「理一さんはまだけっこんしないの?」 結婚というものをまだちゃんと理解出来ていなかっただろうに、私は一丁前にそんなことを尋ねた。 “憧れのお兄さん”が“綺麗な女の人”を連れてきたらそれはそれで機嫌を損ねていただろうことも予想がつく。そうすれば この質問は浅はかであるとしか思えない。理一さんはだけど、こんな不躾な質問に優しく笑って「そうだね」と 柔らかく相槌を打ってくれた。 「残念ながらまだだね」 「ふーん」 二人で揃ってテレビの前に座って、私は興味の無いニュース番組を眺めていた。後ろでブゥーンと音をたて、 首を振りながら扇風機が頑張っていたけれど体はじっとりと汗ばんでいた。 「ちゃんが大きくなったらお嫁さんに来てくれる?」 理一さんはきっと私が照れたり恥ずかしがったりするリアクションを予想していたと思う。 照れながら「えー」と言ったり、恥ずかしがりながら「うん」と頷いたり、きっとそういう反応を期待していたのだろう。 小さい女の子をちょっとからかって、女の子は何も知らずに恥ずかしがる。そういう構図を。 今になって思えばそう考えることが出来る。だけど当時の私には考えることが出来なかった。 密かに憧れていたお兄さんにそんなことを言われて嬉しかったし、照れて恥ずかしかった。私だって一応女の子だ。 そんな風に言われて嬉しくないわけが無い。だけど照れすぎて恥ずかしすぎた結果、私は 「ろりこんだっ!!」 大きな声を上げて不穏な言葉を叫んだ私に理一さんの笑顔は固まった。 嬉しすぎて恥ずかしすぎた私の頭はキャパオーバーして、覚えたてのロリコンという言葉を咄嗟に叫んだ。 小学校から変質者に注意して欲しい、と書かれたプリントを貰ってきた時に母が「やだ、ロリコンかしら」 なんてことを呟いたものだから、私は好奇心の塊みたいな年頃なこともあってすぐさま「ろりこんってなに?」と尋ねた。 そして母は正直にロリコンとは小さい女の子が好きな大人の男のことを言うのだと教えてくれた。 ふーん、小さい女の子が好きな大人の男の人をろりこんって言うのか〜。 そうやって頭に刻み付けたばかりの言葉を私は、悪意無く早速用いたのだ。 「理一さんのろりこんっ!!」 私としては照れ隠しとしての言葉だったのだけれど、ロリコンなどと叫ばれた理一さんは珍しく困ったような顔をしていた。 「なにしてんだ?」 「あ、翔太くん。理一さんがろりこんなんだよ」 騒ぎを聞きつけたらしい翔太くんがひょこっと顔を覗かせたので、私は「このお菓子おいしいんだよ」みたいな軽いノリでそう答えた。 それも微妙に翔太くんの質問に返答がずれている。 「ろりこん!ろりこん!」 「ろりこん!ろりこん!」 間違いなく私達はこの世で一番うざいガキ、その一、そのニの称号をこの瞬間得ることが出来たと思う。 私のロリコンコールにわけも分からずに参加してきた翔太くんに、私は楽しくなってきてしまった。 ロリコンコールをしながら理一さんの周りをくるくる二人で回る。この間揃ってピーターパンを見たのもあって、 あれに出てくるインディアンみたいに片手で口をぽんぽん叩いて、アワワワーとか言いながらリズムに乗って踊った。 頭からはなぜ自分がロリコンロリコン叫んでるのからすっかり抜けて、ただただ最後は楽しかった。 「参ったなぁ。ちゃんがそんな難しい言葉を知ってるなんて思わなかったよ」 苦笑いする理一さんは自分をロリコン呼ばわりするクソガキどもを叱るでもなく、鬱陶しく周りを走るのを放っておいてくれた。 何を騒いでいるのかとやって来た誰かに叱られるまで私たちはインディアンになりきったつもりでロリコンコールを続けていた。 ▽ 何となく眠れない夜、頭の中にある昔の思い出たちを掘り起こしていた時に頭の隅にあった“ロリコン事件”を思い出し、私は顔を青くした。 確か中学生だった。その時には正しくロリコンについて理解できていた。ロリコン=ロリータコンプレックスって ことまですらすらと口にすることが出来るまでに私はクソガキから成長することが出来ていた。 “ちゃんが大きくなったらお嫁さんに来てくれる?” ボッと火をつけたみたいに顔が熱くなった。何年遅れでの理一さんが期待したであろう反応を、私は一人の空間で返した。 誰も見ていない上に電気も消したおかげで真っ暗なのに私はどうにもいたたまれなくなって布団の中に頭まで潜った。 古い記憶に対してこんな反応をするなんてどうかしてる。 ▽ それを思い出してからは何となく、理一さんと顔をあわせるのが気まずくなってしまった。 顔をあわすといってもすでにそのとき理一さんは家を出ていたので会うと言っても大きな休みがあるときがもっぱらだった。 毎年夏は陣内家にお邪魔することが多かったが、理一さんが来る時期はわざと避けた。夏のお盆といえばうちの店は 稼ぎ時で、ぎりぎりまで店を開けて少しだけ休業するのが決まりだ。 たくさんのビールを店から運び込む手伝いは正直勘弁したい所だったけど、だからと言って行く宛ても無い。 友達はみんな家族で里帰りや、旅行やらで留守ばっかりだったのだ。だからいつも私はあの賑やかな陣内家にお邪魔して いたのだけど。 理一さんは絶対にあのロリコン事件を覚えていないという確信があったのだけれど私はどうしても顔をあわせることが出来なかった。 今更...忘れていた時期には普通に理一さんと会っていたくせに思い出した途端会えないなんて我ながら馬鹿みたいだと思った。 そうやっていくつかの夏を過ごしていると、私がお盆にはやって来ないくせに普段は相変わらず顔を出すことに翔太くんが 気付いてしまった。 「お前、そういやなんで夏に来なくなった?」 結構どうでも良さそうな口ぶりのくせにその視線は鋭くて、はぐらかすことは許されない感じだ。 「え、いや、来てるよ。今も」 「ちげーよ。夏って、盆」 「あー」 私は配達した一升瓶のお礼にと貰ったアイスを翔太くんと一緒に頬張っていた。ソーダ味のそれは真夏の空の下を 自転車で走ってきた喉にほどよい潤いを与えてくれる。だけど私はそれを味わう余裕もなく、ただ時間を潰すために 水色のそれを舐めた。ちらっと隣に座る翔太くんを見てみればじっとこちらを見ている。思えばこの時から警察官に なる片鱗を見せていた。だって吐くまで帰してくれない。 「...気まずいというか」 「はぁ? 今も来て図々しくアイス食ってるくせに何が気まずいだ」 「...ちがうよ」 「何が違うんだよ」 「...」 「あーもう、さっさと言えよ」 「もうちょっと気を長く持たないと。短期は損気だゾ!」 「うるせぇ!」 このまどろっこしい間にも苛立たしげに翔太くんはがぶりとアイスに噛み付いた。 「...ロリコンって理一さんに言ったことあったじゃん」 「ぶはっ!」 「きたなっ!」 勢いよく口からアイスを発射した翔太くんから慌てて体を避ける。けど全然気にした様子も謝る様子も無く、 当の本人は驚いたように目を見開いて私を見ている。 「...はぁ?」 「小学校入る前...もしかしたら翔太くんはもう小学生だったかも。その時に二人で理一さんにロリコンロリコン 言ったことを思い出して...」 「そんなことあったか?!」 この様子じゃ忘れてるんだろうなと思っていたが、やはり予想通り翔太くんは忘れているらしい。こういうときには その忘れっぽさがちょっと羨ましい。 「あったの。二人でロリコン呼ばわりしたの」 「それで来ないのか?」 「...うん」 アイスを齧って咀嚼するとシャクシャク音をたてながらすぐに口の中で溶けた。翔太くんはすでに全部食べきって しまっていて、残った棒を口にくわえて上下にぶらぶら揺らしている。 「あほか、そんなもんとっくに忘れてるだろ」 「...翔太くんみたいなバ、...理一さんは物忘れ激しそうじゃないし!」 「お前今バカって言おうとしただろ?!」 「もう帰るわ。ばいばーい」 まだ何か喚いてる翔太くんを無視して私は早々に自転車に乗って陣内家を退散した。これ以上一緒に居ると、 何で理一さんをロリコン呼ばわりしたのか聞かれそうだ。長居するのは危険だ。 それにちょっとムッとしてた。とっくに忘れてるだろう、なんてそんなこと言われなくても分かってる。 だけど、私だけが小さい頃の記憶を意識してるんだって指摘されたような気がして少し腹が立った。こう言えば翔太くん は「んじゃどう言やいいんだよ!」とか怒りそうだ。けどそんなの私に聞かれても分からない。 実際指摘された通りだろう。理一さんはロリコンって言われたことも、お嫁さんに来てくれる? なんて言ったことも忘れてる。 ...乙女の純情を弄びやがってー!! 自転車のペダルに力を込めて私は真夏の空の下を駆けた。 ▼ 「配達おねがい」 「えぇー」 大学生になって二度目の夏休み。 クーラーの効いた部屋でごろごろしていたらそんなことを言われたものだから私はすぐに不平を口にした。 こんな熱い中出て行くなんて自殺行為だと思う。それをそのまま口にすれば、両手を顔の前で合わせていた母の両手が 移動し、仁王立ちのポーズになった。私はこれ以上ごねればどうなるかすぐに予想できて、渋々重い腰を上げた。 単車の後ろに瓶ビールを一ケース乗せて、ヘルメットを被る。こんなに熱いのにヘルメットを被るだなんて...! 自ら熱中症になろうとしているようなもんだ。すでに体はうっすらと汗をかき始めている。 「じゃあ陣内さんとこにお願いね」 「うん......えっ!!」 「気をつけていってらっしゃい」 バタン! 帰ってこないように先手を打たれたのか、母は私が何か言う前に扉を閉めた。 「陣内さんとことかそんなの聞いてない!!」 倒れてしまうかもしれないと思うと単車から手を離すことも出来ずにそう抗議の声を上げたけれど、ヘルメットの所為で くぐもっと声が私に跳ね返ってきただけだった。 「かえりたいかえりたい...」 単車に前のめりになって運転しながら私は呪いのように同じ言葉を呟いていた。だけど、そんなことを言ったってどうなる わけもなく、それどころか喉が渇くので、しょうがなく途中からは黙って通いなれた道を走った。 短いようで長いような時間を経て、ようやく陣内家の敷地に入った時には理一さんと会う確立は極めて少ないだろう。 という結論に達していた。多分いつものように万里子さんが出てきて「あら、ちゃん熱いのにありがとう」 と言って、これまた夏には定番になっている言葉「アイス食べてきなさい」と言うのだと思う。けど今日は いつ理一さんと鉢合わせしてもおかしくない状況なのでその誘いを断って、私はまた熱い中単車に乗って家に帰る。 そしてクーラーの効いた部屋で「よかったー会わなくて」とかなんとか息を吐くのだと思う。 オッケー。ここまでシミュレーション出来たのなら大丈夫だ。玄関の前に単車を止めると、すぐにお暇するし と思ってヘルメットを被ったままケースを持ち上げた。不審者っぽいけど知らない仲じゃないから大丈夫だろう。 一歩歩くたびにかちゃかちゃと瓶のぶつかり合う音聞こえる。 玄関の扉の前で一旦、ケースを下に置くとヘルメットの顔の前のプラスチックの部分を上に持ち上げた。 そこでようやく様子がおかしなことに気付いた。この時期の陣内家にしては静か過ぎる。 「...あのー」 ちょっと控えめに横開きの玄関の扉を滑らせながら声を掛ける。 「こんにちはー...」 目をきょろきょろさせて中の様子を伺ってみるが、誰も人が居る気配がしない。 もしかして皆揃って出かけたのだろうか? そんなことを思いながらもう一度、小さく息を吸い込んで中を探りながら声を掛ける。 「酒店ですー...」 「はい」 「わっ...!!」 突如背後から聞こえた声にびくっと肩が跳ねた。パッと後ろを振り返ると目を丸くした理一さんが立っていた。 喉のところで叫びになり損ねた変な音がした。 「...ちゃん?」 半信半疑という感じで尋ねられる。私は声が出なくなったみたいにこくこく頭を振って答えた。すると、 勢いがよすぎたのかガコっという音をたててヘルメットの前の部分が落ちてきた。所々傷の入った透明なフィルター越しに理一さんが 笑っているのが見え、私は視線を逸らすために俯いた。 「ビール、届けてくれたんだ?」 「はい...」 「悪いね。暑かっただろう」 久しぶりに会うはずなのに理一さんはそんなことを感じさせずに話しかけてくれる。それに比べて私は異常なほどに 緊張していた。久しぶりに聞く理一さんの声はやっぱり耳に優しく届くというのに、私はその声を聞いただけでも 心臓が早鐘を打って、意味も無く顔が熱を持った。よかった、ヘルメットを被ったままで。きっとみっともない顔を 見られる必要も無いんだと思うと少しだけ頑張れる気がした。もうビールを渡してさっさと帰ろう。 「こちら注文を受けていたビールに、」 足元においていたケースに入ったビールを手で示しながらの事務的な言葉の途中、髪が上に引っ張られるような感覚を覚えた と同時に視界がクリアになり、息苦しさから開放された。最後に持ち上がった髪が肩の上に着地する。 パッと振り返ってみれば私が被っていたヘルメットを脇の下に抱えた理一さんがこちらを見ていた。 目を丸くすると、あいている方の手でとても自然な動作で髪を耳に掛けられた。本当にとても自然な動きで私は口を 開けたまではいいけど言葉が出ない。 「暑いんだから脱いだほうがいいと思って」 「...ありがとうございます...あの、けど私すぐ帰るんで...」 「まぁまぁ」 何がまぁまぁ、なんだろう。私の主張をまるっと流して、理一さんはヘルメットを玄関に置いてビールのケースを玄関に入れると、そこから二本 茶色い瓶を抜いて私に渡す。私もそれが当たり前みたいに受け取る。悪いね。と、全然悪びれた様子もなく言われた。 理一さんもその手に一本ずつ瓶を掴んで玄関から出て行く。どこに行くのかと思っていると、「こっち」と庭の方に誘われる。 「水遣りをしてたんだ」 そう言った理一さんの言うとおり、庭に並べられた鉢から伸びる朝顔の葉にはきらきらした雫がついている。 毎年ここには朝顔が植えられているのを知っているので特に珍しいとは思わなかった。変わりに懐かしいとは思ったけれど。 その感情も変だ。だって私はこの家にはちょいちょい遊びに来ていて、つい二週間前くらいにも訪問していた。 「あがって」 「え、あの...」 確か私はすぐに帰ると言ったはずなんだけど...。理一さんは私の戸惑いの声がまるで耳に入っていないようにさっさとサンダルを脱いで 家の中に入ってしまった。どうするべきか決めかねて突っ立って居ると、暗い家の中から理一さんが手招きしているのが ぼんやりと見えた。 「おいで」 その声に背中を押された形で、私はさっきまで悩んでたのはなんだったのかと思うほどあっさりサンダルを脱いだ。 明るい太陽の下から暗い室内に移動したことによって起こった、目が眩むような現象に足を止める。目の前が薄い暗闇 に覆われて、しょうがなく私は何度か目を瞬いて、この暗い室内に目を慣らそうとしていると不意に肩に両手が乗せられた。 「ここに座って」 優しく座るよう促す手だとか、気遣われているのが伝わってくる声に、私はまた大人しくその場に座った。 もう帰るだとか言いながら、行動と言葉が噛みあっていない。腰を落とした先には用意が良いことに座布団が引かれていた。 理一さんは昔からこういうことをそつなくこなしてしまう大人だった。 じわじわと平常時の視界を取り戻すと、記憶にあるよりは幾分か老けた顔が微笑む。「直った?」と聞かれれば私は ぎこちなく頷いて返答する。 「アイス食べる?」 「いえ、いいです」 昔に戻ったみたいな問いかけに私は慌てて頭を振った。子供を黙らせる術をこの家の大人たちは熟知していて、 やたらとアイスを勧められたのを覚えている。まぁ、今も配達の度にアイスをもらっているのだけど...。ん? そう考えると私はまだ子ども扱いされているのだろうか...。この家の大人たちに。それはもちろん目の前の理一さん も例外じゃない。思わず眉を顰めてしまいそうなのを人差し指で押さえ込む。そうだ、私はすぐに帰る予定だったんだ。 「あの、私もうかえ」 「じゃあ麦茶でいいか」 故意なのかそうじゃないのか判断がつかないが、遮るように声を上げた理一さんに、言葉尻は口の中で消えた。 そして私の返事も聞かずに台所の方に歩いていってしまう。私は一人おいてけぼりにされて所在無く座布団の 上から体がはみ出ないように縮こまっていた。 やがてお盆にグラスを二つ乗せた理一さんが戻ってきた。私の前に座布団を置いてそこに腰を下ろし、二人の間にお盆が置かれる。 「どうぞ」 「ありがとうございます...」 麦茶と一緒に氷が浮かべられたグラスを受け取ると、それはカランと涼しげな音をたてた。グラス自体も冷えていて気持ちいい。 思っていたよりも体は水分を欲していたらしく、一口飲むつもりが止まらなくて、結局グラスの半分ほどを一気に飲み干してしまった。 冷たい麦茶を摂取して体温も下がった気がしながらお盆の上にグラスを戻すと、理一さんがにこにこしながらこっちを 見ていた。戸惑ってうろうろ視線が覚束ずにいると、喉で笑ってる声が耳に届いた。 「...なんですか?」 「見違えたと思って」 つっけんどんな物言いに理一さんは気を悪くした様子も無く、相変わらず笑みを浮かべたまま答える。途端、私は自分が ひどく子供であることを思い知ってしまう。これじゃアイスを勧められてもおかしくない。 見違えた。それっていい意味なのかどうかもよくわからない。大人になったってことか、子供が成長したって意味なのか。 「久しぶりだね」 「...お久しぶりです」 久しぶりになったのは間違いなく私が図ってのことなので、幾分かの気まずさを感じながら白々しい言葉を返した。 「そんなにかしこまらないで、昔みたいに話してくれると嬉しいんだけどな」 苦笑いを浮かべる理一さんから見れば、ほんの子供の頃...それこそクソガキだった時から知ってるのに数年会わなかった 間に敬語を使うようになった私は滑稽に見えるかもしれない。実際、私だってそうだと思う。 子供の時の癖が取れないまま私は未だに翔太くんだけに限らず、アイスをくれる大人たちにも気軽な口調で話す。 唯一、理一さんにだけこんな畏まった口調なのだ。 まさかそれらを理一さんが知っているとも思えないが、私は理一さんの言葉と苦笑いを一緒に流した。 「いつこっちに来たんですか?」 聞く耳を持たないのだと悟ると、理一さんは困ったような笑いを一瞬浮かべてから表情を戻した。 「今日の朝だよ。皆で出かけるって話だったんだけど、流石に着いてすぐはね。だから留守番をかってでたんだ」 「そうなんですか」 だから珍しくこの家は静かだったのか。私は納得しながら次の会話を探していた。 子供の頃はお互いに黙ったまま向き合っててもどうってこと無かったはずなのに、今は何かを話していないと そわそわして落ち着かない。原因はいつも騒がしいこの家が静かだってことや、ほぼ目線が理一さんに追いついた ってことや、この距離とか、他にも正面に座る理一さんがじっと私を見ていることとか...。 「いつ帰られるんですか?」 「...さっき来たばかりなのにもう帰る話?」 来た時の話が終わったのなら、次は帰る時の話だと安易に思いついたまま口を開けば、またも理一さんの困った顔が 返ってきた。そして指摘されたとおり、来たばかりなのにもう帰るときの話を振るなんて安易過ぎた。 そんなつもりは無いのに、これじゃ早く帰って欲しいみたいに聞こえる。 「まだはっきりとは決めてないんだけど、日曜までは居るよ」 日曜に何かあるんだろうか。先ほどの反省を引きずって顔が上げられず、視線はすっかり汗をかいてしまってる 二つのグラスに向ける。理一さんのグラスは中身の麦茶の量が少しも減っていないように見える。 「ちゃんは?」 「え?」 名前を呼ばれて、思わず顔を上げてしまう。 「日曜の予定は?」 「いえ、別になにも...」 咄嗟に頭の中のスケジュール帳を捲ってみたが、そもそもお盆中は家の手伝い以外に特に予定は無い。 「そう。それはよかった」 私の返答に理一さんは嬉しそうな顔をした。何で私が日曜の予定がないと嬉しいんだろう? その疑問はすぐに解決された。 「夏祭り、一緒に行かない?」 「...え、」 吃驚して目を見開いた私の反応に、理一さんは楽しそうに笑みを深める。私はピタっと静止しながらも、頭の中はめまぐるしい勢いで動いていた。 それと同時にじわじわと胸の奥底から湧き上がる喜びも感じていた。 夏祭りに理一さんと一緒に? 二人で? ゆ、浴衣あったっけ?? 「大所帯になるけどそれでもよかったら」 大所帯。その言葉を聞いて私の頭に展開された映像はぷつりと途切れた。思わず一拍おいて「...え?」と問い返すと 「夏希がすごく会いたがってるんだよ」と、にこにこ返される。大所帯...つまり、陣内家のお祭り御一行に混ざらない かというお誘い...。がっくりと肩を落としそうになるのを堪えながら私は自分の馬鹿さ加減にほとほと呆れた。 二人でとか、そんなわけないのにほんとに勘違いも甚だしい。 時間が経つと自分の早とちりの勘違いにも恥ずかしさを覚えてくる。勝手に勘違いして、勝手にがっかりして、 馬鹿としか言いようがない...。羞恥に赤くなりそうな顔を隠すべく私は俯いた。 よく考えれば分かるのに、理一さんが私を誘って二人で夏祭りに行くわけが無い。 「夏希だけじゃないけどね」 視界に細長い影が映ったと思うと、少し冷たい手が頭皮に触れながら横髪を梳いていき、そのまま耳の上を通過して 輪郭をなぞるように移動し、離れていった。この行動と言葉に深読みしてしまいそうな心を持て余して戸惑いがちに顔を上げると、いつも見ているのとはちょっと様子が違う 表情を見つけてしまった。 触れられた耳がじんじんするのを感じながら、私は自分でも何を言いたいのか検討も つかなかったけれど、小さく口を開いた。だけど開いただけで結局は何の音も出ない。 少しずつこの空気が通常とは違うものだと肌で感じた私の心臓が脈打つ速度を速める。自分が今、不安を感じている のか、高揚を感じているのか分からない。たださっき萎んだはずの期待がむくむくと膨らんでいくのを感じた。 「もうロリコンは使えないよ」 それまでの雰囲気をぶち壊すには十分な爆弾を落とされ、私は息が止まった。 まさか覚えているなんて。私だけが気にしているなんて言ってむくれていた過去は棚に上げて、私は唖然と目の前の 楽しそうな顔を見上げた。 「おおおおお、おぼえて?!」 舌が回らないのに音量だけは大きく叫ぶと、もちろん。と理一さんが満面の笑みで答える。私はサッと血の気が引いた。 「ロリコンって言われたことも、ちゃんが急にここに来なくなった理由も」 翔太くん言いやがったな!! この事実を知っているのは当事者であり、記憶のある私と、当事者の癖に記憶がなく、 後から私に聞いた翔太くんしかいないのだ。するりと犯人が特定できた私はこの場に居ない犯人を思って、怒りに燃えた。 「それから、」 完全に翔太くんに向いていた意識(というよりも殺意)が、少し大きな声によってまた目の前の理一さんに戻される。 「ちゃんが大きくなったらお嫁さんになってくれるっていうのも覚えてるよ」 爽やかな微笑を浮かべながら理一さんは堂々と捏造した記憶を口にした。 「...そッ、そんなこと言ってないもん!」 焦りのあまり畏まった口調は頭から吹き飛んだ。爪先から頭の天辺まで一気に体温を上げたような感覚を覚えながら 叫んで返すと、理一さんが嬉しそうでもあり、楽しそうでもある、言ってみれば非常にご機嫌がよろしそうな表情を浮かべていた。 やられたと気付いた時には、もう理一さんの手の平で転がされている。 純情ピンボール
(20120714) |