フィーリング・ウェーブ





伊作先輩と一方的な出会いを果たしたのは、もう何ヶ月も前になる。
そのとき、私は次の授業に向かうために裏庭を歩いていた。今となっては何の授業に向かっていたのか覚えていないのだけれど、 一人で歩いていたことからも選択授業であることが想像できる。
一人で歩く私の前を横切って行った二人の男子生徒を何気なく視線で追っていると、突然視界に恐ろしいほど早い白い球体が現れ、 男子生徒のうちの一人、癖毛の方の後頭部にまるで狙ったかのようにきれいに直撃した。
ドゴッ! と激しい音が鳴ったと思うと、男子生徒は球体の力によって前に倒れこんだ。そして運が悪いことに前日は 雨だったこともあり、裏庭にはところどころ茶色の水溜りが出来てしまっていた。そして本当に運が悪いことに、倒れこんだ男子生徒の前にも水溜りがあり...。 ばしゃーんとまでは派手な音がしなかったものの、それに良く似た音が響き、男子生徒は顔面から泥だらけの水溜りにつっこんだ。

「伊作ーーーーー!!」

隣に居たもう一人の男子生徒が、水溜りにつっこんだ男子生徒の名前らしきのを叫ぶのを、私は唖然と見ていた。
選択教室に向かっていたはずの足が止まり、今見た信じられない光景についていけずにいると、水溜りから顔を上げない男子生徒を泥水が跳ね上がるのも気にせずに 救出している場面をただただ見ていた。

「伊作! 大丈夫か!」
「げほっ...ありがとう留三郎。大丈夫だよ」

どう見ても大丈夫じゃないだろ! と思ったのは私だけなのか、留三郎と呼ばれた人は「そうか。よかった」と答えている。 どう見てもよくないと思う。だけど、そう思っているのは本当に私だけだったようだ。
「あー、鼻に入った」「後で鼻かめ」とか普通に二人で淡々と話しているところを見るに、今の出来事は二人にとっては私ほど衝撃を受けるものではなかったらしい。

「それにしてもすごかったな」
「こんなところに運悪く水溜りがあるなんて...」
「さすがだな伊作...」

水溜りは今はまだ残っているのでその下の泥の状態がどのようなものなのかわからないけど、あんなにきれいに顔からダイブしたんだから、 もしかしたらあの水溜りの底には伊作という人の顔の形が残っているんじゃ...。そう考えているところで、誰かが隣を駆けて行った。

「こっちにボールが飛んでこなかったか?」
「小平太...やっぱりお前か!」
「ん? ああ、あった! あれ、どうした伊作その格好」
「お前のボールが伊作の後頭部に当たったんだよ!」

伊作という人は何も言うつもりにもなれないのか力無く「ははは...」と笑うばかりだ。留三郎という人が、伊作の代わりに 今起こったことについて説明している。どうやらこの悲惨な現状を作ったらしい小平太と言う人は、腕にバレーボールを抱えたまま頷いた。

「そうか! すまなかったな伊作!」

じゃ! バレーの続きをしてくる! そう言ったかと思えば、今まで話を聞いていたのかと疑いたくなるほど何事も無かったように小平太という人は、私の隣を駆け抜けて行った。
ええええええ! 完全に傍観者な私でも、心のうちでそう叫ばずには居られなかった。あんなひどいことをしておきながら、 バレーの続き?? 先ほどとはまた違った衝撃を受けている私とは違い、やはり二人は普通だ。
その様子からも、普段から小平太という人がああいう人なのだと想像できた。
もっと怒ればいいのに。傍観者の私から見れば、そういう気持ちが出てしまう。だけど伊作という人は、意外なことを口にした。

「...まあけど、今日はニ回目の不運だから今日の不運は使い切ったんじゃないかな」

そう言ってちょっとだけ困ったように、あはは。と笑っている人に、私はなんてポジティブな人なんだろう...!! と思った。
そして、泥だらけで笑っている姿に...

.
.

「赤い実がはじけちゃったんだよね...」
「うわあ...」

目の前の友人の表情は、その声にぴったりのものだった。漫画みたいに吹き出しをつけることができたなら「うわあ...こいつやばい」 とかいう類の言葉がぴったりだ。例えば他には、「うわあ...こいつおかしいだろ」とかそういう感じだ。
どっちにしてもいい反応ではないことはわかる。

「あんなひどい目に合ったのに今日の不運は使い切ったって笑えるなんてすごいポジティブ!」
「ポジティブ...なの?」
「かっこいい!」
「かっこいい...の?」

私はあれからというもの、伊作と言う名前だけでいろいろな情報を探った。そうすれば先輩の善法寺伊作先輩であることがわかった。 というか、私は知らなかったけど有名な先輩だったらしい。目立つグループの一人だったので、周りからすぐに情報を集めることができた。 曰く、保健委員だとか、不運で知られていることや、彼女は居ないのじゃないかとかちょっと曖昧な情報も含めた情報だ。 だけど伊作先輩と何の接点も無い私からしてみれば、とても貴重な情報ばかりだ。
あれからも何度か伊作先輩が転んだりしている姿を私は目にしている。だけど、いくら赤い実がはじけたからといって、 突然活動的になれるわけじゃない。頭の中では伊作先輩が転んだときに、手を差し伸べたりするシミュレーションを何度も 行っているのだけど、実行に移せたことは一度も無い。
脳内の私と、現実の私とでは大きなギャップがある。

「見てるだけでいいの?」

見てるだけでいいわけがない。本当なら色んな話とかしてみたいけど、だからといって急に積極的になれるわけでもないのか。 複雑な乙女心...。だけどこのままじゃどうにもならないことぐらい私だってわかっている。だから日夜、伊作先輩が転んだのを見たら、 どういう風に声をかけるか脳内シミュレーションを繰り返しているのだ。
脳内では私はすでに100回くらい伊作先輩と話してる。
だけど脳内でだけ...。突然虚しさが襲ってきて、私はわっと机に突っ伏した。

「赤い実がはじけたって急に強くなれるわけがない!」

ここでの強くなれるというのは、恋愛的にって意味だ。別に赤い実がはじけたからって、プレイボーイならぬプレイガールに なれるわけじゃないのだ。プレイガールになるためには素質や努力が必要だ。私はせいぜい頭の中でエア伊作先輩に声をかけるので精一杯なのだ。 ただ私の中で始まっただけで世間的には何も始まっていない。
伊作先輩の世界には相変わらず私は存在しない。

「けど行動しなきゃなにも始まらないよ」


「まずはアタックから! ファイト!」と勇気付けられ、どん底気分の私は少しだけ引っ張りあげられた。確かにそうだ...アタックから....そうだアタックしよう! と目標をきめたものの、 アタックってつまり何をすればいいのか思いつかない。話をしたことも無いどころか、向こうは私のことを認識していない可能性が高いのに、 突然話しかけるなんてことは難易度が高すぎる。
「こんにちは伊作先輩。え? 誰って? やだなー私ですよ。すでに私先輩のこと100回も助けてるのにー!」とか話しかけたら間違いなく目を合わせてはいけない人のブラックリストに入れられる。
普通にこんにちはって言っても、誰? ってなるだろうし。
接点と言う接点も無いのだ。つまり同じ学校に通っていることだけが、私と伊作先輩の接点だ。
中学三年生のときに、家の近くと言う理由でこの学校に決めたことを感謝する。
それにしても接点はそれだけなのだから、話しかけるにしても話しかける用事事態無いのだ。
「ハンカチ落としましたよ」とか自分のハンカチを拾って先輩に話しかけてみてはどうだろう。
その名も一昔前のナンパ作戦。......無理だな。
うんうん唸りながらどうやって伊作先輩にアタックしようかと考えるが、どうもいい案が出てくる様子は無い。
......もうアタックなんだからアタックすればいいような気がしてきた。
あの日のように、伊作先輩の頭にバレーボールをアタックしてぶちかますというのはどうだろう。
ちゃんと前日が雨で無い日を選んで、渾身の力を込めてアタックすれば、きっと伊作先輩にも気持ちが届くような気がしてきた。 好きです!! って念を込めたバレーボールでアタックすれば、伊作先輩の頭にバレーボールがめり込んだ瞬間に私の気持ちが届いたりとかそんなこと...! ...ないな。
フィクションでも無理があるなこの設定。そう思いながら足を進める。私が今すべきことは都合の良い妄想じゃなくて、課題を提出するということだ。 ジャンケンに負けた所為で友人のプリントまで手に持って、廊下を歩きながら私は貴重な昼休みを消費していた。けど頭だけはフル回転だ。 あ、だけど待てよ。強く頭を打てば先輩はもしかしたら記憶喪失になるかも...そしたら私が彼女だったとか嘘を吹き込んで... 現実味が無い妄想だとはわかりつつも、自分に都合のいい妄想は楽しくてやめられそうに無い。
そして新たに浮かんだ案に、私の意識は完全に飛んでいた。
だから角の向こうから人が来るかもしれないなんて思いもしなかった。

「わっ...!」

何かにぶつかり、反射的に声を上げてから体がぐらっと揺れた。そして、視界に飛び込んできた降りかかってくる白い塊の数々に思わず目を瞑りながら自分の顔をかばう。
そうすれば自分の身を支えることができず、気づいた時には私は尻餅をついていた。

「いたっ...!」

お尻にダイレクトに衝撃を受け、思わず声が出る。

「大丈夫?!」
「あ、大丈夫です。すいません...」

慌てる耳慣れない声が聞こえ、私は情けなさを誤魔化すような笑みを浮かた。
誰かとぶつかったらしい。その情報しか頭に無い状態で顔を上げ、固まった。

「ごめん! どこか怪我してない?!」

こちらを心配そうに覗き込むのは、先ほどまで私が考えていた人だった。
つまり、私が脳内では100回は話しかけている人  伊作先輩だ。
瞬間、頭の中が真っ白になった。それでも本能的に先輩から顔を背け、先輩の問いかけに答えた。

「...だっ! 大丈夫ですっ!!」

自分で思っていたよりも大きな声が出てしまった。というか、腹の底から大きな声を上げてしまい、私の声は廊下中に響き渡った。 どこの訓練兵だよ!! 自分で突っ込みながらも、居た堪れない気持ちにカッと顔が一瞬で熱くなった。
救いはここがあまり人が通らない廊下であるということと、本当の訓練兵みたいに「大丈夫であります!!」とか叫ばなかったことだ。

「そんなに元気なら大丈夫そうだね。よかったよ」

少し笑っているような含みのある声に、それが事実であるのかどうか確認したくて、私は恐る恐る背けた顔を先輩のほうに向けた。 すると私が予想していた通り、伊作先輩の目は細められていた。その笑みは間違いなく私に向けられている。そう思うと、嬉しくなった。 さっきまで伊作先輩の世界に私は居なかったはずだ。だけど今、伊作先輩は私と話している。そのことが嬉しくて、思わず顔が緩んだ。
すると、笑みを浮かべていた先輩の顔が一瞬固まった。
そして徐々に顔が赤くなったと思うと、急に顔を背けてしまった。 伊作先輩の突然の行動に、私の頭は混乱した。どうすればいいのかわからないまま先輩の真っ赤に染まった耳を見つめる。
そして思いついた。私が伊作先輩のことを好きになったときのようなことが今起きているのではないかと。
まさか私の微笑みで先輩の赤い実がはじけたんじゃ......!! そんな馬鹿な、とは思いつつも、期待に一瞬にして胸が膨らんだ。

「それじゃ、あの、立とうか」
「...え?」

脈絡の無い伊作先輩の言葉の意味がわからなくて、私は間抜けに口をあけた。

「いや、...あの、立とうか」

先輩は誤魔化すように頬をかきながら視線をせわしなくきょろきょろさせて同じことを繰り返す。 その顔は相変わらず赤い。だけど、先ほどのように視線がこちらに来ることは無い。
不審な先輩の行動に、私は眉をわずかにひそめる。何で急に”立とうか”になるんだろう。赤い実がはじけたのなら行動に示さないと相手には通じませんよ! 自分のことは棚に上げて、私は伊作先輩が勇気を出すのを待った。そして私がいつまで経っても立とうとしないので、先輩はついに覚悟をきめたらしい。
口元を隠すように手を添えて、ぼそぼそと喋った。

「......見えてるよ」
「え?」

だけど想像とは違う言葉に、私の脳はその言葉の意味を考えようとはしなかった。
見えてるってなにがじゃい! 先輩が思い通りの言葉を言ってくれないのでこちらも業を煮やす気持ちで、先輩を見つめる。

「....その、」

言いにくそうに口ごもる先輩は、相変わらず顔を赤くさせたまま、落ち着かないように視線を動かしている。 私はそんな伊作先輩の横顔をガン見して、続きを急かした。私の急かす態度が効いたのか、先輩の肩が上がったのを見て、息を吸い込んだのがわかった。

「......パンツ」
「...」
「...」
「...ギャアッ!! すっ、すいません!!」

一拍置いて、ようやく先輩が何を言いたかったのかわかった。パンツ? パンツがなんじゃい。 と思いながら自分のそこを見てみれば、 尻餅をついた所為で両膝を立てていたので、そこが丸見えだった。
慌てて足を横に投げ出して隠すも時既に遅し、だ。
思わず痛みも忘れてすばやく立ち上がると、周りに転がるたくさんのトイレットペーパーには気づいたものの、早くこの場から去りたくて、私は急いで逃げた。

「すいません!」

ぶつかってしまったことに、トイレットペーパーを拾わないことに、先輩が私のことを好きになったんじゃないかなんて馬鹿みたいな勘違いをして。 ”すいません”の中には、それら全てが含まれていた。
後ろから何か聞こえてくるのも無視して、私はくるっとその場で反転して、無我夢中で来た道を引き返した。 鼻血が出そうなほど頭に血が上っている。だけど体はしっかりと動いてくれた。それだけが救いだ。
だってこの場合、逃げる以外の選択肢が見つからない!!






(20130511)続くかも...