犬が二匹じゃれあってる。
目の前の光景を一言で表すならその表現がピッタリだと思った。

「ジョン! くすぐったいよ!」

仰向けに寝転がるキースの上に乗っかってじゃれついているのはキースの愛犬ジョンだ。しっぽをパタパタ振って、 キースの口の周りをべろんべろん舐めて嬉しそうにご主人様にじゃれついている。いっけん一人と一匹に見える光景だが、 私には二匹に見えてしまう。犬が犬を飼ってるなんて...ちょっと吹き出しそうになって私は口元を拳で隠した。 あ、けどちょっと待って。ねずみが犬を飼ってたりもするんだから別に犬が犬を飼っててもおかしくないか。 真剣に馬鹿らしいことを考えている間にもキースとジョンはじゃれあい続けている。

「わっ、ジョン! コラ!」

叱るような言葉でもその実、声は笑っている。それをジョンもしっかりと分かっているのだろう。じゃれるのをやめる様子は無い。 キースが手でジョンの顔を押して、ジョンの舌から逃れようとしていても嬉しそうに尻尾を振りながらまたしても キースの口周りをべろんっと舐めた。それにキースも爽やかに笑いながらジョンの頭をわしゃわしゃと撫でている。 見ていて微笑ましい光景である。手本にするべき、愛犬との過ごし方だと私は考えながらソファの上からその光景を眺めていた。 すると視線を感じたのか、キースが顔を上げて今までジョンしか写していなかった目に私を映した。 ぱちっと視線が合う。キースが元々垂れている目尻をもっと垂らして笑った。

「ジョン、これをあげよう」

キースはいつのまにそんなところに隠していたのか、ジーンズのポケットから犬用ガムを取り出すと、はふはふ言ってる ジョンの口元にそれを持っていた。もちろんそこでジョンはぷいっと顔を背けるなんてこともなく、嬉々として 骨の形をしたそれを受け取った。早速左右の前足で骨を掴むとがじがじ齧り始めた。
キースはまんまとジョンの機嫌を損ねることもなく、じゃれあいを中断させて私の方ににこにこしながら近づいてきて、 私の隣へ腰を下ろした。その衝撃にソファが沈む。

「別にいいのに、ジョンと遊んできてくれていいよ」
「そういうわけにもいかないよ」

今まで私をほったらかしにしていたってのに調子のいいことを言う。なのに私はそんなキースのご機嫌取りみたいな言葉に満更ではない気分。 だけど同時に、まるでキースの手の平の上で転がされているような気がしておもしろくない。私はそれを表情には出さずに悔し紛れに 右手を差し出した。手の平を上にした形でキースの前に差し出す。キースはどういうことか分からずにきょとんと した顔で私の手を見つめてから私の顔を見る。その様子でさえ犬そっくりだ。言葉を操ることが出来ない犬はそうやって 私たち人間に自分の心情を伝えてくる。どうやら意図が読めない様子のキースに、私は親切に言ってあげることにした。 キースがどういう反応をするのか。考えて私の唇が勝手に意地悪く吊り上がる。

「おて」
「...え?」

私の行動だけでなく、言葉の意味まで分からなくなってしまったのだろうか。キースは口を小さく開けて、呆けた ように私を見つめている。おてをしようとしないキースに私は親切に手を揺らしながらもう一度言葉を繰り返した。

「おて」
「...ジョンはあっちだよ?」

まだ自分に向けて言われたとは思えないのか、キースはどこか不安そうに眉を垂らしながら骨に夢中のジョンを指差した。それを目で追ってから、 また視線をキースに戻して私は「知ってるよ」とだけ言った。キースはそれに心底驚いたように「え...!」と声を上げて目を見開く。

「キースとジョンを間違えるわけないよ」

もし私がとんでもなく視力が悪くても人と犬を間違えるなんてことは絶対にない。だから断言してそう言ったら、キースは目に見えて 安堵した様子でにっこり笑った。本気で自分がジョンと間違えられたと思ったのだろうか? 私ってどんだけ馬鹿だと思われてるんだろう。 いや、こんな尖った考え方はいけない。キースには悪意の欠片も無いのだから。だからこそ、ってこともあるんだけど。

「よかった...ホッとしたよ」

ホッとしたと胸に手を当てるジェスチャーつきで、キースは息を吐いた。それと共にへにゃっと顔の力が抜けて、 元々垂れ気味な目尻がもっと垂れて、常に上がっている口角は緩んでる。
私はキースのそういう心底安心した顔を見ると、わしゃわしゃ頭を撫でたい衝動が沸き起こる。 これって犬とか猫に抱く感情に似てる。そういうところもあって私はキースを犬みたいだって感じるのかもしれない。

「...あれ? けど、ならどうして...」

ようやく私が気づいて欲しいところに辿り着いたようだ。キースは力の抜けた顔を考え込むような表情に変えた。 自分がジョンと間違われたのではないのなら、何故おてなどと言われるのだろう?  キースの頭を覗けばこんなことを考えているんじゃないだろうか。不思議そうに眉根を寄せたキースはとても素直で 単純だ。頭の中を覗かなくても何を考えているのか人目で分かる。やっぱり犬みたいだ。
一生懸命考えているキースの様子に自然と口元が綻んだ。

「キースって犬みたいだと思ったから」
「...え、」

今度もまたしても私はキースの思いも寄らないことを言ったらしい。え、の形で口が固まった。ついでに動きも 停止ボタンを押したみたいに固まった。私はそれにお構い無しで今度は“おて”の時とは反対の手をキースに向かって差し出す。

「おかわり」

私の顔は今きっとすごくいい笑顔だろう。キースはそんな私の表情を見て“おかわり”の衝撃から立ち直らないうちに 二度目の衝撃を受けたようだった。さっきの幸せそうだった表情をがらりと変えて、今は目を丸くしてつき出した私の手と 私の顔を交互に何度も見ている。私は手を出すよう催促して突き出した手を振った。 素直なキースは表情をもろに困ったものにして黙り込む。尻尾と耳は垂れ下がってるだろう。
どうリアクションすればいいのか分からないのかキースは俯いてしまった。それでも私は謝るつもりは無い。 キースがどういうリアクションをするのかすごく興味があった。
ジョンはソファの上での攻防には無頓着で、相変わらず骨型ガムに夢中だ。

「...私は犬じゃないよ」

停止していたキースがようやく再生ボタンを押されたらしく、動いた。といっても動いたのは口だけのようだけど。 キースのいまいちのリアクションに私は正直期待外れだった。キースならもっとおもしろい反応をしてくれると 思ってたのに。勝手な期待をしていたことは都合よく頭の外に放り出して、私はがっかりしながら“おすわり”で 差し出していた手を引っ込めようとした。...が、差し出していた手の上に大きな手が重ねられる。 そのことに吃驚して私は手を引っ込めるのを忘れて手の出所を目で追った。それは予想通り(も何もこの場にはキースと 私とジョンしか居ないので分かりきっていたけど)キースの手で、俯いて表情は見えないがしっかりと私の手に手を置いている。 さっきの様子からじゃ絶対にしないと思ったのに...どういう心境の変化かわからず、自分から話を振っておきながら 戸惑っていると、手を突然ぎゅっと掴まれた。痛くは無い、微妙な力加減で手を掴まれる。真意を探ろうと視線を 手から、キースへと向ける途中でぐらりと体が揺れたと思うと後ろに倒れた。自分の意思とは関係の無い動きにお腹の中が ひやりとした。反射的に目を瞑ると背中に少しの衝撃を受け、自分がソファに寝転んでいるのだと理解した。
何故こういう状況に陥ったのか分からず、それを探ろうと恐る恐る目を開くと目の前にキースがいた。

「私は犬じゃないよ」

拗ねたように口をむっつりと引き結んだキースが真上から私を見下ろしている。
キースが覆いかぶさっている所為で影に覆われて視界が暗い。ようやくキースに押し倒されたのだと状況から判断できた。 少しやりすぎたかもしれない。キースはいつも朗らかに笑っている口元をきゅっと結んで不満ありありの顔で私を 見ている。あまり見れないその顔に私の目的は達成されたと言っても過言ではない。それにしても怒っているという のにキースの口角はいつも通り上向きだ。一瞬謝ろうかと頭を過ぎった考えを忘れて、私はついキースの顔を見て笑ってしまった。 瞬間キースが眉間の皺を深めた。


「あはは、ごめんごめん」

真剣に犬扱いされて怒っている様子のキースに軽く謝るが、それは間違いだったと次の瞬間思い知らされた。 口元を覆っていた片手を取られ、両手をソファに縫いとめられる。目を瞬いてどういうことなのかとキースを見れば 、ぐっと顔が寄せられ、距離が縮められる。鼻が触れそうなほどの近さに私は息を止めた。

「私は男だよ」

キースが声を発すると唇に息があたる。距離が近すぎる。顎を引きたいけど少しでも動くとどこかが当たってしまい そうで下手に動けない。キースが男なんてそんなの分かってる! だから早くどいてほしい! 頭が爆発しそうになりながら縫いとめられた手を脱出させようともがいてみるけど、そうはさせないとでも言うようにキースの手に力が入れられる。

「教えてあげようか」

低く囁かれた言葉に私の喉が引き攣った。そんな私をキースは真上から表情を浮かべずに見下ろしている。いつも表情豊かな人が そういう顔をすると、とても不安になる。私は改めてキースをからかったことを反省していた。それと同時にいつもとは がらりと違う雰囲気を纏うキースに、心臓がおかしな調子で動くのを感じていた。ばくばくと心地いいとは言えない 動きをする心臓が今にも胸を突き破りそうだ。そのまましばらく、ジョンが骨を齧るシャコシャコという妙な音しか響かない部屋の中で私は息を潜めていた。

「わんっ」

降り注ぐ視線に私が限界を迎える前にキースが突然妙な声を上げた。そして我慢できないという様子で表情がへにゃりと崩れる。 なにがなんなのか分からずにポカンとしていると、キースの顔が遠のいていき、腕も開放された。 キースは心底楽しそうに青い瞳に悪戯っぽい色を混ぜて、大きな体を丸めて笑っている。

「私をからかった罰だよ」

してやったりな表情を浮かべるキースとその言葉にようやく仕返しをされたのだと理解した。
むかむかと急激にお腹の中で燃え上がるものを感じて私は起き上がり、自分の事を棚に上げてキースの腕を叩いた。 それさえもおもしろいと言うように笑い声を上げたキースに、私は眉間の皺を深めて俯いた。
じわじわと熱を帯びる頬と、まだ落ち着く様子の無い心臓が煩わしい。




サンプサンプリズム






(20120612)