「あっ!! 師匠!」

思わずびくっと肩が飛び跳ねてしまうほどにその声は朝の爽やかな空気にそぐわなかった。
五人全員の肩が揺れ、続いて五人は前方からこちらに駆けて来る少女の姿を見つけた。
そして、少女が言う師匠とは一体誰なのか、四人がその姿を探している間にも少女   は距離を縮め、五人の前で 止まった。何故ここで止まるのか? 四人が浮かべた疑問はが声を上げたことによってますます深まることになった。

「師匠おはようございますっ!!」

はきはきと朝っぱらから腹の底から声を上げるのは、このと一年は組のよい子達くらいだろう。
そしてよい子たちにも負けない声を上げたは、頭を勢い良く下げた。
頭を振る勢いが良過ぎて、宙に舞った長い髪の束はちょうどの前方に居た三郎の顔にバシッと当たった。 朝から顔面を髪で攻撃された三郎は、元々不機嫌そうに歪められていた眉根の皺を深くする。意外にも髪の毛は十分な凶器になることを三郎は寝起きの頭で知った。 だが、は頭を下げた状態なのでそのことは気付かず、頭を勢い良く上げた際に、今度は下から二度目の髪の毛攻撃を三郎に食らわせた。 束になり、勢いもあった髪はそれなりに痛みを与えてきたので、三郎の機嫌は急激に下がることになったのだが、 期待した表情で挨拶を返されるのをじっと待機して待っているに嫌味を言う気も削がれた。
寝起きということもあり、まだ完全に目が覚めていない三郎はの三分の一にも満たない声量で挨拶を返した。

「おはよう...」

挨拶を交し合う二人以外にはこの状況がわからない。四人は口々に頭に浮かぶ疑問を話し始める。

「師匠?」
「え、誰が?」
「三郎に言ってない?」
「どういうことだ?」

背後で囁かれる言葉が耳に入りこんでくると、三郎は思わず顔をゆがめた。この後の展開がどうなるのか読めないほどに 馬鹿でもなければ、四人との付き合いが浅いわけでもない。きっとこの後質問攻めにされることを思うとどうしてもめんどくさいと思ってしまう。 だが、相変わらず目の前の弟子は空気が読めていないのか、にこにこと笑みを浮かべている。

「昨日はご指南ありがとうございました!」

そしてまたしても勢い良く頭を下げ、三郎の顔を髪で強打した。
顔を髪でぶたれたと同時に隣から「ブッ!」と吹き出す声が聞こえたので、三郎はに怒るよりも先に、そちらを睨んだ。 そしていくら寝起きだからと言って、二度もの髪の攻撃を受けた自分に舌打ちをした。
一瞬、まさか昨日の嘘がばれて仕返しをされているのかと考えたが、にこにこしているの顔を見てそんなわけがないか、 とあっさり自分の考えを否定する。の性格からも、こちらを騙そうと企んでいたとすれば、全て顔に出てしまうことが想像できる。

「早速効果が現れたような気がします!」

それは気のせいだろ。
適当な指導と称した、ただの体育委員会のような活動をしただけだ。
ただの走りこみの間にそれっぽく「こうして自分を追い詰めることで、神経を研ぎ澄ますことができる」だのなんだの自分でも 何を言っているのかわからないが適当なことを言ったのだ。そうするとは神妙な表情を浮かべ「なるほど」と呟くのだ。
こいつ、いろいろと大丈夫か? と、三郎が思ったのは一度や二度じゃない。
そして昨日の指導は本物であったと信じているは興奮したように両手に握りこぶしを作りながら話し出した。

「昨日の夜何かの気配を感じたんです。今までなら気づくことができなかったくらいごくわずかな気配でしたが、私は師匠の指南を受けたおかげで気づけました。 ですが、それほどに気配を隠すのがうまいのですから相手は相当なやり手であると判断し、私はその場から動くことができませんでした。 私が動かないので、背後に居る相手も動きませんでした。そうして気づけば私は半刻ほどその場から動けずにいたのです。 潮江先輩がちょうど通りかかってくれたおかげで、私はようやく動くことができました。潮江先輩がやってきたことで相手も逃げたようでした。 本当にとてつもない緊張感で...奴は私を観察しているようでした...。師匠の指南を受けていなければ、私は危なかったかもしれません...」

  こいつ、大丈夫か?
の昨日の報告を受けながら、三郎は本日初めてのの心配をした。騙している本人に心配をされているなどと知れば、 も怒っていただろうが、は三郎の言葉を全て真実と思い込んでいるので、三郎のぽかんとした顔(心の声:こいつ、大丈夫か?) を見ても、自分の成長ぶりに驚いているものとして都合良く処理した。

「あれは誰だったのでしょう」

真剣な表情で呟くに、三郎は「さあな、相当腕が立つ奴だな」と、適当に話をあわせることにした。 そうすればは勢い良く顔を上げ、三郎を見つめた。

「はい!! それは間違いないです!」

三郎から同意を得ることができると、は勢いづいたように大声を返した。
別に褒められたわけでもないが、三郎が同調してくれたということで、はうれしそうに頬を紅潮させながらパッと笑みを浮かべた。 一方、三郎はが何故こんなにも機嫌が良くなったのかわからない。だが、こんなにもうれしそうな表情をしているを見るのは初めてだった。 一瞬だけ、息が詰まったような心地を覚えた三郎は、小さく息を吸い込んだ。
が頬を紅潮させて喜ぶ姿など見たことがない。別段今まで気にしたことはないが、があまり笑っている姿は見たことがない。 授業で一緒になったときなどは、始終真面目な表情しか浮かべていなかった。 そのが満面の笑みを浮かべているのだ。そしてその笑みは自分に向けられている。

「それでは師匠、そろそろ失礼します!」
「...あ、あぁ」

きびきびと声を上げたは、すでに先ほどまで浮かべていた表情を消し去っていた。きりっとした眉毛と意志の強そうな瞳と、 棒でも入っているように真っ直ぐと伸びた背筋。いつも通りの姿だ。

「ブッ!」

最後にまたしてもの髪の毛攻撃を食らった三郎を見て、それまで大人しく黙って様子を見ていた勘右衛門が吹き出した。 それによって三郎は現実に引き戻されたように、意識がふっと戻った。
の表情を認めたとき、一瞬だけ息が止まるような心地になったことについて三郎は特に何も考えず、それどころかもう そのことについては忘れ、今さっき攻撃を受けた顔を撫でながら吹き出した友人達を睨み付けた。







(20130429)