「ときに潮江先輩、ばれんたいんなるものを先輩は知っていますか?」 「...知らん。暇ならそこの帳簿を背表紙に書いてる番号の順に並べてくれ」 少しでも早く帳簿を片付けようと少し早めにやって来て一人そろばんを弾いていると、がふらっと部屋の中に入ってきたかと思うと 何故か俺の隣に腰を下ろした。 始終無言の行動に一体こいつは何を考えているんだ...不審に思うものの自分から声を掛けるのは 癪だと黙っていると先ほどの唐突な言葉だ。 やっと口を開いたと思えば...ばれんたいんなど初めて聞いた。 いやに畏まった口調に不信感を覚え、自然と眉根に力が入る。の方を振り向かずに手を動かしながら帳簿整理を頼めば、大人しくは帳簿を並べ始めた。 しばらくそろばんを弾く音とが帳簿を並べるために机で角を揃えてる音だけが響いた。 「しんべヱくんから聞いたんです」 それまで帳簿を並べていた手が止まり、あからさまに視線を送ってくるを無視してそろばんを弾くものの 調子が狂い、弾くはずの無い珠を動かしてしまった。...くそッ。 バチンっと飛び上がった関係の無い珠を見つめ、自分自身に対しての苛立ちを持て余しながら俺はため息を吐いた。 ため息と共に苛立ちが体から抜けるなんてことは無く、諦めにも似たため息に自然と体の力が抜けた。 ...最初から無駄な抵抗だったのだ。 不承不承顔を上げれば、途端に期待したようにが表情を輝かせた。俺はムスっとした表情を顔に張り付け、話の続きを促す事にした。 「...何をだ」 このままではどうせ計算も進まないから、自らにいい訳めいたことを呟きの話に耳を傾ける。 「外国では好きな人に贈り物をする日らしいです」 「...へぇ」 「そしてそのばれんたいは今日なんです、潮江先輩...!」 「そうか...」 何故か大事とでも言いたげな口調に、だが返す言葉もなく上の空でそれだけ答える。 外国の風習などに興味は無い。俺が今気がかりなのは“ばれんたいん”などと言うものではなく、帳簿についてだ。 「私の話ちゃんと聞いてましたか?」 「あぁ、聞いてた」 「それなのにそれだけですか...?!」 「他にどうしろってんだ...」 不平を隠しもしない表情で睨まれたかと思うと、次の瞬間には表情を翳らせたがぽつりと呟いた。 「...つれないなぁ、潮江先輩」 擦れ気味の小さな声音に思わず動揺してしまう。 は下を向き、まるで顔を隠すように膝を立てた。 ...まさかそんなちゃんと話を聞かなかったぐらいで...! 隠れて見えないの表情を想像すればするほど焦りが増す。意味も無く手を握ったり開いたりを繰り返し、 やっとの思いで心を決め、声を掛けようと口を開くとがキッと顔を上げた。その顔には涙の後など無かった。 それどころかふてぶてしい表情を浮かべ、目は文句ありげに細められている。どこかかわいくない野良猫を思い立たせる。 「ここまで言わなきゃ分からないなんて...」 「な、んのことだ」 内心の安堵を隠しきれず言葉は不自然に途切れた。それをどう思ったのかは鼻から大きく息を吐いた。 なんて態度のでかい後輩だ...! 「ニブチンですね、潮江先輩」 「ニッ...?!」 立て膝を崩して人目など気にせず胡座をかき、腿の上に肘を立て、それに顎を乗せて態度までふてぶてしくなった がまっすぐに俺を見てくる。険のある瞳の奥が強い光りを放っている。 「私に贈り物があるはずでしょう」 「...は?」 サッと右手を差し出し予想外なことを言われ、俺は咄嗟の迷いが命取りになる忍者を目指している というのにの言葉が理解できなかった。思考が完全に停止したのだ。ここが戦場であったならば命は無かった。 「だから今日はばれんたいんだってさっき言ったじゃないですか」 が苛立たしげに説明らしきことを言ったが、俺にはが何を言いたいのか分からない。 の真意を探ろうと先ほどのばれんたいんについての説明を思い返すため、上空に視線を彷徨わせると「チッ!!」 と舌打ちが聞こえた。驚き、その音が聞こえた方を見れば当然といえば当然なんだがそこにはが居て二重に驚いた。 「...おい、今舌打ちしなかったか」 「んなことはどうでもいいです」 「どうでも、」 よくはないだろ! と言うべく開けた口は言い終わる前にの何かを訴えるような視線の所為で言葉にならなかった。 息が詰まり、ぐっ、と喉が変に強張った。 そんな俺を一瞥し、ふぅ、と息をついたは目を伏せた。睫毛が目に影を作り、あんなにも生意気な言葉が 出てくるとは思えない薄く色づいた唇は今は閉じられている。無意識のうちに珍しい光景を観察しているとが突然顔を上げた。 完全に目が合い、咄嗟に俺が顔を背けるよりもが口を開く方が早かった。 「潮江先輩って私のこと好きですよね?」 「...なっ!」 首の角度が不自然に傾いていたのをに向けなおし、考えるよりも先に口が動いた。 「...バッ、バカタレィッ!! お前は一体何を言ってるッ?!」 腕を組んでどこまでもふてぶてしいの一言に慌てて言い返すが、声は無様にも上擦った。 こいつは一体何を言ってる?!正気か...? カッと全身に熱が上り、喚く俺を見ては一瞬その表情をきょとんとさせた。純粋に呆気に取られた様子に自分が大げさに 反応してしまったかと居心地の悪さを感じ始めた頃、がにんまりと口元に嫌な笑みを浮かべた。 「そんなに必死に隠さなくても」 「かっ、隠すもなにもそんな事実はどこにも無い!!」 しゃあしゃあとそう言うにたまったもんじゃないと力を込めて言い返す。が、は何故かますます嫌な笑みを深めた。 反射的に脳裏に同室の作法委員長が今のとそっくりに笑っている姿が浮かんだ。 この笑いはよくない...! 「潮江先輩かわいくないですね」 「かわいくなってたまるかっ!!」 「もっと素直にならないといけないですよ」 「だからそんな事実はどこにも無いと言っているだろう!」 しつこく言い募るに声を張り上げて答える。すると今までにやついていた顔がフッと真顔になった。 「もういいや。じゃあ次のあてを探しに行く旅に出ます」 「次のあて、だと...?」 「食満先輩でもあたってみます」 「な、に?」 留三郎だと...? まさかあいつもが? いや、だがそんな素振りは一度も...。 次々に言葉が溢れてくるがどれも口をついては出てこなかった。俺を混乱させた張本人であるは俺の様子など眼中にないというように立ち上がった。 「それから善法寺先輩と中在家先輩と、後は雷蔵と竹谷と久々知...勘右衛門は逆に収穫物をとられそうだし、近づかないで置こう」 指折りしながら次々と聞きなれた名前をあげるを呆気に取られ見ていると、真剣な表情で「四年生から貰うのは まずいと思いますか?」と尋ねられる。 なんだ? こいつは何を言っている? いまいち話の流れについていけず眉間に皺を寄せるとが何か閃いたように手を叩いた。 「もしかして何か勘違いしてましたか? 好きな人って別に広い意味での好きな人ですよ」 にやりと笑ったはおもしろそうに俺を見ている。 ごそごそと袖に手を入れ、何かを探っている様子のを横目で捉えながら俺は気が抜けたと同時にどうしようもない羞恥を感じていた。 先ほどの会話を思い返すと全身が燃えるように熱くなった。あの笑いは俺の勘違いを笑ってのものだったか...。改めてこの後輩の趣味の悪さを再確認し、まんまと騙された自分に歯噛みする。 「はい、どうぞ」 「...なんだ?」 手に紙包みを持っているを訝しみ、見遣る。だが、俺の問いには答えるつもりは無いらしい。 どうせ碌な事が無いと警戒して手を伸ばさずにいるとが手を開いた。必然的に紙包みは落下する事になり、反射的にそれを掴んでしまう。 「私からばれんたいんの贈り物です」 手の中の物に気を取られているうちにはさっさと部屋を出て行った。嵐のように現れたくせに去り際はあっさりすぎやしないか。 “広い意味での好きな人”の言葉を思い出し、少々落胆している自分がいることに気付き、苦く思いながら手の中のばれんたいんの贈り物とやらに視線を落とした。 白い紙の包みは赤い紐で縛られている。中身は一体なんだ。あいつのことだ、どうせおかしな物に違いない。 警戒しながら紙包みを机の上に置いたその時、消えたはずの人影がまた戻ってきたのが障子に映った影によって分かった。 スッと戸がわずかに開き、そこから片目だけで中を覗き込んでいると目が合う。 「...言い忘れてました」 「...なんだ、まだ用があんのか?」 相変わらず見えるのは片目だけの状態で、あとの部分は戸の向こうで影としてしか見えない。 それでもが“言い忘れていた何か”を口にするのを躊躇しているのが空気で読み取れた。 「...潮江先輩のには特別な意味を込めました」 「は、」 「では」 「......あ、おい!」 言い終えるだけ言って、俺が掛けた言葉に立ち止まりもせずは忍者らしくその場から姿を消して見せた。 いつの間にか浮かせていた腰を下ろしながら、中途半端に少し開いた戸の向こうを確認するも人影はなくなっていた。 耳の中で先ほどの言葉が繰り返される。 「どういう意味だ...」 シンと静まっている部屋に響くほど激しく脈打つ心音を誤魔化すべく出した声は動揺に震えていたが、それを拾う者は幸いにも居ない。 の声はまるで緊張を押し殺しているかのように平時より低く、そして今の俺のように震えていた。 それが何を示しているのかを考え、にからかわれたついさっきよりも体が熱を持った。 もう一度半端に開いたままの戸に視線をやってから机の上の紙包みに手を伸ばした。 シニカルに有平糖
口に放り込んだ砂糖の塊のようなそれはひたすら甘かった |