ここだけの話、山本シナ先生は鬼である。

「口付けを貰ってくる(頬でも口でも可)」などという破廉恥な課題が出たとき、私は絶望的な気分になった。
その上に先生は美しい笑みを浮かべ「この学園の中で」などと追加注文までした。周りの友人達が色めきたっている のを横目に私は頭の中が真っ白になった。これを機に気になるあの人に迫ってしまおう! と張り切る友人達を呆然と送り出し、 私はどうするべきか考えた。私には気になるあの人はいないのだ。何か良い案はないものかと頭を捻り、そして良い案が浮かんだ。 別に相手は異性と限定されているわけではない。となれば、後輩のくのたまに頼んで一発頬にぶちゅっとやってもらおう と思ったのだ。嫌がる後輩を菓子で釣り(「いやですよ! 何で私が先輩に口付けなんて!」「好きなお菓子買ったげるから!」)課題は無事に終わったとホッと息をつくもシナ先生は難しい顔をして驚くべきことに再試験 を私に言い渡した。「異性とは言っていなかったじゃないですか!」猛抗議する私にシナ先生は苦く笑って仰った。

「まさか後輩から貰ってくると思わなかったものだから...説明していなかった私も悪かったわね。ごめんなさい。 今度はきちんと異性から貰ってくるのよ」

そして私は教室から放り出された。
...おいおい、そりゃないぜ!!
後輩に渡す菓子代金は出来るなら弁償して欲しい。胸の中では不満たらたらなわけだがシナ先生に逆らえるわけも無い。 私はとぼとぼとあても無く学園内を歩き始めた。 気になるあの人の代わりに頭の中には人が良さそうで頼めば断らなさそうで、かつ、口が軽くなく、後腐れが無い相手がいないものかと 考えてみるもそんな都合のいい相手は思い浮かばなかった。しょうがないので消去法で考える事にする。
まず、上級生には頼み辛い。よって却下。
同級生は...何か照れくさくて恥ずかしい。よって却下。
となれば残る標的は下級生になるわけだが......下級生に口付けを頼むというのも何だか情けない。その上に下級生たち からすれば私は上級生ということになる。すると上級生に頼まれたのに断れない! となるかもしれない、そうなれば 私は強制的に下級生の唇を奪った痴女になるのではないか?
権力を行使し、無理やり下級生に言う事をきかせたのだから...。
齢十三で痴女と呼ばれるなど...ぞっとする想像に私は顔を歪めた。
上級生もダメ、同級生も無理、下級生はもっと無理ということになると相手が居なくなってしまう。先生という手も あるがそれこそ頼みづらい。

「......」

もうこうなればやけだ! 次にここを通りかかった人にお願いしよう。運任せだ! 女は度胸!
私は木に寄りかかり、目の前の廊下を歩く人を待つことにした。その人に頼み込み、頬に口付けをしてもらおう。 断られればしょうがない、その次にここを通りかかった人にお願いする事にしよう。
どうか良い人が通りかかりますように。と願いつつ廊下を凝視すると、視界に足の先が見えた。
この人に...!
慌てて顔を上げるとそれは緑の装束、上級生は出来るならば避けたかったのだが...。そう思いながら視線を 上げれば予想外の人物の顔が見えた。
な、七松小平太...先輩...!
私の視線に気付いた様子でこちらを振り返る気配がし、私は咄嗟に顔を横に背けた。頭の中では猛烈な勢いで脳内会議が繰り広げられる。 七松先輩はまずいだろう! 何がまずいかって...何もかもがまずい!!
色々な噂は私の耳にも届いている。この前など熊を素手で倒したという噂だし。そんな人相手に「頬に口付けをいっちょお願いします」など言えるわけがない。 そんなことを言えば熊を倒した拳でぶん殴られそうだ。「貴様...よほど死にたいようだな...!!」とか言って。 七松先輩がどういう人かはよく知らないけど熊を倒したのだからそんなことを言っても不思議ではない。 いくつもの死地を乗り越えてきたのだ。多分あの緑の装束の下は恐ろしいほど筋肉もりもり...。
...よし、七松先輩はやめておこう。しょうがない、私だってまだ十三年ほどしか生きていないのに死にたくは無い。 それも原因は接吻して欲しくてとかどんな変態だ。


次だ次!
気分新たにジッと目を凝らして次の標的が通りかかるのを待つ。今度こそ良い人が通りかかりますように...!
願っていると視界に足の先が見えた。
この人こそが...!
慌てて顔を上げると紫の装束、つまりは同学年ということになる。出来るなら同学年はやめて欲しかったがしょうがない、 そういう星の巡り合せだったのだろう。三木だろうか、滝夜叉丸だろうか...綾部だろうか。
観念して顔を上げるとそこには予想外の人物が居た。

「あれ、どうしたの? ちゃん」

タっ、タカ丸さん...!
にこにこと人懐こい笑みを浮かべているのはタカ丸さんだ。正体が分かるとまたしても頭の中で猛烈な勢いで脳内会議が繰り広げられた。 タカ丸さんなら私が困っているから頬に口付けして欲しいと頼めば快く引き受けてくれそうだ。経験豊富そうなタカ丸さんの ことだ、ちょちょいのちょいで終わらせてくれそうだ。...だけど、だからこそ! 頬に唇があたり、これで試験は終わりだとホッとする 暇も無く唇が離れた次の瞬間には「うっ...!げほげほ」「大丈夫?!」「は、はい...何だか急に気持ち悪くなって...」 「そっかぁ...つわりか」「え?」「できちゃったね」「...え?」みたいなことになりそうだ。
恐ろしい...。あくまでも私の一方的な印象でしかないのだけれどタカ丸さんならばそんな展開になったとしても不思議と納得してしまう。 別に不誠実だとか女の敵とかそういう訳ではない。ただ日頃から女の子の扱いがうまいな、慣れてるな、という印象からここまで妄想できてしまったのだ。

「具合でも悪いの?」

私を心配してくれたらしく、私が妄想の世界に旅立っている間にこちらに歩いてきていたタカ丸さんに私は慌てて首を振った。

「全然大丈夫です! 特に何も問題はないです!」
「...そう?」
「はい! どうぞお通りください」

先を促せばタカ丸さんはまだ納得していないようだったが渋々と歩いて行った。ふーっと息を吐くと不思議とどっと 疲れが肩に圧し掛かってきた。まだ何もしていないというのにひどく疲れた。 何だかどうでもよくなってきてしまう。もう不合格になってもいい気さえしてきた。このまま時間切れというのでもいいのではないだろうか。
半ば達観した気分でぼんやりと遠くの空を眺めていると不意に後ろから視線のようなものを感じた。

「...わっ! び、びっくりした」

視線の正体は真後ろに立っていた中在家先輩だった。予想外に大きな壁のような中在家先輩がすぐ後ろに居たのに驚いてその場で飛び上がった 私を眺めながら中在家先輩は相変わらず表情を変化させない。
...怒っているのだろうか?
無表情で見られるとつい怒っていらっしゃるのかとびくびくしてしまう。慌てて頭の中で中在家先輩が私に会いに来た 理由を考えてみると、それは一つしかなかった。

「すいません...期限切れてしまいましたか?」

図書室から借りていた本が確か一冊だけあったはずだ。その本の返還についてだろうと頭を下げながら言えば中在家 先輩が頷いた。

「...あぁ、三日前だ」
「す、すいません。今日返しに行きます...」

頭をもう一度深く下げながら謝ると、中在家先輩はあっさりと許してくれたようでこくんと頷いてくれた。...意外に優しい。
私に課せられた今日の予定が二つに増えたが、一つはもう諦めの境地だ。だからといってもう一つも疎かにしていいと いうわけではないのでそっちはきちんとするつもりだ。(それこそ意外に優しい中在家先輩がお怒りになるだろうことは分かりきっているので。)

「それじゃあ後で返却に行きます」
「...」
「...絶対忘れずに」
「...」
「......絶対絶対」
「...」

何も言わずに私を見下ろしたままの中在家先輩に、私はよっぽど信頼が無いのかとちょっと傷付きつつも言葉を重ねるが、 中在家先輩はうんともすんとも言わずに黙り込んだままだ。
...三日返却期限を破った人間の言葉はそこまで信頼を無くしてしまうものだったのだろうか。だとしたら私はとんでもない失態を犯してしまった。 中在家先輩とはあまり親しくは無い、だからこそ一度ついてしまった印象を書き換えるのはひどく難しいことに思う。 そしてあまり親しくないからといって適当な人間だとは思われたくない。

「...今から本持ってきます...!」

どうすれば一番マシかと考え、思いついた即行動案を口にする。別にこの課題はもう諦めているのだ、だったら 中在家先輩の信頼をこれ以上損なわないためにもう一つ課せられた予定を遂行するべきだと思った。
口だけじゃなく行動も伴わなければ意味が無いと走り出した私はそのままくのたま長屋向かって走ろうとしたが、後ろから右肩を掴まれ行動を制止せざるを得なくなった。 不可解な中在家先輩の行動に吃驚しながら振り返るとちょうど中在家先輩の口が開いた。

「...ここを離れてもいいのか?」

何のことを言っているのかピンとこなくて眉根を寄せると続けて中在家先輩が口を開いた。

「課題中じゃないのか」
「...えっ、はい。けどもういいです。ちょっとこの課題は私には荷が重いと言いますか...なんと言いますか...」

自然と口調はいい訳がましいものになってしまう。
課題を放り出すと言っているのだ。後ろめたさを感じずにはいられない。

「...昨日のか」

昨日の、と言うところから考えてみるに中在家先輩は昨日私たちくのたまに出された課題をご存知の様子だ。
私は顔が熱くなるのを感じながらもごもごと答えた。

「...は、はい。ご存知でしたか」

ここで標的を探していたことはばれているだろうと思うと恥ずかしくてしょうがないが、もう全てばれてしまっているし今更どうこう出来ない。 ......だが、何故中在家先輩はこの課題の事を知っているのだろう。不意に頭に浮かんだ疑問は冷静な部分の私が答えてくれた。
“誰かに頼まれたとか?”
つまり、中在家先輩は誰かに口付けをして欲しいと頼まれたのではないだろうか、昨日。
何もおかしな話ではない。証拠に私はこれを機に思い人へと迫ろう、と意気込んでいる彼女たちを見ていた。 その内の一人が中在家先輩に迫ったのだとしたら先輩はこのことを知っていて当然だろう。
勝手に疑問を浮かび上げ、その疑問を解決し、心持ちすっきりした気分でいると妙な間にぽつりと中在家先輩が声を落とした。

「...困ってるんだな」

いつになく饒舌な中在家先輩の呟きは意外にも簡単に拾い上げる事が出来た。
困っている。そうかもしれない。どこか他人事のように自分の状況を表す言葉を胸の中で繰り返すと急に視界が暗くなった。 影に覆われたからだと考え付いた時には視界は中在家先輩しか映さなくなっていた。
いつの間にこんな近くに...。
そんなことを考えていると唇に何かが当たった感触。驚いて目を見開く私とは違って中在家先輩はいつもどおりの 表情だった。いや、表情までは分からない。正確には中在家先輩の目しか私からは見えない。
至近距離で視線が交わると、先輩の瞳が濃い茶色であることに気付いた。優しげな目だと思った。
ジッと見つめ返す私に驚いたように目が見開かれ、続いて私の視線からまるで逃げるように目玉が動く。
唇に当たっていたちょっとだけかさついたそれがゆっくりと離れていくのと一緒に中在家先輩との距離も開いていく。
ふはっ、と今まで水の中にいたように慌てて息を吸う。反射的に息を止めていたようだと、こうやって頭がくらくらして初めて気付いた。

「...」
「...」

してしまったしてしまった口付けとやらをしてしまった!
くらくらする頭の中では馬鹿みたいにそんな言葉が繰り返される。口付けって苦しいんだな。先輩の口はちょっとかさついていたな。 ......思ってたよりも嫌じゃなかった。矢継ぎ早に初めての口付けについての感想が次々と浮かんだ。
ざり、砂を踏みしめる音が聞こえて思考は止まった。そして目の前に中在家先輩が居たことを思い出し、微妙な間に焦ったように私の口は動いた。

「く、口じゃなくても頬でもよかったんです」
「...そうか、すまない」
「い、いえ! ありがとうございました」
「...  」

反射的に口をついて出てきたお礼を言いつつ頭を下げると中在家先輩が何か小さく呟いたのを聞いた。聞き取れなかったそれをもう一度問う意味で 顔を上げ見つめると少しの間を置いて視線を逸らされた。まだ頭にまで空気が回っていないのか、それとも口付けの後遺症なのか、 私は頭が霞がかっているようなぼんやりとしたまま気付けば口を開いていた。

「中在家先輩は私が好きなんですか?」

中在家先輩は虚を突かれたような表情をした。そこで鈍くも結構なことを尋ねてしまったのだと気付く。
中在家先輩は私のことを困っていると形容した。それで困っている私を助けるために口付けをしてくれたのかもしれない、 というのに...そうだとすれば私の発言は思い上がりも甚だしい。そのことに遅ればせながら気付き、恥ずかしくなった。 何か弁解をしなくては、口を開くものの何を言えばいいのか分からず、ぱくぱくと空気を求める魚のように口を開閉させていると中在家先輩の左手が動いた。
反射的に視界に捕らえたそれを目で追いかけると、左手は持ち上げられ中在家先輩の口元を隠した。
息が止まった。見ちゃいけないようなものを見てしまった気がして後ろめたさを覚えながらも私は視線を動かすことが出来なかった。 中在家先輩が小さく息を吸い込んだのを確かに聞いた。五感が研ぎ澄まされているのが自分でもわかる。 それはまるで中在家先輩が零す言葉を取りこぼさないでおこうとしているかのようだった。
けれど、先輩が何て言うのか私には少し検討がついていた。
だって中在家先輩の顔は今まで見た事がないくらいに赤く染まっていたから。



奏でた色を解きあかす






(20120428)