---このお話は、 実況:食満留三郎、 解説:食満留三郎で、お送りします--- 後輩のには少々潔癖なところがある。 「...いた!」 小さく上がった声と共に金物が落ちる音に慌てて顔を上げれば、が右手を庇うように左手で抱いているのが目に入った。 すぐさま何が起きたのか察した俺は手に持っていた金槌を置き、の元に走った。の隣に居た作兵衛も同じように 金槌を置いて、を心配そうに見つめている。一年生達もわらわらとの元へと集まってくる。 「大丈夫か?!」 「あ、大丈夫です。ちょっと切っただけなんで!」 作業を中断させたことを申し訳無く思っているのだろうことはその表情を見れば明らかだ。 心配そうな後輩達の視線に大丈夫と答えながらもその手は左手が握っていて放さない。そのことからもの「ちょっと」 が信用出来ずに、その怪我の部位を確認しようと手を伸ばした。 「見せてみろ」 そう言えば見せないわけにいかないだろう。 予想通りはバツが悪そうにおずおずと手を差し出してきた。手首を掴み、怪我の部位を見ようと手を伸ばしたが、それは横から伸びてきた手によって阻止された。 その手が誰のものであるのか確認しようとそちらを見てみれば何故か小平太がいた。そしてまさに今俺がしようとした通りに、 の手首を掴み、怪我の部位を見ている。何でここでお前がしゃしゃり出てくるんだ。用具委員会の問題だぞ。 思わず口をついて出てきそうな言葉をそんな場合ではないと堪えて胸の中で呟きつつも一緒になってその手を見てみれば、血は出ているが本人が言っていた通りあまり大きな怪我ではなかった。 右手の人差し指に縦に入った赤い線からじわじわと血が染み出ている。 そのことにとりあえず息をつきながら改めてと小平太を見てみれば、いつの間にか周りの人数が増えていることに気付いた。 その面々を見てみれば体育委員会所属の忍たまたちであることは分かった。 委員長の小平太がここに来たものだから付いて来たらしい。小平太と一緒になっての手を見つめている。 「うわー...」「痛そう...!」「僕、血って苦手だよぅ...」「三之助! お前どこ行くんだよ!」など、委員会の枠を超えて 盛り上がっている。はその中心でひどく居心地が悪そうだ。小平太は普段からは考えられないほど慎重にじっくり時間 を掛けての手を検分している。眉を寄せ、ひどく真剣な表情だ。はそれを黙ってされるがままにしているが、 空いている左手はそわそわと閉じたり開いたりを繰り返している。 「おい、もういいんじゃないか小平太」 助け舟を出すつもりで声を掛ければはパッと俺を振り返った。その顔が「よく言ってくれた!」と言っているようで少し気分が上昇した。が、肝心の小平太は「んー...」と聞いているのかいないのか、生返事しか返してこない。 「僕なんてこーんなに大きな怪我したことあるよ」 「えぇー! すごぉい」 「俺なんかもっとすごい怪我したことあるよな? 作兵衛」 「...なんでお前張り合ってんだよ」 「馬鹿らしい。怪我をしたことは自慢にならないぞ。かくいう私は成績優秀で千輪の腕も学園一であるからして 大きな怪我もしたことが無いのだ! 危うくという場面は幾度となくあったがその度に私は.......」 滝夜叉丸のいつもの自慢話が始まれば途端に全員の表情が嫌そうなものへと変化した。 その見事なまでの変わりようは事前に打ち合わせしてきたのか疑うほどだが、この学園ではすでにお馴染みと言ってもいい光景だ。 思わず苦笑を浮かべながら、おかしな空気が漂う一帯...と小平太の方に視線をやれば、ようやく小平太の長い検分が終了したらしかった。 「これくらいなら舐めてれば直るだろう」 「は、はい。ありがとうございます。じゃあ舐めときま、...」 早くこの場を納めたいのだろう。は早口に小平太の言葉をなぞろうとした。...が、言葉は不自然に途切れ、 代わりに喉の奥で悲鳴になり損ねたような「...ヒィッ!」という声が聞こえた。俺ものように悲鳴を上げるほどではなかったが、 十分に目の前の光景に驚き、あんぐりと口を開けた。 賑やかだった場が途端、水を打ったように静まり返った。 全員がと小平太に目が釘付けになっていた。正確に言えば、小平太がの指を口に含んでいる光景に目が釘付けになった。 場が凍りついたような錯覚を覚えるが、その中で一人、元凶である小平太は平然としている。 口に含んだ指から口を離し、ようやくそこでを拘束して手を離した。 「よし! これで大丈夫だ!」 小平太は満足そうにまるで良い事をしたと言わんばかりに笑顔だが、その良い事をされたはずのは顔を蒼白にして、 己の先ほど小平太に舐められた指を食い入るように見つめている。目を見開き、舐められた右手を支えるように手首に左手を沿え、 心なしか全身を震わせている。尋常じゃない様子に理由を知っている俺は小平太を叱ろうとしたが、 それより先にが口を開いた。 「あ、あ、あああありがとうございます。あの、ちょっと...あれ、保健室に行って来てもいいですか」 ジッと怪我をしている...そんでもって先ほど小平太に舐められた部位から目を逸らさずに、 それでもきちんと礼を言うに小平太に礼なんかしなくていい! と思いながら俺は力いっぱい頷いた。 「行って来い!」 すぐさま許可を出すとは右手を己の目の前に掲げるようにして、そのままの格好で素早くこの場を去って行った。 保健室に行くというのは建前であり、小平太に気を使っての言い訳であることは分かっていた。が本当に向かった場所は保健室ではない。 の性質をよく知る俺たち用具委員には分かっただろう。 が向かったのは井戸だ。 は小平太を気遣って礼を言ったのを分かっていたのでそれを無碍にして小平太を叱ることも出来ず、だが一応注意 という形で小平太に次からはそういうことをしてはいけないのだと言ってみたものの、小平太は反省するどころか、 「なんでだ? 留三郎もしたかったのか?」 不思議そうに、あろうことか後輩達の前で言うものだから俺は慌てた。 「そんなわけないだろう! 何で、...おまっ! ...分かってると思うがお前ら、そんなことしたいと俺は思っていないからな!?」 心なしか距離を取る後輩達に向かって必死に否定している間に、いつの間にか小平太と小平太率いる体育委員は居なくなっていたので結局はうやむやになってしまった。 . . . 思えばこの時から始まったのだ。 そしてはこの始まりの時のことを、後に大真面目にこう語った。 「傷口から七松先輩の菌が入りそうじゃないですか...?!」 自分で言って思わずそれを想像したのだろう。ぶるるっと震えては腕を擦っていた。 だが、にとっての悪夢はこれで終わりではなかったのだ。 先ほども語ったとおり、これはあくまでも始まりだ。 あの日から何故か小平太は何度も用具委員会に顔を出すようになった。それも狙ったかのようにが怪我をしたときだ。 血の匂いを嗅ぎつけてやってくる野犬のように...いや、野犬よりも鋭い嗅覚を持って、小平太はが怪我をしたと思った次の瞬間にはそこに居る。 そして、その度にの怪我の部位を舐めるのだ。それもまさしく犬のようだ。 どこかで犬になりきる訓練でもしてきたのかと疑うほどだ。 そして怪我をすれば毎回のように現れる小平太に、当人であるは警戒している様子だが、小平太から逃げられる わけもなく...毎回毎回怪我の部位を治療と称して舐められる羽目に陥っている。 には潔癖なところがある。 汚れた手で触れただけでものすごい勢いでその部位を振り返り、井戸の方へと姿を消すのだ。 最初こそ驚きながら少しばかり傷付いたりもしたが、今ではそれが当たり前になっている。もちろんそれは 作兵衛にしても平太にしてもしんべえ、喜三太も同じだろう。 そしてはで自分のそういうところを恥じている部分がある。恥じることはないのだと思うのだが、はあまりいいものじゃないと言い切る。 ある日遅れて委員会に行くと、鼻水が地面に付きそうなほどに垂らしていたしんべえと、そこから少し距離を取って頭を抱えるの姿があった。 「私もしんべえくんの鼻水を拭いてあげられたらこんなに地面につくまで...!!」 と嘆いていたことからもが自分でそれを欠点だと言っていることが分かる。 しんべえの鼻水を拭くことも出来ないんだ。当然、他人に傷口を舐められるという行為は彼女の中では耐え難いものであるはずだ。それなのに小平太に強く 怒ることが出来ないのはその後ろめたさがあるからでもあるだろうと俺は予想している。 本人はそうとは言わず控えめに「七松先輩は親切で、こう...消毒? してくれてると思いますし...迷惑とは...」それを俺に告げるのでさえも悪いことだと思っているように呟くようには言った。 「それにこれが切欠でちょっとは治るかもしれないです!」 どうにかこの事態を前向きに捉えようとするの健気な言葉に俺はいたく感動した。 「私ってちょっと神経質すぎるんでちょっと治れば嬉しいです。目標はしんべえくんの鼻水を拭くことです!」 「神経質なのは別に欠点じゃないぞ...! しんべえの鼻水は別に俺が拭く!」 恥ずかしそうに胸の内を語ったに俺は感動して勢い余って両手を掴んでしまった。ぎょっとして手を見つめたまま体を硬直させたの様子に、 少し傷付きながら現金にも俺は確かにの言う通り少し直った方がいいかもしれないと考えた。 まぁ、つまり小平太はのそういうところに付け込んでいるようなものなのだ。 だが、人というものは順応する生き物だ。 も最初の内は小平太の舌が自分の体に触れた瞬間に喉の奥で悲鳴を上げていたが、それは徐々に息を止めることに よって克服したようだった。体を硬直させ、息を止めて顔を真っ赤にしながらも小平太に律儀に礼を言ってから走り去っていく。 その度に小平太に注意をするものの小平太はけろりとした様子で俺の話を聞き流しやがった。 やがて、何度も繰り返される行為には息を止めずとも悲鳴を上げることはなくなり、代わりに嫌そうな表情を隠せてはいないが、 それでも随分と慣れたようだった。この間など、今までならすぐさま井戸に走っていたところを、 「...先輩くちゅくちゅぺっした方がいいです...! 血はばい菌がいっぱいなんです...!」 などと小平太の心配までしていたのだから。 その成長に俺は胸を打たれる思いだったのが、小平太は「わかったわかった」と、 適当丸出しに返答をしていた。横目で睨みつける俺を全然気にした様子もなく、上機嫌に笑みを浮かべる小平太にも 流石に眉を寄せたものの(多分にしてみればすごく重大なことだったのだろう。口の中にばい菌が入るということは)それ以上言っても無駄だと悟った様子で 保健室に行って来ると言いながらいつものように井戸へと向かっていった。早足に去る後姿を眺めながら小平太に こちらもいつものように説教もどきを開始しようとしたところで、小平太の方が先に口火を切った。 「くちゅくちゅぺっだって、かわいいな」 言葉だけ聞いていればほのぼのする雰囲気なのかと思い込みそうなものだが、それを言った小平太の目の奥の光り を見た俺はそうは思えなかった。 唇は弧を描いている、目も笑っている。だがその奥は笑っていない。 俺は事の重大さを理解した。 同時に自分の使命も理解した。 俺はかわいい後輩を守らなければいけない! . . . 「よし、あとちょっとだな」 「今日は早く帰れそうですね!」 作兵衛と一年生達にはあひるさんボートの掃除を頼んでいる。作兵衛には悪いが一年生達の面倒を押し付けてしまう形になった。 そしてこちらもこちらで片付けるべき仕事があった。塀の修繕を頼まれて今はと二人で板を挟んで、それぞれに工具を握っている形だ。 予想以上に順調に進んだ仕事に、今日は早く帰れそうだと嬉しそうに笑うに「そうだな」と返したところでの口に目を引く色を見つけた。 「口、切れてるぞ」 「え、あ...ホントだ」 自分でも気付かなかったらしく、指で軽く唇を押さえ、そこが赤くなっていたことで今初めて口が切れていたことに気付いたらしい。 「かさかさだったから」 唇に滲む赤を舌で探っている。眉を寄せ、目玉は考え事をしているように上空に向けられている。 赤い舌が唇の上を這う光景に居た堪れなさを感じた俺は何か拭く物は無かったかと装束に手をつっこんだ所で、 不吉な影がかかったことに気付いた。それが何者であるかなどこの状況を見れば分かるものだ。 不意にあの日見た目の奥の光りを思い出した。 「! 逃げろ!」 俺が突然声を張り上げたことに驚き、びくっと体を震わせながらも現状を理解していない様子のは自分にかかった 影の実体を確かめようと首を捻った。そしてその実体を誰であるのか確認したにもかかわらず、次の展開を読めていない。 「...え? あ、ななまつせ...」 影の正体である小平太が屈んだ。次の行動が予想できた俺はそれを阻止しようと手を伸ばしたが、間に合わなかった。 無防備なの言葉を遮って小平太はの顎に手を沿え、赤く血の滲むそこを舐めた。 舌が血を舐め取ろうと動く様を見て、俺の頭は動きを止めた。もで現状が理解できない様子で、唖然とされるがまま抵抗も出来ずにじっとつっ立ったままだ。 それを良いことに小平太は遠慮なく、というか調子に乗っての唇に舌を這わせている。 小平太が離れた時にはきれいに赤色は無くなっていた。 「な、」 凍ったように動かなかったがようやく声を発した...が、息が続かなかったようで浅く息を吸っている。 「...七松先輩のバカ! アホ!」 目に膜が張ったと思った瞬間にはぼろぼろと涙を零して、それでも怒りの表情で小平太を睨みつけた。 耳まで真っ赤に染まっているのは羞恥なのか、怒りなのか...多分両方だろう。今まで見たことの無い剣幕で怒りを 露わにするに俺は呆気に取られていたが、暴言を吐かれた小平太は至って普通で、けろりと言葉を返した。 「何でそんなに怒るんだ、いつもと同じだろう?」 「違いますよッ!!」 噛み付くように叫んだ、いつもの大人しい様子からは想像できないほど怒りに燃えるに、流石の小平太も少しばかり驚いたらしい。 勢いに押されるように口を閉じた。 「口ですよ?! .........きたないきたないきたない!!」 改めて自分で自分の口を指さして意識したらしい。汚いと言いながら袖で口をごしごしと拭い、我慢できない というように地団太を踏みながらギロリと小平太を睨む。だがいまいち迫力に欠ける睨みだ。眉を顰めた拍子にボロンと大きな雫が目から落ちた。 「失礼だな、ご飯食べてから口をゆすいだぞ!」 汚いと言われては小平太も黙ってはいられなかったらしい。拗ねたような物言いで、だがずれた言葉を返す。 睨みあうと小平太に俺は何も声を掛けることが出来ずに固唾を呑んで見守っていると、がその怒りに燃えていた 表情をくしゃりと歪めた。それが幼い子供が大泣きする時の顔であることに気付いた時には遅かった。 「...ひぅっ」 声と共にの細い肩が揺れた。 「...うっ、うわぁ〜ん、七松先輩なんかだいっきらいッ!!」 ボロボロと涙を流しながらは子供染みた台詞を残して井戸の方向へと走って行った。
狩りのすゝめ
(20120506) |