とりあえずこの空間から抜け出すためには、この目の前の課題を終わらせなければいけない。 溜息が零れそうになるのを無理やり飲み込んで、私はシャーペンを握ると数式の書かれた紙に視線を落とした。 問1、の設問を読み終わってからちらりと視線を動かせば大きな背中が目に入った。 いつものように机に突っ伏す様子は無く、今は真面目に問題を解こうとしているらしい。まぁ、それが当然なんだけど。 青峰くんと言う人は少し...は、やんわりすぎる言い方かもしれないが、素行がよろしくない人だ。 例えば朝は居たはずなのに、姿が見えないので帰ったのかと思えば昼休憩にあくびをしながら現れ、彼の友人がどこに行って いたのかと尋ねれば「屋上で寝てた」とか悪びれる様子も無く言う人なのだ。そんな人が果たして出された課題を真面目に 家でせこせこやって来て提出するかと言えば、そんなわけもなく...。 誰かに課題を映させてもらうということもしない彼は今日とうとう数学の先生の逆鱗に触れた。 (「んなもんやってられっか」と言う返答も非常に悪かったと思う。) 「お前はいつもいつも...テストにしても課題にしても...! もー先生怒ったからな!」 と言う感じだったので逆鱗とは少し違うかもしれないが。まぁそんなことはおいといて。問題はここからだ。 私は別に素行が悪いわけも無く、点数が稼げるのならと、いつも課題は真面目に提出している。だというのに!! 神様は時として残酷な運命を与える...。人は皆平等。とかよくもまぁそんなことが言えたもんだ。ちゃんちゃらおかしい!! 私は今日はたまたま!(ここ重要)課題を忘れたのだ。 すると... 「も忘れてたな! お前ら二人今日は居残りで課題終わらせるまで帰るな!!」 あまりにも不条理で理不尽すぎる命令に、だけど相手は教師、私は生徒、何かを言えるわけも無く、泣く泣く私は頷いて その命令に従うしかなかった。 働きアリがキリギリスと同等の扱いを受けるなんて...こんな世の中間違ってる!! とは言いたくても言えない...。 というような経緯(完全なるとばっちりと言っても差支えがないと思う)があって、私と青峰くんは人気のなくなった教室で課題をしているのだ。先生は当然付いていてくれる ことも無く、青峰くんが(意外にも!)ちゃんと現れたのを満足げに見届け、職員室で私たちの課題が終わるのを待っているらしい。多分今頃暢気にコーヒーとか飲んでるんだろう...ちくしょう! せめて青峰くんがあの時「んなもんやってられっか」なんて言う気の利かない返事じゃなく「すいません、今度からは ちゃんと課題やって来ます」とか口先だけでも答えてくれればこんなことには...。今更過去について考えてても何も 始まらないとはわかっているのだけど思わずにはいられない。と、そうこうしているうちに一問目が解けた。 この調子でさっさと終わらせて... 「なあ」 「うぇ、はい!」 頭上から低い声が聞こえ、私は思わず変な声を上げてしまった。パッと顔を上げればさっきまで自分の席に座っていたはずの 青峰くんが立っていた。 「うぇ、ってなんだよ。そんな返事する奴初めて見たわ」 くしゃっと笑いながら改めて指摘されると恥ずかしく思ってしまう。顔が火照ってくるのを感じていると、ガタッと音が して、私の前の席の椅子が引かれた。何だ? と思う間もなく、青峰くんが当然みたいな顔で背もたれを前にしてちょうど私と向かい合うようにそこに腰を下ろした。 ...え? 何のつもりだこの人。とか思っている間に青峰くんは「邪魔」と一言喋りながら机の上に置いておいた私の筆箱を 体を捻って自分が今座っている席に置いた。そしてスペースが出来上がった机の上に自分の課題を置く。 ...え? 「手分けして終わらせねぇ?」 「...手分け?」 どうやら何してだこいつ。みたいなのが表情に出てたらしく、青峰くんは背もたれの上で腕を組みながら話し始めた。私はそれに呆けたように同じ単語を繰り返す。 「そのほうが早く終わんだろ」 「...まぁ、うん、そうだね」 素直に頷いて答えれば青峰くんはニヤッと笑った。 「じゃあ決まりな。俺は1から3までやるから」 「...え、え?!」 慌てて課題に視線を落とせば、設問は12まである。ということは...4から12まで私が?! どう考えても不公平なふりわけに私が大きな声を上げると、青峰くんは大真面目な顔で答えた。 「俺が一問解いてる間にお前は三問解けるはずだ」 「いや、...え?」 「時間配分的にはこれで同じなんだよ」 いえ、え? 何言ってんだこの人。と思っている間に青峰くんは私の課題を覗き込んで「お、もう一問終わってんのか、 んじゃあ俺は2から4まで解くわ」とか、勝手に話を進めている。 え? 青峰くんって話し聞かない人なの? この状況に私が呆然としている間にとっとと青峰くんはシャーペンを握って課題に向き直ってしまった。 しょうがないので私も渋々シャーペンを握り、ペン先を問4に向けることにした。 そこからはさっさとこの訳の分からない状況から抜け出そうという目標が出来た上に、全然話したことが無い青峰くんと 二人きりの上に至近距離という状況に焦って、ひたすらにもくもくとシャーペンを動かした。 青峰くんも珍しく真面目に課題と向き合っているので、この調子なら結構早く帰ることが出来るんじゃないだろうかと 口元が綻びながら問9にペン先が向いたところで事件は発生した。何か視線を感じると思い、顔を上げれば青峰くんが こちらをじっと見ていた。あまりにも遠慮の無い視線に思わずたじろいだ。 「...お前、何か匂う」 「ええっ!!」 突然の暴言に私がショックを受けている間も、青峰くんは鼻をすんすん動かして匂いを嗅いでいる。 その光景にショックを受けて固まっている場合ではないと気づき、目の前の空気を入れ替えようと急いで手をぶんぶん振って 風を起こす。 「別に臭いってわけじゃねぇからな」 「な、なんだ...」 私の行動をただ見ていた青峰くんの一言に私はホッとしながら手の動きを止めた。そしてまたシャーペンを握ると、 目の前の青峰くんが目を丸くしているのが目に入った。と、思った次の瞬間には「ブハッ!」と吹き出した。 大きな体が小刻みに震えている。今のどこにそんなにウケる要素があったのかと頭の中が疑問符で埋め尽くされる。 「臭くなかったらいーのかよ」 「え、...良くはないけど...」 「ブッ!」 ようやく笑い終わったと思ったら、また笑い始めた。 知らなかったけど青峰くんって、笑い上戸なのだろうか...。その上何だかやたらと距離が近い。いや、物理的なことじゃなくて...物理的な意味でも実際近いんだけど、あんまり話した ことが無いはずの私にもやたらとフレンドリーというか...。 「おまっ、何事も無かったかのように問題解いてんなよ」 考えながらもシャーペンを動かしているとそんな声で動きを引き止められた。顔を上げれば机の上に肘を立てその上に顎を乗せた青峰くんと目が合う。 「安心しろ。ちょっと甘すぎるけど、いー匂いだ」 にやりと口端がつり上がるのを見届けてから、どうにも変な雰囲気に私はサッと視線を逸らした。 それから頭の中で心当たりを探してみれば今朝コロンをつけてきたことを思い出す。 「あー、今日はあれ、コロンつけてきたから、あーそうかそうか、あれだわ」 うんうん頷きながら私は本格的に問題を解く姿勢を取る。無言の訴えでこれでこの話を終わらせて真面目に問題を解きましょう! と、提案と言うか圧力と言うかをかけてみる。するとそれが届いたのか青峰くんもシャーペンを握ってくれた。 そこからの時間はとてつもなく長く感じてしょうがなかった。 . . . 「青峰が...青峰がちゃんと課題を...!」 出来上がった課題を青峰くんと二人で職員室に居る先生の元に提出に行くと先生は私たちの姿を見るや否や目を見開いて 私たちを迎えてくれた。すごく歓迎されているというのに当の青峰くんはとてつもなくうざそうな顔をしている。 (ちなみに青峰くんの予言通り(?))私が合計9問、問題を解いている間に青峰くんは3問しか説けなかった。なのに、 「ほら、俺が言ったとおりだろ」と何故か青峰くんは得意げだった。) そして先生の声を聞きつけたらしくぞろぞろと集まりだした他の先生達に青峰くんはあっという間に囲まれてしまった。 「青峰お前やれば出来るんだから英語も提出しろ!」とか「せめて授業ぐらいを出ろ!」とか色々言われている。 少し気の毒だが、まぁ先生も心配してくれてるからだろう。ということにしておく。 「よくやった!!」 「えっ...」 「青峰が課題を提出するなんて...こんなことは初めてだ!」 「...そうなんですかー」 突然声をかけられ、何事かと思えば...私は気の無い返事で答えたというのに先生は少しも気にした様子も無く、言葉を続けた。 「どういう技を使ったか知らんが、そうか...青峰はの言うことなら聞くんだな...」 「はっ? えっ、ちょっ!」 何か勝手に勘違いしておかしな方向に話を纏めようとする先生に制止の声をかけ、事実を話そうとするもののそれは肩を 掴まれて阻止されてしまった。ハッと振り返れば青峰くんが私を見下ろしていた。 「早く帰ろーぜ。ここに居たらマジでうるせぇ」 「いや、別に先に帰ってくれればいいよ...」 「は? お前帰んねぇの?」 「えっ、帰るけど...」 「じゃあぶつぶつ言ってねぇで帰るぞ」 「ええ?!」 勝手に帰ってくれれば言いというのに青峰くんはそういうと強引に私の腕を掴んで歩き始めた。そうなると私はひきずられて 足を動かすしかなく...慌てて振り返れば先生が何か納得したように頷いているのが目に映った。まるで「そうか、お前たちそういうことか」 とでも言い出しそうな雰囲気に私は血が顔に上るのを感じた。 「先生違いますッ!!」 「急にうるせーよ!」 大声で先生の考えを否定する声を上げるとすぐさま青峰くんから軽いチョップを頭に食らった。 何かわからないけど急速に距離が縮んでいるような気がして、その全然痛くないチョップが少しこしょばく感じてしまった。 そうすると連鎖するように掴まれている腕が制服越しだというのに熱を持ってきてしまう。 何か私って結構簡単だな...と、そんな自分にちょっとショックを受けつつもその手を振り払うという選択肢は現れなかった。 アリ少女の受難PART1
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