先生が最後に出した課題は“一年間を振り返って”という作文だった。 先生の担当は国語なのだから何も不思議ではない 課題だったけれど作文というものがめんどくさいものであることは高校生ともなれば嫌というほどわかっていたので皆その課題が発表されると口々に文句を口にした。 こういう時、生徒と距離の近い先生は大変だと思う。だけど先生はそれらの文句には何も答えずに笑って「最後の課題だから期待してるぞー」なんてちゃっかりハードルを上げた。 ぶつぶつ文句を言いつつも皆が諦めてペンを取り出すと、先生は満足した様子で頷いて教壇のところに椅子を持ってきて座った。 その表情はなんだかにこやかで楽しそうだった。 「せんせー俺らが苦しんでるの見て喜んでるだろ!」 「いや? そんなことないぞ」 クラスの男の子がそう言えば先生はにこやかなままに答える。すると他の男の子が「ぜってー嘘!」と続けた。 それでも先生は動じた様子は無く「この時間に書き終わらなかったら宿題だからなー」と大きな声で言うと皆この 時間で終わらせようと決意したらしく黙った。先生の機嫌がいい理由がなんなのか、私は作文なんかよりもそっちの方が 気になって、クラス中の頭が俯いている中で一人顔を上げていた。そうすれば当然、一人顔を上げている私に先生は気づいた。 「読むのが楽しみだ」 ぱちりと目が合うと先生は楽しそうに言った。“一年間を振り返って”その題目から思い浮かぶのは......。 私は先生から視線を外してまっさらな原稿用紙を眺めながらシャーペンを握った。瞼の裏に浮かぶのはこの一年で私の頭 の中の大半を占めることになった人だった。 「ー、作文の提出がまだじゃなかったか?」 友達とのおしゃべりに花を咲かせていると突然名前を呼ばれ、ハッとして振り返るものの誰もいないのできょろきょろして いると正面に立つ友達がおかしそうに笑みを浮かべた。 「え、え、誰」 わけが分からなくて友達にそう言うと頭上で吹き出す声が聞こえた。パッと上を見上げれば校舎の窓から土井先生が顔を覗かせていた。 「は意外とにぶいなぁ」 楽しそうに目は細められ、唇が弧を描いている表情にはからかいが含まれていた。珍しい先生の姿と、明け透け無い物言い に私は鼓動が早まるのを感じた。それでもこのまま言われっぱなしというのも何なので、突然の出来事にあまり良い動きを してくれそうに無い頭を捻って咄嗟に声を上げた。 「にぶくないです! う、上からなんて卑怯ですよ!」 急激に頬に熱が上がるのを感じながら反撃するべく叫ぶも、先生は声を上げて笑っただけだった。 「後はだけだぞー」 先生は言いたいことだけ言ってさっさと顔を校舎の中に引っ込ませた。先生と話をしていた余韻で頬が熱いのを感じながら も表情はにやけないように気を付けながら友人に向き直る。 「だけだって」 「らしいね」 「提出期限って今日じゃなかった?」 「...そう」 「もう! 早く出してきなよ」 呆れた様子の友人に背中を押され、私は放課後のお喋りを切り上げて人気が無くなった校舎内を歩いていた。 提出期限が今日までということはもちろん知っていたし、覚えていた。後で提出に行こうと思っていたのだ。 だけどそれを知らない先生は私にそれらを伝えてくれた。もしかしたらわざわざ探してくれたのかもしれない。 自分にとって都合のいい物語を私は脳内で組み立てて、勝手に上機嫌になっていた。 気分が良くなると唇からは声が漏れて、好きな歌を紡ぎだす。放課後の人気が無いとわかっているからこそ出来ることだった。 誰かに見られるかもしれないという懸念が頭から抜け落ちるほどに私は浮かれていた。 都合の良い物語はとことん私の 気分を良くしてくれる。自分の声に合わせて適当に足を動かせば、無人の廊下に私の足音と声だけが響く。 鞄に入れておこうと思ってすっかり忘れていたので課題は机の中に入れっぱなしのはず。目指すは教室だ。 誰にも会わなかったので私は当然教室の中も無人だと思い込んでいた。歌を口ずさみながらドアを開け、何かおかしいと 思い顔を上げると、そこにクラスメイトの不破くんが居て驚いた。が、すぐにそれを上回る羞恥の波に襲われる。 一人で歌っているところを見られた。それも運が悪いことにあまり...全然と言ってもいいほど会話したことがない不破くんに見られてしまった。 先ほどのまでの私は、まさか人が居るとは思わなかったのでずいぶんと浮かれていた。そこを見られてしまった。私は早くこの教室から脱出したい 一心で机の中に手を突っ込み、目的のものを取り出した。途中、不破くんが同じバンドを好きだと言うことが判明して テンションが上がってしまったが、あきらかな不破くんとの温度差を感じてうなぎ上りだったテンションは一瞬で落ちた。 恥の上塗りというのはこのことだろう。この後のことが楽しみでちょっと浮かれすぎていたらしい。 自分の今の行動を反省しながら不破くんに別れを告げた。そういえばこんなやり取りを不破くんとしたのは初めてかもしれない。 そんなことを考えながらも、もう頭の中はすでに先生のことでいっぱいだった。 ノックをすれば中からいつもどおり応答する声が聞こえる。それが先生のものであれば私の心臓は大げさに跳ねのだ。 いつまで経っても慣れない...というよりも症状は悪化しているような気がする。少し早まった心臓の音を聞きながら私は髪を軽く 手で整えながら、中に居るのは先生だけでありますように。なんて、不純な願いを胸の中で呟く。 「...失礼します」 「お、提出期限ちゃんと守れたな」 待ち構えていたような台詞と共に顔を上げてこちらを見た先生の目が柔らかく細められたのを瞳が捉えて反射的に心臓が跳ねた。 もう心臓が先生と目が合うと一回跳ねる、と決まってるみたいだ。 私の願いが届いたのかはわからないけれど、準備室の中には先生一人だけだった。 顔が緩みそうになるのを耐えて、早歩きで見慣れた準備室の中を横断して窓に背を向ける形で設置されている先生の机まで行く。 「私、提出期限は破ったこと無いですよ」 心外だと、わざとらしく眉を寄せながら課題を渡せば先生はそれを受け取りながら笑った。 「あぁ、そうだった。ぎりぎりに提出していつもセーフだったな」 まるで懐かしむような口ぶりで今を映していない瞳に、突然焦燥感を覚える。 手のかかる生徒だったと言外に言われているような気分になった。 まるでこの課題を提出すれば終わりだと言われているような気分になった。 先生の雰囲気に、私の勘が何か嫌な予感を訴えて、胸の中がざわざわと騒いでいる。それは無視出来るほど些細なものじゃなかった。 夏のそれとは違う、冬特有の棘の無い夕陽の色が室内を照らしていて埃が舞って光っているのが見えた。 「来年は...」 喉に声が絡んでうまく喋れない。 「来年は、先生が担当してくれないんですか?」 肩に食い込む鞄の持ち手を握りながら私は息を詰めた。先生は私が提出したばかりの作文に目を通しているところで、 私からは旋毛しか見えなかった。どんな表情を浮かべているのかは知ることが出来ない。 “が聞いてみたら先生教えてくれるかもよ” 皆には教えてくれなかったけど、だけど、きっと、私には、 「...あぁ、まだ決まってないんだ」 心臓が一瞬動きを止めたみたいだった。手の先からスッと血の気が無くなるような感覚がする。 ちらりと見えた先生の表情は困ったようで、私とは目を合わさずに手の中の作文を半分に折っている。 「そ、うなんですか...」 やや間を置いてようやくそれだけを搾り出した。 私は友人たちから見ても先生と特別仲が良かったと思われていた。私だってそうだと思っていた。 一年間少しずつ先生との距離を縮めて他の子たちよりも近い位置に、ほんの少し先生の特別を貰っていたのだと。 それが今、先生に否定されてしまった気がした。 けれど、じゃあ全て私の勘違いだったのだろうか。 先生は少しも私の事を特別とは思わなかった? 裏切られた気分だった。じくじくと痛む胸は鋭いナイフを突き刺されてしまったかのようだった。そこを手で押さえれば少しでも出血が止まる と思っているように私は手でそこを押さえた。一年間胸の中で成長した気持ちが行き場をなくして暴れているようだった。 体の内側で色んな感情が胸を突き破ろうと動き回っている。 今まで閉じ込めていたというのに、私は急にこの気持ちを抑えるのが苦しくなってしまった。気持ちを閉じ込めていた 瓶にひびが入ってそこからとろとろ漏れてきているみたいだ。 自分の感情に溺れそうで上手く息が出来ない。体の中が熱い。喉が痛んでひりひりする。だけどそれに構わず声を出した。 「先生、私...」 一年の間に成長した溢れそうな気持ちが喉のすぐ手前まで競りあがってきている。 「先生のこと、...」 「!」 強く名前を呼ばれてハッとした。ぴしゃりと頬をはたかれたように意識が戻ってくる。 顔を上げると先生は俯いたままだった。 「...帰りなさい。すぐに暗くなる」 声が、空気が、有無を言わせない雰囲気を纏っている。そこでようやく自分が今、何をしでかしたのか自覚した。 胸の中で暴れまわっていたはずの気持ちは今は大人しくなり、燃えるように熱かったはずの体は変わりに氷を詰められたみたいに急速に冷えていく。 「...はい」 声は震えていた。だけど先生はこちらを振り返らなかった。 夕陽色に染まった先生を見下ろしながら徐々にぼやけてきた視界をこれ以上ひどくならないよう耐えるために唇を噛んだ。 自分の足じゃないような感覚のまま俯いてドアの前まで歩く。夕陽色から足を踏み出せば徐々に影に覆われた世界があった。 このまま出て行けば本当にここで終わってしまう。そう思うと足を踏み出すのを躊躇してしまう。だけど、だからといって 私に選択肢は与えられていない。ここから出て行く、それが唯一の選択肢だった。 「失礼しました...」 ドアを開けて廊下に足を踏み出すと一気に全身が冷気に覆われた。それがますます私に現実を知らせていて視界が一気にぼやけた。 「気をつけて帰りなさい」 前はもっと砕けた口調だった。教師を前面に押し出した声と口調に私はあれほど気をつけていたというのに禁忌を犯してしまったことを知った。 歪んだ視界の先に居る土井先生は最後まで動かずに机に向かったままだった。 「...はい」 ドアを閉めてから突如襲ってきた感情に抗えるだけの気力が私には残っていなかった。 分かっていたはずなのだ。自分の気持ちを抑えておかなければどうなるか、私は分かっていたつもりだった。 だからこそこの気持ちは誰にも知られることの無いよう、厳重に守らないといけないとそう思っていたのに...。 多分いつからか私は思い違いをしていたのだ。自分は先生の特別で、他の皆とは違うと。私だけは違うと。 ほんの少しもらえた特別に酔っていた。 今となっては私が期待していた感情が先生には無かったのだとわかった。いや、最初からわかっていたのに、私だけは違うかもしれないと思ってしまったのだ。 先生は私のことを“生徒の”と認識していたのに、それなのに私は勘違いをした。 そして愚かな間違いを犯してしまった。口に出したら終わりだと分かっていたと言うのに...正確には口に出す ことさえも許されなかった。 後悔してもしきれない。馬鹿な事をしたと自らを罵ったところで時間が戻るわけではないのにそうせずにはいられなかった。 一年の間、気持ちを注いだわりにはあっけない幕引きだった。 その日の帰り道、私は止まらない涙を流したまま家に帰った。 学校はもう春休み直前ということで授業もなく、気楽なものだった。 先生とはあれから顔を合わせていない。何度か見かけたことはあっても今までのように声をかけることが出来なかった。 どういう反応をされるのか恐くて、以前では考えられないことに私は先生を見つけると逃げていた。 こちらが意識していなければ先生と会うことは殆ど無かったことが今にして分かった。私は先生を追いかけすぎていたのだろう。 手帳に記された特別な水曜日の印である星マークは黒のボールペンで塗りつぶした。 そうこうしているうちに春休みがやってきて学校に通う必要は無くなった。私は無事に進級することが出来るらしい。 失恋すると髪を切るとはよく聞くけど、私はそれがなんでなのか理解できなかった。 なんで失恋をしたら髪を切るんだろう? その疑問は身を持って解決することが出来た。生まれ変わりたいなんて大仰な気持ちではないけど、それを満たす 一番のてっとり早い方法がきっと髪を切るってことなんだ。忘れるなんて事は絶対に無いし、忘れる気も無い。 だけど何となく友人と遊んだ帰り道、美容室の前を通った時、私の足は店の中に歩き出していた。 始業式の日、頭がずいぶんと軽くなった私を見た友人達は一様に驚きながらも、良く似合っていると言ってくれた。 自分でも短くなった髪を気に入っていたので嬉しいと思うのと同時にどこかで寂しいと感じている部分もあった。 進級と言ってもクラスの顔ぶれが変わった以外には大きな変化を私は感じられなかった。 新しく配られた時間割には先生の名前が載っていなかった。それが喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか自分のことなのに判断がつかなかった。 一つ学年を上がったことで少し慌しい日々を過ごしたが、それも落ち着いた頃、ようやく一日の授業を終えて帰ろうと 廊下を歩いていると前から見知った姿がやってくるのを見つけて私は咄嗟に息を詰めた。 結局どうするべきか結論が出ずにその場に足を縫いとめられたように動けずに居た間に距離は縮まってしまった。 あの日とは違い、廊下に差し込んでいる光りは色付いていないし、ここは廊下だ。なのにデジャブを覚えた私の喉はひくついた。 今すぐここから逃げ出したいのに、先生の視線が一直線に私に向けられているから動けない。その場から動けずに居る 私を置いて、先生はてっきり通り過ぎるのだと思ったのに思いがけず影は私の目の前で動きを止めた。自然と向かい合う形になってしまう。 心臓がどきどきとうるさいのは緊張のためだ。そう自分に言い聞かせながらもどこかでまだ未練がましい自分がいるのも事実だった。 廊下には誰も人が居なかった。私と先生の二人だけだった。 「髪、切ったんだな」 息苦しい沈黙に窒息しそうになったところで先生が口火を切った。 「...はい」 久しぶりにこんなに近い距離で先生を見た。だけどじっと見つめることも出来ずに私は俯いてから頷いた。 先生の声はあの時のようなものじゃなかった。だけど声音に少し緊張を孕んでいるのが分かってしまった。また先生が声を掛けてくれたことが 嬉しいのに気安さの無い声音が少し辛くもあった。都合よくあの事実は無かったことに出来ないだろうか、と考えていた 淡い期待が否定されるには十分だった。 先生は私にとどめを刺しに来たのだろうか。淡く残った期待さえも砕かれるのだろうか。 卑屈な考えが止まらずに徐々に背中が丸まっていくのを感じた。 「似合ってるよ」 思いがけない言葉が聞こえて顔を上げてしまった。その先にいた先生は柔らかく笑っていて、それは私たち生徒によく向けられる ものだった。例えば、テストの採点を間違えていると申告しに行ったときや、些細なことでもありがとうというときにもその顔を向けられた。 似合っていると言われたのがうれしいのに、それが自分の庇護下にあるものへと向けられるものだと分かって 少し胸が痛かった。どこまでも先生は私のことを生徒としか見ていないのだと分かってしまった。 「...先生ってひどいです」 情けない顔を見られたくなくて、私は再び俯いて自分の上履きを見つめた。 痛いほどに分かっていたのに、やっぱり少し傷付いている私が居る。 「え、あ、言っちゃ悪かったか?!」 頭を垂れてすぐに頭上に降ってきた動揺が滲んだ声に私は吃驚して思わず俯いたばかりの顔を上げてしまった。 顔を上げた先の先生の焦った顔を見てまた驚いた。 自分の一言で私を傷つけてしまったと思ったのか、先生はまだ「褒めたんだ!そんな変な意味で言ったわけじゃ...!」 とかなんとかおろおろしながら私に話しかけてくる。 あの時はあんなに冷静で動揺なんて少しもしてなかったのに...。こんな些細なことでうろたえるなんて...先生があまりにも焦っているので思わず私は少しだけ笑ってしまった。 張りつめて膨らんでいたものを突付かれて空気を抜かれたみたいだった。 急に笑い声を上げた私に、今度は先生が驚く番だった。今まで必死に弁明していたのに私の顔を見てぴたりと動きが止まった。 「ありがとうございます」 先生はひどい。そんななにも無かったみたいに接しられたら自覚しないわけにはいかない。 私はどこまでも先生の生徒でしかないと。 こうやって普通に話してくれたのが、今までどおりにしていいと許されているような気分になってしまった。 同時に私はどうしても先生の生徒なのだと宣言されたようだった。だけどそれが少し救われたような気分にもなるのだから不思議だ。 淡く残った期待はきっと消すことが出来ない。だけどそれでいいと思う。間違えなければ。 ...嫌でも私は前を見なくちゃいけないんだろう。 小さく息を吸い込んで口角を上げる。 「みんなに似合ってるって言われるんです」 はしゃいだ声を出すと先生は一瞬目を見開いて、だけどすぐに私が大好きな顔で笑った。 久しぶりに晴れやかな気分で私は歩いていた。普通に先生と話が出来たのが嬉しかった。 たぶん先生も同じ気持ち だったから、今日私に話かけてくれたんじゃないだろうか。独りよがりな憶測だがそれぐらい自惚れても許されるだろう。 だけどやっぱり少し悔しくもある。...少しも意識してくれないなんて! こんなことなら提出した作文のあの一行は消すんじゃなかった。 一年間を振り返るとたくさんのことがありましたが、私にとって一番の大きな出来事は先生と出会えたことです。 (20121105) |