お世辞にも治安が良いとは言えないこの街で夜、女が一人で出歩くのはあまり褒められたことではない。 厄介ごとに巻き込まれて警察にお世話になってもきっとそこを注意されて、渋い顔をされる。 けど緊急でどうしても出かけなくてはいけないときは? 警察に連絡してタクシー代わりをしてもらうわけにもいかないのだ。私は勇敢な勇者になったつもりで外に飛び出した。 手に握るのは伝説の剣なんて大した代物ではなく、何の変哲も無い傘だ。これが一番武器になると思ったからだ。 傘立ての中から一番丈夫そうな傘を選んだ。それは残念な事に一番お気に入りの赤い傘だったけれど背に腹は変えられない。 ヒールなんて履いていては万が一モンスター――またの名をチンピラ、どうしようもない奴等――に襲われた時逃げる事が出来ないので 汚いスニーカーをはいた。 勇者はオシャレ心を捨てなくてはならない。 私はマンションの階段を駆け下りてそのままマンションを飛び出し右の道を走った。武器は持っているがレベル は低いのだ。だからって経験値を稼ぐ気なんて無い。私は平和主義な勇者なのだ。それならば出来るだけ厄介事は避けるべきだ。 それに一刻も早くお姫様を助けに行かないといけない。 夜のシュテルンビルトは昼間の喧騒がうそのように静まり返って紺色のベールに覆われている。時折パトーカーが 鳴らすサイレンの音が聞こえる。何か事件だろうか。大事にならなければ良いけど。ヒーローにだって休みは必要だ。 もちろん警察官も休みは必要だ。けど、ほら警察の人は一応労働時間が決まってるから。 そんなことを考えながら走っていると、右前方のポリバケツ型のゴミ箱ががたがた揺れているのに気付き私は走るのをやめて傘を構えた。こんなご時世だ、 ただのポリバケツだと油断していたらやられるなんてこともありえる。こんなところで時間を潰してる暇なんて無いのに。 がたがた揺れるポリバケツを睨みながらじりじり横を通り過ぎようとした時、バケツが転んで中からごみと一緒に猫が 飛び出てきた。きょとんとした顔をする猫に腹立ち紛れに私は傘を振り回して追いかけてやった。 人騒がせな猫を追い払い、ひっくり返ったゴミ箱と辺りに散らばった悪臭を放つ何かの欠片たちを横目に私は先を急ごうとした。 その途中、きらっと光る何かが地面に落ちてるのに気付き近寄ってみる。 まさかこんなところにお宝が...! ...なんだ魚の頭か。 「...」 名前を呼ばれてお宝と間違った、どんよりした魚の目と見詰め合うのをやめると、後ろに肩で息をしているイワンが居た。 「あれ? なんでここに...」 魚の頭なんてどうでもいい。私は急いでイワンに駆け寄った。イワンは荒く呼吸を繰り返しながらホッとした様に息を吐いた。 「だってが、来るって、言うから...」 苦しいのか途切れ途切れに紡がれた言葉を聞きながら私はイワンの背中をぽんぽんと叩いた。生憎と飲み物は持っていない。 上から降ってくる水を防ぐものは持ってるけど...。 「傘、いる?」 「...いらない」 いらないだろうことは知ってたけど一応聞いたんだ。それなのに、全く失礼なことにイワンは眉根をぎゅっと寄せて変な人でも見るような目で私を見た。 私も負けじと眉根を寄せてイワンを見た。 しばらくそうやって睨めっこをしていたけどイワンの方が先に視線を反らした。 「勝った!」 「...何で傘なんて持ってるの?」 睨めっこ対決に負けたことについては一言も言わずに口先を尖らせて恨めしそうな目でこちらを見ている。 「もしもの時のための伝説の剣代わり」 「なにそれ...」 変なの。イワンの言葉に私は反論するために口を開いた。 「勇者が持ってるでしょ、伝説の剣つってお姫様を助けに行く時とかに」 「うん......うん?」 一度納得したように頷いたくせにもう一度頷いた時に驚いたようにパッと顔を上げて私を見ている。 「ちょっと待って、それだと僕がお姫様になる」 「だってそうじゃん」 けろっとイワンがお姫様役であることを認めるとイワンは寝耳に水とでも言うように驚いた表情のまま固まった。 それを一瞥してから私は傘の先で地面をぐりぐり掘った。 「めそめそしてるお姫様を慰めに行こうと思ったんだよ」 何を分かりきった事を、と思いながら私は上の空でイワンに説明してあげた。 傘の先は全然アスファルトに穴を開けれる 様子が無い。アスファルトはダメージなんて少しも受けていないようで私の伝説の剣ばかりが削られていく。 「ぼっ、僕めそめそなんてしてないしお姫様でもない!」 心外とでも言いたげなイワンに私は、はぁ?何言ってんの? と言う顔をして見せた。ホントに何言ってんのと心の底から 思ったからだ。イワンはそんな私の表情に怯んだようにぐっと言葉に詰まったようだが、負けじと一歩前に出てきた。 その顔色はこの暗い中でははっきりとは分からないけれど多分赤くなっているだろうことは簡単に想像できた。 まさかめそめそしてるのが電話を通してこちら側にまで筒抜けとは思わなかったらしい。そんなことでもなければ 私はわざわざ夜中に危険を冒してまでイワンに会いに行こうとは思わないのに。 「へーへー私の勘違いかもね」 別にイワンのプライドを傷つけたいわけではないので私は歩み寄ってあげる事にした。それなのにイワンは私の歩み寄り方 が気に入らなかったらしい。こちらの言い分としては贅沢言うなと怒鳴ってやりたい所だ。 そしてあろうことかイワンは反撃してきた。 「だってこの間ゴキブリが出たからって僕に助けてって電話してきた」 「したけど」 それが何だ。と機嫌が悪いのを隠さずに視線で問うと、イワンはさっきまでの情けない顔を引っ込ませて眉を吊り上げて 鋭い視線で私を貫いた。こうして見てみると初対面の時はイワンの外見から本当の性格とは全く違う性格を想像してしまっていたのを思い出した。 すぐに私の勘違いだと気付いたけれど。 「だから僕が勇者でがお姫様だよ」 何が気に入らないのかと思えば役が気に入らなかったらしい。私の主張する役とまるっきり正反対の役を主張するイワンに 私はすぐさま噛みついた。 「いや! 私が勇者!」 「僕が勇者!」 「イワンはお姫様!」 「がお姫様!」 「私伝説の剣持ってるしー!」 「僕だって傘なら持ってるよ!」 引こうとしないイワンを睨むと向こうも睨み返してきた。夜中、生ごみが辺りにまき散らかされている場所で私とイワン は睨みあっている。それもその原因になっている話は実にどうでもいいことだ。そう考えると急に馬鹿らしくなってきて この状況がたまらなく面白いものに思えてきてしまった。我慢できずに吹き出すとイワンも釣られるようにして笑い出した。 生ごみが散らばっている中で男女が大笑いしているなんて端から見たらさぞや奇妙な光景だっただろう。 いくら勇敢な勇者である私でもそんな現場に立ち会ったら近づきたくは無い。 最早何が面白いのか忘れて笑った。夜中だからか少しテンションがハイになっているようだ。私も、イワンも。 ひとしきり笑ってから、そういえばとイワンに尋ねた。 「イワンは勇者より忍者じゃないの?」 「けど、がお姫様だったら...」 「あ? 聞こえない」 「...もういいよ!」 ぼそぼそと小さい声で言われたっていくら夜中で辺りが静かでも聞こえない。なのにそう言うとイワンは口をへの字に して逆ギレしてきた。何が気に入らなかったのか何かをぶつぶつ言っている。それをまるっと無視して私はイワンに提案してみた。 「ここでボーっとしてるのもだし、ここからだと私の家のが近いから来る?」 「えっ!!」 大げさにイワンが普段では考えられない大声を出して“え”の口のまま固まった。 「嫌?」 「いっ、嫌じゃないよ! 行く行く!」 尋常ではない食いつきでイワンが力強く何度も頷く。何だか心なしか鼻息も荒い気がする...。 私がそんなイワンの様子に僅かに圧倒されていると、イワンがつつつと寄って来て私の手を握ってきた。 ...汗ばんでるし。 イワンの手ごと持ち上げて私は半目でイワンを見ながら尋ねた。 「...この手は何?」 「え、何って...」 ねぇ? と私に同意を得るように話しかけるイワンの目に私はよくない企みを見た気がして繋いできた手を振り払った。 これで尋常ではない食いつきの理由も分かった。 「何を考えてやがる」 「べ、別に変なことなんて考えてないよ...」 「...」 「...ほんとに」 言えば言うほどに嘘っぽく聞こえることをイワンは知らないらしい。その上に視線は先ほどから一向に私の目を見ようとしない。 そして何だか恥ずかしそうにもじもじしているのと“変なこと”と口走ったのが何よりの証拠だ。 「私変なこととは一言も言ってないけど...」「...あ」しまった、と言いたげに口を開けたイワンを睨みつけると 誤魔化すような笑みを返された。そして性懲りも無くまたしても私の手を握ろうと手が伸びてきたので思いっきり叩き落してやった。 「いたっ」と声を上げたイワンをその場に放置して私は先ほど走ってきた道を戻り始めた。イワンが慌てたように追いかけてくる足音が聞こえる。 「襲われるー」 「なっ...! 誤解されるから!」 「変な人が追いかけてくるー!」 「ホントにやめて...!!」 切実な声が聞こえたので流石に可哀想かと思って足を止めてくるりと振り返るとイワンが青い顔をしながら安堵のため息をついた。 「僕ヒーローなのに捕まったら...」 「じゃあ私には指一本触れるな」 「え」 「え?」 「...」 「...」 「...ちょっともダメ?」 「......」 「......」 「お前もう帰れ」 「えっ?!」 |