ち込んだ様子でしょぼんと眉を情けない形に垂らしたのを見て私は焦った。

「全然っ! 全然嫌じゃないですっ! 光栄です!」
「...そうか。よかった」

首をぶんぶん振って必死に否定するとキースさんがホッとしたようにはにかんだ。
いつも以上に距離が近いからキースさんのはにかみをまともに見てしまった。私の心臓があまりの衝撃に一瞬動きを止めたようだった。 これは永久保存するために頭に焼き付けなければいけない。

「大丈夫! 私が絶対にくんを離さない!」

私がキースさんの笑顔を頭に焼き付けようと眉間に皺を寄せたのを不安を感じてるか何かとキースさんは受け止めたらしい。 力強く安心させるような声が私に向けられた。私も「違うんです、脳内にキースさんのはにかみレアショットを頭に焼き付けてたんです」 とも言えず頷いた。だってそれって何かストーカーみたいだし。決してストーカーではないけど。

「出来れば地上でも離したくないよ」

飛び立つ直前に聞こえたキースさんの言葉に私は息を呑んだ。本当はすぐにでもその言葉の真意を尋ねたかったけれど、生憎と口を開けば 空を飛んでいることに対しての感想代わりの悲鳴を上げてしまいそうだったので懸命に口を噤んで間違っても おせんべいにならないようにキースさんの首に必死にしがみ付いた。
キースさんはそんな私を見て月の光りの下で意味深に笑った。
地上に戻って一番に何をするべきか私はその時、心に決めた。
だっていくら恋する女の子でも幻聴までは聞こえないだろうし!






Have a nice flight!!



(20110718)