「あ、ガム欲しい人ー」

トレーニングも終わり、シャワーも浴びてこれから帰ろうとしている時に虎徹が唐突に声をあげ、後ろポケットから ガムを取り出した。トレーニングが今終わったばかりでお腹をすかせていた一同はすかさず皆声を上げた。
ロッカールームに低い声が響く。その返事を聞き、虎鉄は長方形のパッケージをびりびりと乱暴に破き、一枚一枚包装してあるガムを一人ずつ渡していった。 後渡していないのはイワン一人になった時、虎徹の頭にくだらない悪戯が浮かんだ。 期待した目で自分を見上げるイワンに「ほら」と言いながらガムを一枚差し出す。
すると、礼を言いながらイワンが手を伸ばした。 だがそこで虎徹はガムを持っている手をイワンの頭上に持っていった。イワンは一瞬呆けたように自分の頭上のガムを見上げ、 この行動の意味を問うように虎徹に視線を向けた。それに対して答えずに虎徹は「ほれ、取ってみろ」と挑発的に ガムを持っている手をぷらぷらさせて見せる。イワンがムッとした顔をしたのとほぼ同時に周りで傍観していた者たち から批難する言葉飛んだ。
「ワイルドくん!! 君はなんてひどいことを...!」「何て大人気ないんですか、おじさん」「虎徹、やめてやれ」

「なんだよ!ちょっとからかっただけだっての!...悪かったな折紙」
「いいですよ。ありがとうございます」

拗ねたように唇を尖らせながらガムをイワンに渡して文句ありげに外野を睨む。 大人気ない虎徹にお礼を言いイワンはようやくガムを手に入れることが出来た。コーラと書かれた包装紙から銀色の中身を 引っこ抜いてそれを開けて中に入っていた茶色いシート状のガムを取り出し、口に入れる。

「お前らもこういうことやっただろ、学生の時とかによー」
「はぁ?」

と真っ先に声を上げたのは彼のバディであるバーナビーだ。声だけでなく表情まで不快そうに歪んでいるのでこれ以上 何かを言うのは戸惑われた虎徹だったが、ちょっとした悪戯を皆に批難され、悪者のような扱いを受け(もちろん自分が悪いのは分かっているが)拗ねていたこともあり、言い訳のようなことを言い出した。

「好きな女の子とかにちょっかい出したくてこういうことしたりしただろー?!」
「しません」

にべも無く切り捨てたバーナビーは無視して虎徹は続けた。

「こうやって意地悪したら女の子が意地になって跳ねたり、上目遣いでこっちを見てきて楽しいのにやったことないのかよ!」
「アタシはぁ〜される側だったわね」

んふ。と笑うネイサンに対して誰もつっこむ勇気が無いのでそのままスルーされる事になった。

「まぁ、一回想像してみ。好きな子が下から見上げてくるの」

好きな子と言われてそれぞれが色々な反応をする。その中で根が素直なキースは虎徹の言うとおり、ついその光景を想像してしまった。 頭の中に浮かび上がった光景に顔が緩みそうになったが、ハっとしたようにぶるぶると頭を振った。 それを見逃さなかった虎徹は最後に「一回試してみ」と、まるでキースに話かけるように言い、この話題を締めくくった。 虎鉄の視線が真っ直ぐ自分を貫いたような気がして焦ったキースは返事をすることも出来なかった。


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キースがトレーニングルームに行くと、部屋の中は人の気配がせず自分が一番だったのだと悟った。
特に珍しいこともないのでそのままロッカールームに 向かう。着替え終え、荷物をロッカーに詰めているとカサと音をたてたビニールにそういえばと思い出す。 職場で貰ってきたマフィンだった。ちょうどヒーローの人数分あったマフィンを上司の好意で貰ってきたのだ。 タオルと飲料水、それからマフィンの入ったビニールを持ってキースはロッカールームを出た。 ここに置いていくと渡すのを忘れてしまうのは自分の性格上よくわかっていた。
荷物をベンチの上に置き、さぁトレーニングをしようと気合を入れたと同時に誰かが部屋に入ってきた。

「こんにちはー」
「やぁ、くん。早いね」
「キースさんの方が早いじゃないですか」

人懐っこい笑みを浮かべ、こちらにやって来たの姿にキースの頬が自然に緩んだ。いつも通り、荷物を持ってそのままロッカールームに 入ろうとしたに慌てて声を掛ける。そして声を掛けてから別に後でもよかったのだということに気付いて、申し訳なくなった。 だが、やっぱり後で...と言おうとしたキースの目の前にはすでにがスタンバイしていた。

「すまない...後でもよかったんだが...」

自分よりも低い位置にある頭を見ると、の視線はキースが持っているビニール袋に釘付けになっているのに気付いた。 本能でそれが食べ物であると分かったのか、興味津々に袋を見つめている。その姿は自分の家で飼っている犬のジョンに似ている。 思わず込み上げてくる笑いを抑えながら袋から一つマフィンを掴む。一つずつ小包装されているマフィンの味はどれも同じで、 プレーンの生地の上にはバタークリームが絞られ、飾りにシュガークラフトで作られた色鮮やかな花が飾られていて見ているだけでも楽しいものだった。 女の子が喜びそうなものだと考えていたがキースの予想を上回って、は嬉しそうだ。
マフィンを目にするとその場で小さく跳ねたが純粋に喜んでいるのが伝わりキースも嬉しくなってくる。

「マフィンを貰ったんだ。くんは甘いものが好きかい?」

話しかけるとやっと視線がマフィンから離れてキースに戻ってきた。
至近距離で下からキースを見上げ、何故か右手を挙げ宣誓するように目を輝かせては言った。

「好きです!」

その瞬間、キースの胸が大きく跳ね上がった。
思わず動きの止まったキースだが、頭は働き続けていた。先日の虎徹の言葉が脳裏に自動的に再生される。
“まぁ、一回想像してみ。好きな子が下から見上げてくるの”
まさに今虎徹が言っていたシュチュエーションを自分は体験している。あまつさえ、好きだとも言われてしまった...!(マフィンが、だけど) のことをジョンのようだと微笑ましく考えたのをキースはすぐに撤回した。ジョン相手ではこんな気分にはならない。
“こうやって意地悪したら女の子が意地になって跳ねたり、上目遣いでこっちを見てきて楽しいのにやったことないのかよ!”
またしても頭の中では虎徹の言葉が自動再生される。怪訝な表情で「大丈夫ですか?」と尋ねるの声は最早キースには届かなかった。 頭の中で「そんなことするわけにはいかない!」と叫ぶも、本心では試してみたいという気持ちのほうが勝っていた。 その欲求を抑えようとこれはいけないことなのだと自らに語りかけ、手に持ったマフィンをに差し出した。

「わーい! ありがとうございます」

嬉しそうに笑うはマフィンを一心に見つめ、目をきらきらさせて礼を言った。
キースの手にあるマフィンを掴もうとが手を伸ばした瞬間、キースの頭にまたしても虎徹の声が響いた。
“一回試してみ”
悪魔のささやきだった。
気付けばキースはマフィンを持った手を自分の頭上に持ち上げていた。
目の前にあったマフィンが移動したので自然との目はマフィンを追いかけた。
一瞬、この光景に戸惑っただったがこちらを見下ろしたまま動かないキースを見て何かのゲームだろうか、とか そんなことを考えながらどうすればいいのか分からず困惑してキースを見つめる。すると、キースは右手に持っているマフィンをの目の前に下ろしてきた。 一体今の行動にはどういう意味があったのか、という疑問は消えなかったが素直に先ほどマフィンを捕まえれずに 宙を彷徨っていた手を伸ばした。が、掴めると思った時にまたしてもマフィンは上に持っていかれてしまった。
戸惑っていると、またしてもマフィンが目の前にやって来る。
だが手を伸ばすとマフィンは逃げてしまう。
手を伸ばし、背伸びをするもキースより背が低いにはキースの頭上など到底届くはずがなかった。
...まさか、これはからかわれているのだろうか。
相手がキースだったのでその可能性を考えなかっただったが、ここまでされると流石に気付いた。それプラス嬉しげに口元を吊り上げているキースを見、可能性は確信に変わった。
からかわれている。その事実に気付き、日頃はどこにあるのか分からないの闘争心に火がつけられた。
絶対にキースさんからマフィンを奪い取ってやる!! ヒーローとは思えない物騒な物言いで叫ぶ。(もちろん声には出さずに心の中でだが。)
足のバネを活かそうと一度その場でしゃがみ込む。キースが興味深そうに見つめている中、思い切り跳ね上がったがマフィンまでは届かなかった。 虚を突かれ驚いたキースだったがマフィンは離さなかった。
意地になって何度もジャンプを繰り返すがキースの頭上までは届かない。
一方、キースは目の前で何度もジャンプを繰り返すを見下ろし虎徹の言っていた意味が分かった。一生懸命にマフィンを 捕まえようとするを見ていると何か言いようの無いものが背筋を伝い、ぞくぞくした感覚を覚える。
......楽しい...!
だが、何度も繰り返しているとむきになってマフィンを取ろうと跳ねていたが動きを止めた。少し肩を弾ませている。 何度も飛び上がっていたのだからそれなりの運動になっていたらしい。膝に手を置いて呼吸を繰り返しながらキースの瞳を見つめる。 はこのままではいつまで経ってもマフィンを手にする事が出来ないと悟り、続いての作戦を編み出し繰り出した。キースの情に訴えかける作戦だ。 大げさに悲しげな顔をしてキースの瞳を見つめる。ここまでしてマフィンが食べたいのかと聞かれたら正直首を捻ってしまうが、 マフィンをキースから奪い取ってやる! という人知れずたてた(くだらない)誓いのために頑張ることにしたのだ。つまり意地だ。
そんなの作戦(キースの情に訴えかける作戦)を知らないキースは悲しそうに眉をハの字にして自分を見上げてきたに急に我に返ったようにハッとした。 夢を見ていたところを張り手で叩き起こされたような衝撃を受けた。それほどの悲しげな表情がキースにはクリティカルヒットしたのだ。
今まで薄く笑みを浮かべていたのが嘘のようにこちらも悲しげに眉がハの字になった。それから額に手を置いて「あぁ...!!」と後悔のポーズ。
驚いたのはだ。思わず作戦のことなど頭から抜け、驚いた表情でキースを見つめる。

「すまない! くん!」

必要以上に大きな声なのはいつものことだが、その声はいつもの様に明るくは無い。焦ったように半ば押し付ける形でにマフィンを渡す。 さっきまでと態度が急変したキースにはきょとんとしながらマフィンを受け取った。

「悪魔のささやきに唆されるなど...私はどうかしていた...! 本当にすまない...!」
「...いえ」

こちらが驚くほど必死に謝ってくるキースに半ば無意識に答えてから、はさっきの出来事は幻だったのでは、とまで考えた。 考えてみればキースがあんな意地悪なことをするわけがないし...何か疲れていたのかもしれないと無理やり今の出来事に理由を捻り出して結論付ける。 さっきの出来事を信じたくないというの無意識の思いがその結論を説得力あるものとして思い込ませた。

「気にしてないです。...それよりキースさん大丈夫ですか? もしかして疲れてたりとか...?」

まさか自分のことを心配されるとは思わなかったキースは雷に打たれたような衝撃を受け、その場に硬直した。さっきの張り手よりも何十倍もの衝撃だ。 はただ今の出来事を処理できずに適当な理由を見つけ出しただけなのだが、キースがそんなことを知るわけもなく...。
私は好奇心を満たすため...楽しむためにあんな行動を取ったというのに...怒るどころか気遣われるなんて...!!
こんなにくんはいい子なのに意地悪するなんて...私はなんて罪深い......!!
キースの罪悪感の塊がみるみるうちに胸の中で大きさを増した。そしてそんなキースを気遣うからの視線が一直線に向けられる。 キースにはそのまっさら(に見える)な瞳を正面から受け止める事が出来ず、首を捻ってサッと視線を反らした。
苦悶の表情を浮かべるキースにはやはり調子が悪いのだと勝手に納得した。要領を得ない「あ、いや...」などと彼には珍しく歯切れの悪い返答もその仮説を裏付けているようだった。 そうなるとさっきの出来事も捕らえ方が違うようになってくる。
調子が悪かったのならしょうがない。
キースさんが意地悪なんてするわけがない。
彼女の中の揺らぎかけたキースに対しての認識がまた何事も無かったかのように元に戻った。
心配の色を浮かべる瞳が下から見上げてくる...この状況にいたたまれなさを感じたキースはマフィンの入ったビニール袋をに押し付け 「これもよかったら食べて欲しい...!!」と叫ぶように言うと少し外の空気を吸って頭を冷やしてくるよ。というが早いか 走ってトレーニングルームを出て行った。
はその後姿をぽかんと口を開けて見送った。



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「ワイルドくん...実は私は君に謝らなくてはいけない...」
「へ?」
「あの時ワイルドくんを批難したが私にはそんな資格はない...本当にすまない...!」
「ん? え?」
「私は悪魔のささやきに屈してしまった......なんて情けない...!」
「え? 悪魔? え?」
「おじさん! 何したんですか?!」
「いやいや違うから俺なんもしてないもん!」
「どうせまた目玉焼きの事を言ったんでしょう!」
「いや、言ってないって!」
「あぁ......あまつさえ私は楽しいとまで思ってしまった...!」






LRにて授けられし悪魔の知恵




(20111008)