スカーレット
「おい」 「...」 「おい」 「...」 「...」 「...」 ようやく諦めたか。名前を呼ぶでもなく、ただただ「おい」と呼びかけられても答える気にはなれない。 だからと言って「おいじゃなくて名前で呼べ!」とか啖呵を切ることも出来ない。なので、地味に無視をするという方法で私は抗議をしたのだ。 そもそも親しい間柄ならそういう呼びかけでも許されるかもしれないが、生憎と私たちはそんな間柄じゃない。 黙りこくった背後の人物は、そのままこの教室を去っていくのだと思った。だけど違った。 「おい、ブス」 ここで私が振り返ってしまったのは、その言葉がまさか私に向けられているのか? ということを確認するためだ。 だってまさかブスなんて言われるなんて思わなかったからだ。 だけど私のこの反応が間違っていたのは後になってわかる。ここでの正しい反応と言うのは、そのまま無視をするということだったのだ。 このときの私はただただ驚いて、目を丸くしていただけだ。そんな私の表情を見て、青峰くんはニヤッと笑った。 なんて邪悪な笑い方なんだ。 そのときの私はブスと言われたことによるショックで、怒ることも忘れてそんなことしか考えられなかった。 . . . それからというもの、青峰くんにはときどき嫌がらせのようなちょっかいを受けるはめになってしまった。 いや、ときどきというには頻度が多すぎる。例えばどのような嫌がらせを受けるのかと言うと... 「おいブス、ここの問題わかんねぇ」 そうやって課題を教えさされたり... 「おいブス、これ見てみろ。お前の3倍くらいおっきいだろ」 そうやってビキニ姿の女の人を強制的に見せられたり... 「おいブス、それくれ」 そうやって飲んでいたジュースを取り上げられたり... 「おいブス、アドレス教えろ」 そうやって無理やりアドレスを交換させられたり... 日々の中で地味に嫌がらせを受けることになってしまったのだ。”ブス”という呼び名に、最初はクラス中の視線が向けられたものだが、 今ではそんなこともない。いつものこととして、私が青峰くんにブスと言われているのが受け入れられているのだ。 もう感覚が麻痺してしまっている。友人も青峰(思い出しているとむかむかしてくるので、もう丁寧に青峰くんと呼ぶのもやめてやる! 呼び捨てでいいわ! あのアホ!) が「あれ、ブスはどこ行った?」と言っただけで、私に「青峰くんが呼んでたよー」と言ってくるのだ。 もういつのまにか私の名前のように馴染んでしまっているのだ。確かに私の名前は山田彩なんだけど、ミドルネームみたいに山田・ブス・彩みたいなことになっている。 名前の一部に侵食してこようとする勢いで私に馴染んできてしまっているのだ。ブスが私で、私がブスで?? 何で私がこんな目に...そう悲観に暮れてしまうのもしょうがないと思う。 あの時、ブスと言われて振り向かなければこんなことには...後悔したのは一度だけではない。 「そのブスってやめ...て、ください」 強気で話しかけたというのに、鋭すぎる眼光に睨まれてしまうと語尾は勢いが削がれてしまった。 そんな自分をビンタしてやりたい気分になりながら、鋭い眼光に睨まれると何も出来ない。 「あ? 何でだよ」 「何でって...そりゃ嫌だから...」 「嫌なのか?」 「嫌に決まってるだろ! 馬鹿か!!」とは思っても口にすることは出来ない。 代わりに激しく頷いて答えると、青峰は意外そうに目を瞬いて、「ふーん」とだけ呟いた。いや、こっちの方が意外なんですけど。まさかブスと呼ばれていることを私が喜んでいるとでも思っていたのか。 だけどその意外そうな感じは少しだけ、ほんの少しだけ嫌な予感として予想が出来ていた。 というのも私に「ブス」と呼びかけるときに全然悪気がなさそうというか、普通に名前を呼ぶみたいなナチュラルな感じだったからだ。 そしてこれはこの間の出来事なのだが、青峰が私のことをブスと呼ぶことで、別のクラス男子が私のことをブスと呼んだのだ。 その男子は中学の時に何度が同じクラスになったことがあるので、そこそこの仲だった。なので、あちらも気軽に私がブスと呼ばれているということをからかってきたのだ。 知らない仲じゃないから許されると思ったのだろう。実際彼は、それが許されるような人柄をしていたので、私としても殺意が芽生えるようなこともなかった。 「もう! それはいいよ。何であんたにまで言われなきゃなんないの」と、怒った顔をして軽く流すつもりだったのだ。 以前に「いま私すごく不名誉なあだ名をつけられてるんだけど」という話をネタとして話していたので、すでにそのことについては話していたのだ。 だけどそれら全てを知るはずがない青峰は、私が知らない男子に「ブス」と呼びかけられるのを見るや否や眉根を寄せ、凶悪な顔つきになった。 「あぁ? 誰だお前。誰に向かってそう言ってんだ?」 あろうことかブスと呼ばれる現況を作った青峰がキレたのだ。 いやいや、お前こそ何言ってんだ! この状況を作ったのは誰だ! そのときはそんな真っ当なツッコミを入れることすらままならなかった。あまりにも衝撃的過ぎて。 ぽかんと口を開けている私を一瞥したかと思うと、青峰のでかい手が私の頭の上に置かれた。 「ブスって言っていいのはオレだけだ」 そう言った青峰はやたら機嫌が悪そうな顔をしている。あれは何人か殺したことがある目だ。 そんな目で睨まれてしまった彼は、顔色を悪くしていた。全然気にする必要ないから、と言葉をかけていると背後からやってきた青峰に首根っこを掴まれて。強制的に教室に連れて行かれてしまった。 そういうエピソードからも、青峰はもしかして全然悪気がないのだろうか? と思うようになったのだ。一応私のことをかばってくれたらしいし? だけどその感覚自体を理解することができない。青峰的には、ブスというのは私の愛称みたいなものなのだろうか? ...まあ、そうだとしても全然嬉しくないのだけど。むしろ遠慮したいところなのだけど。 多分青峰は、私のことをおもちゃにしたいのだと思う。 なんで目を付けられてしまったのかはわからないけど、子供がおもちゃで遊ぶように私で遊びたいのだと思う。 だから今のこの状況は、私を混乱させるには十分だった。 話は1時間ほど前に遡る。 私には好きな人が居た。 好きだけど、別に告白しようだとかは考えたことがなかった。そのくせ彼が誰かのものじゃないことに安堵していた。 だけどそれも数時間前のことで、たまたま彼が女の子と手を繋いで帰っているところを見てしまったことで私は自分が失恋してしまったことを知った。 自分でも淡い思いだと思っていたのに、実際はすごく胸が痛かった。 日直の仕事を終えてからも放課後の人の居ない教室でぼんやりしていると、自然と涙が零れてしまい、淡いと思っていた思いが 実は私の胸に結構なウエイトを占めていたことに気づいた。気づいたからと言って何かすることも出来ないのだけど。 いや、実際には玉砕前提で行動を起こす、という方法もあるのだけどそれをする気にはなれなかった。 つまり私には”勇気”というやつが足りなかったのだ。 教室で自分の席に座って突っ伏して泣いていると、教室のドアが開けられた音が聞こえた。反射的に身を硬くする。 「お前まだ居たのかよ」 その声を聞いただけで教室に入ってきたのが青峰であるとわかった。 こんな場面を見られれば弱っている今の状態に追い討ちを掛けられることになると思い、体が強張った。 きっと「ブスが余計ブスじゃねぇか」もしくは「ブスは泣いてもブスだな」というような類の言葉を投げつけられることになると思うのだ。そうすればいつもは このやろう!! って思うくらいの余裕があるものの、今はそんな余裕皆無だ。抉られた傷跡に塩を刷り込むようなことをされれば、 私もどうなるかわからない。だから断固として顔は上げないと決意し、青峰の存在を無視して机の上で固まった。 出来るだけ呼吸を浅くして、泣いていることを知られないようにする。あわよくば私は寝ていると思って出て行ってくれることを祈る。 息を殺している間も、青峰が徐々に近づいているのがわかった。 「チッ...寝てんのか」 私が寝ていることに不満を覚えたらしい青峰は、ガラ悪く舌打ちをしたと思うと、そのまま教室を出て行くと思いきや... 私の前の席の椅子を引いて、そこに座ったようだった。音と気配を辿ることで机に突っ伏している私の、ちょうど頭上に青峰が居ることを感じた。 何だよこの人、下校時刻はとっくに過ぎてるのに早く帰れ!! そう願うものの一向に青峰は立ちあがる気配が無い。こうなると私が起きるまで待っているつもりなのかもしれない。 一体何のために? そう思うけど、私は寝ているので尋ねることもできない。 私が泣いていると気づくと、青峰は何で泣いているんだ、ということをきっと尋ねるのだと思う。 それに私が本当のことを言った場合、どういう反応が返って来るだろう。 きっと「ブスがンなもんしてんな」とか、好きな人が居るって言った時点で言われそうだ。 何でそんな仕打ちを受けなくちゃいけないんだ...。想像の中の青峰の言葉に勝手に傷ついていると、勝手に涙が溢れてくるのを再開した。 自分では制御できずに居ると、青峰にばれないために息を殺しているのに徐々にしゃくりあげてしまう。 そんな私の異変に気づかないわけがない青峰が怪訝に声をかけてきたのだが、私は断固として顔を上げなかった。 「おい?」 「...」 無言を貫き通しながらも、涙をとめることができずにいると焦れたような青峰が私の頭を両手で掴み、強制的に顔を上げ差されてしまった。 そのときには抵抗する気力も私にはなくなっていた。これから罵られるのだと思うと、余計に涙が溢れてきた。 青峰は、好きで私の顔を上げたくせに、涙でぐっちゃぐちゃになった私の顔を見るや「うおっ」と驚きの声を上げた。 「...お前、泣いてんのかよ」 少しの間青峰は何を言えばいいのかわからない様子で黙り込んだかと思えば、見たらすぐにわかることを改めて尋ねてきた。 私の頭の中の青峰ならここで罵り言葉の一つを浴びせてきてもおかしくはないけど、現実の青峰は曇った視界の向こうで何だか困っているように見える。 青峰が困っているところなんて見たことがない私は、ちょっとだけ良い気分になった。 「...何で泣いてんだよ」 気まずげに青峰がそう尋ねてきたころには、私の頭を挟んでいた両手は引っ込められていた。 だけどそんなことはどうでもいい。青峰の質問にも答える義務は無い。私は無言を貫くことで、質問を無視した。 その間も目からぽろぽろ涙は零れ続けている。青峰が気まずい思いをしているとかそんなことはどうでもいいし、私が何でないているのかについても話すつもりは無い。 だから早く帰ればいいのに。そう思うものの、私はテレパシーを送れるわけではないので、青峰は未だに居座ったままだ。 そうして結構な時間が経ったとき、青峰が突然動いた。 机の向こう側から手を伸ばしてきて、私の頭に置いたのだ。 大きな手が頭の上に乗っているのを感じると、青峰が「あー」と声を上げながら私の頭をぽんぽんと二度ほど優しく叩いた。 何か優しい言葉をかけられたわけじゃない。だけど頭を撫でられたことで、私の中の涙センサーにスイッチが入ってしまったようで、ますます涙が溢れてしまった。 「なっ、なんで余計に泣いてンだよ...」 「...や、やさしいから...ずっ...」 上擦った声を上げる青峰に、私は不意をつかれた優しさに触れてしまい、普通に答えてしまった。その間ももちろん涙は溢れ続けている。 私の聞き取りづら返答を聞いた青峰は、そのまま何度か私の頭を優しく叩いた。いつもは腹の立つことばかりしかしないのに、 こんなときにこんなことをするなんて...。私の涙腺は緩みっぱなしで、蛇口がバカになってしまったみたいに溢れ続けている。 そのまま数十分経った時には、ようやく私の涙も止まりかけていた。この状態に回復するまで私の頭に乗ったままになっていた大きな手は、離れていってしまった。 泣きすぎて放心状態のように椅子に座っていると、目の前の青峰はまたちょっと困ったような顔をした。 お礼を言わなきゃいけない。ようやくそういうことを考えることが出来るまでに回復した頃、突然教室に差し込んでいた西日が遮られた。 影に飲み込まれると思ったときには、唇に何かが触れた後だった。 「...え?」 唯一の反応には見向きもしないで、青峰は立ち上がると私の鞄を机から持ちあげて私に投げつけてきた。 「帰るぞ」 まるで何事も無かったかのような反応に、私は今のは私の夢幻だったのかと帰り道ずっと考えていた。 泣きすぎて頭がぼんやりしてたし、それが原因で見た幻だろう。そうに決まってる。 何よりも日頃からブスブス言ってる女に対してそんなことをするとは考えにくい。 「それじゃ、今日はありがとうございました」 分かれ道になって私がそういうと、青峰は頭をかきながら視線をどこかにさまよわせている。 借りを作ってしまう形になってしまったものの、今はその部分を都合よく忘れて家に帰りたい。 「おう」一応返事のようなものも返ってきたので、私は家に帰るためにその場で踵を返した。 だけど三歩ほど歩いたところで背後から肩を掴まれてしまい、またも足を止める羽目になってしまった。 背後を振り返るとさっきさようならしたはずの青峰が居た。 「お前! 何も言わねェのかよ」 「え? 何を?」 「はあ?」 「ありえねぇ」青峰はこいつ頭おかしいんじゃねえの? みたいな反応を返してきた。そんなことを言われても私には何のことだか さっぱりなのだからしょうがない。だけど青峰は私がわからないという反応を示したことがありえないらしい。 頭おかしいんじゃねえの? と思われるのは気持ちの良いものではないので、私は考えることにした。 そこで思い浮かんだのはさっきの醜態だ。というかそれしか浮かばない。 一応お礼を言ったのにそれでは足りないということだろうか。...なんて欲深い男だ青峰!! 「さっきは本当にありがとうございました......また今度お礼を献上します」 「はあ?!」 渋々そう言うと、今度は突然ガッと顎を掴まれた。正確に言うと青峰のでっかい手で顎から頬にかけて掴まれてしまい、強制的を唇がタコのように出された。 だいぶ間抜けなことになっているのはわかっているけど何か怒ってるっぽい青峰は刺激しないほうがいいと思い、我慢することにした。 「そうじゃねえだろ」 「じゃあにゃんのこてょれすか(じゃあ何のことですか)」 口を自由に動かすことができないので、口に出すとちゃんとした言葉になってなかったがそれでも青峰には通じたらしい。 一瞬黙り込んだと思うと、青峰が手を離した。そこで開放された私は反射的に頬を撫でながらずいぶんと上にある青峰の顔を見上げた。 「教室でのことだろ」 「...」 「...」 「え? ...あ! え? けどあれってまぼろし的なものじゃ...」 「んなわけねぇだろ!」 一瞬何のことを言われているのかわからず、間が開いてしまった。そしてようやく心当たりを思い出してぶつぶつ呟いていると、青峰からのツッコミが入った。 私が何のことを言っているのかわかっている様子だし、つまりあれはまぼろしでは無かったということか...! けどそうなってくると気になってくるのは青峰が何でそんなことをしたのかと言うことだ。 「...えっと、あれは一体なんですか?」 まるで英語の教科書に出てくるような質問に、青峰は眉を寄せて不機嫌そうな顔をした。 「そんなのも知らねえのかよ、キスだろ」 「い、いや、そういう意味じゃなくて」 じゃあどういう意味だよ。そう視線で問いかけられ、私はぐっと言葉に詰まりながらも声を発した。 「その、どういう意味でああいうことを...」 そうだ、私が聞きたいところはここだ! だって普段からブスブス言ってる奴に対してあんなことするなんて意味がわからない! 答えを待つ私に、青峰は一瞬黙り込んでからこちらを見下ろし、ますます不機嫌な表情を浮かべる。間違いなくちびっ子が見たらおしっこをちびってしまうだろう。 「考えりゃわかんだろ」 ちびっ子ではないことと、日常的にこういう青峰の表情を見慣れているということもあり、私がちびることはなかったけどびびるには十分だった。 「いや、わかんねえっす!」とすぐさま答えたいところだけどそんなことを言えるわけも無く、私は何も言葉を返せなかった。 そんな私を青峰は気にしていない様子で踵を返した。 「じゃあな」 そう一言だけ残して去っていく後姿を私は唖然と見送った。 ある意味このびっくりな出来事があったおかげで、私は自分がそういえば失恋をしたのだということを忘れてしまっていた。 だけど代わりに”考えりゃわかんだろ”の意味について悩まされることになったのは言うまでもない。 |