38.6 ℃バイオレット
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折紙サイクロンことイワンくんが風邪を引いたらしい。
ここ数日トレーニングルームに顔を出さないなぁと思っていたところに どうやら風邪を引いたらしいとの情報を得た。そういえばヒーローTVでの見切れ率もいつもより高くなかったな、とか 心当たりを当たっていた所で「折紙死にそうな声してた!」突然虎徹さんが声を上げた。
何でも何日も顔を出さないので心配になって電話をしてみたら声が出ていなかったらしい。ウエイトリフティングマシンの上に座っているくせに動かずにいた虎徹さんが突如 思いついたらしく「そうだ! お見舞いに行こう!」とはりきって宣誓したがその計画は一本の電話によって潰れた。 電話に向かって謝り続けている虎徹さんを見て「...こりゃ女だな」とカリーナの傍で呟けば、すぐさま肩を叩かれた。
「紛らわしい言い方するんじゃないわよ! 娘さんでしょ!」
肩の痛みに呻く私に同情する人は誰も居なくて、その上にお見舞いに行けなくなったという虎徹さんの言葉で皆が“お前が行け”と視線で訴えてきた。 イワンくんの家と私の家は比較的近いところにある。
それを承知での視線訴えということである。ノーと言えない日本人である私はその視線を無視することも出来ず、 (虎徹さん曰く)死にそうなイワンくんを放っておくことも出来ず...私が手を上げるまで時間は掛からなかった。
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です。お見舞いに来たんだけどイワンくん大丈夫?」
「...えっ! あ、あ、」

ぷつっとインターフォン越しの交信が途絶えた音が聞こえたと思うと家の中でばたばたと大暴れしている音が聞こえた。 こんなにも大暴れできるんだからもしかしたら風邪は治ったのかもしれない、楽観的にこの状況を捉えた私は 右手に下げている異常な重さのビニール袋の中身は不要だったかもしれないと小さくため息をついた。
しばらくすると音が止み、ぜぇぜぇと肩で息をしているイワンくんが玄関を開けてくれた。

「ごんにぢは」

濁った声に生気の無い目、顔色はよろしくない。だるいと表情に書いているイワンくんは予想以上に病人だった。 数秒前に状況を楽観的に捉えてしまったが、それは大きな間違いである。自体は思っていた以上に深刻なようだ、脳内で状況を書き換える。 病人のくせに私をおもてなししてくれようとするイワンくんに「お見舞いに来たのに気を使わないで」と、無理やり布団の中に押し込むと渋々と収まってくれた。
畳の上に直に敷かれた布団の上に座り、肩には掛け布団を、その上に腰まで布団をかけた重装備なイワンくんの隣に座る。 座っているだけでも辛そうなので寝転んでくれと言うもイワンくんはそこは譲ってくれなかった。お見舞いに来たというよりはイワンくんの風邪を悪化させに来たような気がして私は後ろめたさを感じながら謝った。

「ごめん、何か逆に気を使わせて...」
「いえっ! そんな、来てくれてうれしいです!」

全力で否定してくれたイワンくんはどうやら力を入れすぎたらしく、げほげほと激しく咳き込みだしてしまったので慌ててその背中を擦る。 これじゃ本当に私は何をしに来たのか分からない...。さっさとお暇した方がお互いのためだ、と考えた私は早速用件を伝えることにした。

「今日は行けなくて悪いって虎徹さんからの伝言」
「そんな...タイガーさん電話でも謝ってもらったのに...」

電話をくれただけでもすごく嬉しかった。ぽつんと呟いたイワンくんの言葉を私はちゃんと頭の中に残しておいた。 何だか配達屋の気分だ。あっちに伝言を届け、今度はまた違う伝言を届ける。

「みんなも心配してたよ」

みんな結構忙しい人たちばかりなので今回は私だけになってしまったが、お見舞いの品はみんなで選んだ物だ。 手に提げてきたビニール袋をイワンくんに渡そうと傍らに置いてあったそれに手を伸ばしたところで聞こえてきた イワンくんの声に私の行動はストップした。
視線を向ければ、背中を丸めたイワンくんが控えめな視線を私に送っている。

「...さんも?」
「え? うん。もちろん」
「...そっか」

うれしいです。ぼそっと呟いてイワンくんは恥ずかしそうに俯いた。
私はイワンくんのかわいさに衝撃を受けながら今日ここに来て良かったと思った。腕がちぎれるかと思うほどの重みの お見舞いの品に何度心が挫けそうになったか分からないけど、本当に来て良かった!
こんなに喜んでもらえるということは風邪の所為でちょっと寂しかったのかもしれない。
こんなことなら明日はまた誰か引き連れてこようか。いや、けどそれだとイワンくんに迷惑をかけるか...。

「それでね、これみんなからのお見舞い」
「あ、ありがとうございます」

頭の中で勝手な計画を立てつつ、ビニール袋をイワンくんの隣に置く。
結構な量のお見舞いの品にイワンくんは驚いたようで、ちょっと目を見開いて袋の中を覗き込んでいる。 みんな私のか弱さを無視してこれも入れたほうがいい、あれが風邪に効くらしい、これはおいしい、とか好き勝手にカゴの中に入れたもの だからビニール袋は張り裂けそうなほどにぱんぱんだ。ついでに私の手と腕も痛くて悲鳴をあげた。 誰が入れたのか知らないけど、桃の缶詰めが8つも入っていた。そりゃあ重いはずだと納得しながら何で桃ばっか!もっと他にもあるでしょ! と悪態をつきながらここまでやってきたのだ。明日は絶対に桃の缶詰めを入れた犯人を探し出してやるつもりだ。じっちゃんの名にかけて! イワンくんも流石に桃の缶詰めが8つも入っていたことに困惑気味だ。多分意図を測りかねている。

「このとろとろプリンは私のチョイスなんだよ」
「えっ!」
「え、」

ちょうどイワンくんの視線の先にあったプリン(正式名称、とろとろプリン)を指差して何気なく言えば、 思ってもいないほどオーバーな反応が返ってきて吃驚する。イワンくんの視線はプリンから私に移り、目がまんまるになっている。

「...僕ちょうどプリンを食べたいって思ってたんで...なんで分かったんですか?」

...それは...たまたまとしか言いようが無いんだけど!!
心の中での叫びは口に出す事が出来ず、私は半端に口を開けて固まった。
不思議そうに、けれど嬉しそうな表情を浮かべるイワンくんに「たまたまだけど」なんて言う気の利かないコメントは 忍びなかった。ただでさえイワンくんは熱を出して弱っているのだし、普段からメンタルも強くなさそうだし...。 ちょっと失礼なことを考えながら私は本当の言葉を飲み込み、冗談っぽく口を開いた。

「あ、あれかな? こう、テレパシーみたいな...?」

続けて口に出そうとした「なーんちゃって! あはは」の声はイワン君の顔を見て、引っ込んでしまった。

「すごい...!」

神妙な調子で純粋に驚かれてしまうと用意していたはずの言葉は喉の奥に引っ込んでしまった。
私には眩しすぎる清らかな曇りなき瞳で見つめられてしまい、ついつい視線が上空を彷徨う。
どうしよう...本気に取っちゃったよ、冗談のつもりだったのに...!
気まずさに視線をうろうろさせながら、このまま黙っていればどうなるかを考えて先ほどの軽口に後ろめたさを感じた。 それはいけないと重い口を開こうとした時、イワンくんが急にこちらに手を伸ばしてきた。

「手、貸してください」
「え、う、うん...」

イワンくんの言葉を不思議に思いながらも言われたとおり手を差し出すと、自分よりも意外に大きな両手に包まれた。 触れたイワンくんの手はすごく暖かく、それが今の彼の体温を示しているのだと考え、具合は大丈夫だろうかと思う。 だが声を掛けるにも掛けにくい雰囲気を漂わせている。何故かイワンくんは私の手を両手で包んで俯いて目を瞑っている。
...何かの儀式だろうか?

「...」
「...」

無言。イワンくんはピクリとも動かずに私の手を握ったまま動かない。
...まさか眠ってしまったのだろうか? 俯いているイワンくんの顔を覗き込もうと首を動かした時、イワンくんが突然顔を上げた。 慌てて顔を元の位置に修正すると、イワンくんがきらきらした目で私を見てきた。何をそんなに嬉しそうなんだ...。

「いま僕が何て考えたか分かりますか?」

儀式を終えたかと思うとこの突飛な質問だ。今日のイワンくんは少々予測不能な行動に出る。全て熱の所為で済ますには 色々と不自然な点が多いが、敢えてそこからは目を逸らし、熱の所為で今日のイワンくんはおかしいのだと自分自身に言い聞かせながら しどろもどろ当てずっぽうに答えた。

「...え、えー、なんだろ? プリン早く食べたいとか?」
「違います」

私の困惑した答えはすぐさま否定された。その途端、今さっきまで浮かべていた子供っぽい顔が引っ込んだと思うと、表情が真剣なものになった。 明らかに今までとは違う雰囲気に私は知らず息を詰めて後ろに身を引いた。するとそれをさせないとでも言いたげに 握られている手に力が込められる。今更ながら私よりも大きくて熱い手が気になってしょうがない。

さんが好き」

まっすぐすぎる視線に息が止まった。バイオレットの瞳はとてもきれいで、そして真剣だった。
それを一直線に向けられた私の心臓は一瞬動きを止めてしまったかのようだった。

「...って、考えたんです」

雰囲気に飲み込まれた私はただ呆然としていた。だが、ころっと雰囲気を変えたイワンくんがはにかみながらそんな ことを言うので、ようやく頭はその動きを再開した。はにかんで恥ずかしそうなイワンくんはいつも通りだ。 けれどさっきのイワンくんは私が見た事がない姿だった。
じりじりと熱いイワンくんの手がその形を刻むように私の手首を焼いているように感じる。

「...ありがとう...?」

この場合での一番適切だと思われる言葉を口にした。だけど、導き出した答えは自分でも正解なのか分からないものだった。 それを証拠に語尾には疑問符がつく。どうにも腑に落ちない気分なのはイワンくんがどういう意味でそのようなことを言ったのかわからないからだ。 本当ならこの場面で赤くなったりするものだろうけど、イワンくんは風邪っぴき状態で普段とは違う。 今日のイワンくんはやや挙動不審気味だったという理由もあって、私はその言葉をそのまま受け取れなかった。
私のことを好きってのは、とろとろプリンを買ってきたから? それとも風邪を引いて心細い所に私がやって来たから? ...はたまた私のことが純粋に好きなの?
......分からない。

「え、いえ、あの! その...」

私の言葉に何故かイワンくんはうろたえた様子で目玉をぐるぐる回し始めた。言葉未満の、意味の持たない音を呟きながらも 私の手首をぎりぎり締め付けてくる。...痛い! やっぱりヒーローだけあってこんな細いのに握力もあるのか!  イワンくんの意外な握力に私の手首は悲鳴を上げている。イワンくんの手を払いたいところだけど、それが無意識 だということは分かっているし、何よりも相手は病人だと自らに言い聞かせてどうにか悶えるだけにとどめる。

「それって、さんも僕のことを...」

小さいイワンくんの声は必死に痛みに耐えていた私の耳には届かなかった。
ぎりぎり手首を締め付けてきた力が緩んだことにホッとしながら私は聞き取れなかったイワンくんの言葉を もう一度問う意味で「うん?」と返す。すると、イワンくんは上気した頬をさらに赤くして、パッと表情を綻ばせた。 ...え、なに、どうしたの? その変化の意味が分からず、だけど良くない予感を覚えてびびる私に、イワンくんは 満面の笑みを返してくれた。

「これからもよろしくおねがいします!」
「あ、はい。これからもよろしく...」

あれ...? なにかとんでもない食い違いが今起こっているような...。
バイオレットの瞳は潤んできらきらと輝き、私の腕を握る手は先ほどとは大違いで控えめにその熱を伝えてくる。 私はイワンくんのその様子に表情が強張るのを感じた。







(20120503)