「これは?」

柄が緑色のモップは見覚えの無いものだった。 隣に居た後輩に尋ねてみると、思い出したように「あ!」と声を上げる。

「モップが壊れたんで空手部に借りてきたんです」

そうして慌てて返してきます、とも言った後輩の言葉を遮り、緑色の柄に手を伸ばす。
後輩達はこれから後片付けを行うのだから、これは俺が返してこようと思ったのだ。
そのまま思っていることを伝えれば、後輩は最初は自分が返してくると言ったが、最後には俺が押し切る形になった。

モップを肩に担いで運びながら、そういえば年季の入ったモップは、自分が一年生の頃からすでに折れそうだったと考える。 いつからあったのかわからないものの、相当な年月を過ごしていそうなモップは、どうしてそうなったのかわからないが手よりも足に近い部分がぺこっとへっこんでいた。 壊れたということは、その部分から折れたということだろう。そんなことが想像できるくらいには、そのモップは今にも折れてしまいそうな雰囲気を漂わせていた。 自分達が一年生の頃には、まだ壊れてしまうようなことがなかったが、今年はとうとう耐え切れなかったらしい。
そして急遽、空手部からモップを借りてきたというのが今日なのだろう。
空手部のモップは最近買い替えたらしく、どこも壊れそうな雰囲気など無い。良く見てみれば柄の下の部分には、空手部や柔道部などが使っている建物の名前が太い油性マジックで書かれてあった。 やがて見えたその建物は、その部活に所属していなければあまり立ち入ることがない。
中から電気の光が漏れ出ているのを確認して、中にまだ人が居ることを知る。
空手部に借りたといっていたが、きっと柔道部と共通で使っている備品だろう。なので、もし空手部がいないようなことがあっても、 柔道部に渡して伝言を頼めばいいか、そんなことを考えながら建物の中が見えるように、開かれたままの非常口に周る。 音があまりしないことからも、中にはすでに数えるほどしか人が居ないのだろうと思いながら中を覗き込んでみると、 一人の姿を確認することができた。
こちらにはちょうど背を向けた形で、壁に向かって拳を突き出している。

「...ニ、三」

数を数えながら、所謂型というものをしているのだろうということはわかるが、空手について詳しくないのでよくわからない。 だけどその雰囲気には、目を奪われてしまう何かがあった。
流れるような動きで次々に技を決める姿に、かけるべくして用意していたはずの言葉を見失った。
それが上手いのか下手なのか、空手に詳しくないのでわからないが、それでも目がその人から離れない。
胴着が擦れる音、畳の上を滑る足の音、空気を裂く音などが静かな道場の中に響いている。自然と息を詰めてしまいながら、その姿を見つめた。 動くたびに一つにまとめている髪が揺れ、まるで生きてるみたいだと思っていると、突然その人がこちらを振り返った。と言っても、 俺の視線に気づいたからというわけではなく、型の流れで振り返ったようだった。
瞬間、真面目な表情だったのが驚いたものに変化した。みるみるうちに目がまんまるになっていくのを眺めながら、 さっきまでの雰囲気とがらりと印象が変わったことに驚いた。

「あれ、」

重心を低くし、構えていた拳を解くと、澄んだ声が聞こえた。
それからその人は何を言えばいいのかわからないのか、口を開いたもののまた閉じた。それ確認して、ようやく見失ったはずの言葉を思い出すことが出来た。

「弓道部なんですけど、借りてたモップを返しに来ました」

相手が年上なのか年下なのかわからないので、一応敬語で話しかける。

「そうなんだ」

納得いったように少し笑みを浮かべながらの言葉は、きっと三年生であることが予想できた。 何のためらいも無い気安い口調は、年上のものだ。
こちらに歩いてくる足元は、裸足だった。この道場は半分畳が敷き詰められているので、その上を歩いてくれば足が畳を擦る軽い音が聞こえる。

「すみません、遅くなってしまって」

こちらに伸ばしてくる手にモップを渡しながら言えば、フッと軽く笑う音が聞こえた。

「大丈夫」

モップを渡すというここにきた目的は叶えることができたというのに、どうしてかここから立ち去る気にはなれず、 そのまま立ち尽くしていると不思議そうな顔を返された。
当然だ。俺とこの人は顔見知りと言うことも無いのだから、何か共通の話題というものも思いつかない。 だけど足がこの場から動くのを拒否するみたいに立ち去ることはできずにいると、思いがけず向こうから声をかけられた。

「モップ折れたのってほんと?」

興味があるように話しかけられた。これが先輩との初めての会話だった。

.
.
.

「モップは俺が持って行くよ」
「すいません」恐縮するように頭を下げる後輩からモップを受け取る。
自然と言葉が口から出た。後輩の「ラッキー」とは思いつつも、何故俺がこんな面倒なことを引き受けたのか知りたそうな視線を受けながら、 それに答える術を俺は持っていなかった。自分のことなのに、自分が何故わざわざ面倒なことを引き受けたのかわからなかった。 昨日と同じ道を辿りながら考えるのは昨日のことだった。

「あ、昨日の」

昨日と同じように非常口から顔を覗かせると、ちょうどこちらを見ていたらしい先輩が声を上げた。 そのままこちらに向かって歩いてくるので、頭を下げながら「こんにちは」と挨拶した。

「モップ返しに来てくれたんだ」
「はい」

頷いて返しつつも、昨日と同じようにして手に持っているモップを渡しながら頭を下げた。

「ありがとうございました」
「はい」

手渡したモップはそれなりに重いものなので、受け取られると急に腕が軽くなった。 段差がある所為で、俺が見上げる形になる。ちょうど照明の光を先輩が背負っている形になっているので、俺は先輩の影の中に入り込んでいた。

「まだ帰らないんですか?」
「うん。あとちょっと」

昨日と同じように建物の中には先輩一人だけが居るようだった。
今日も居残っていたなんて、真面目なのか、それともよっぽど空手が好きなのか。 頭の中に昨日見た映像が勝手に流れた。
モップを手持ち無沙汰に弄んでいる先輩に視線を戻し、思い切って声をかけた。

「あの、」
「うん?」

モップからこちらに視線が戻ってくる。それを見返しながら言葉の続きを口にした。

「見ててもいいですか?」

...
頭に昨日の映像が流れたことによって、もう一度その姿を見たいと思ってしまった。 開け放たれている扉から中に入ることはせず、先輩を見ていた。
きっと先輩は何で俺が急にそんなことを言い出したのかと思っているだろう。なにせ昨日初めて対面した相手だ。 俺が反対の立場でも訝しく思っていただろう。空手好き、というわけでもないのは、自分が今空手部に所属していないことで知られていると思う。 それに空手に興味があるのなら、それなりの熱のようなものが出てくるはずだが、俺にはそれが無い。
だけど俺はただ、自分の欲求に従っただけだ。
いまだ動き続ける姿を見つめながら、拳が空を切り裂く音が心地いいと思った。


「まだ帰らないの?」
額に浮いた汗を拭う素振りをしながら問いかけられる。
それはつまり邪魔だということだろうか。一瞬不安が胸を掠めたが、純粋な疑問だけを浮かべている瞳に安堵する。

「一緒に...」

咄嗟に出た言葉は飲み込み、代わりに「はい」という当たり障りの無い言葉だけを返した。

.
.
.

ここ最近、モップを返しに行くのは俺が引き受けていたので、自然とこの役目は俺のものになっていた。
いつもの道を歩きながら、目指した建物にはいつも通り光が漏れている。
中を覗き込むと、来訪を予期していた様子で「あ、来た」と言われた。そして唇に弧を描いてこちらにやってくる。 最初は訝しげな表情を返されるだけだったけれど、ここに来る目的がはっきりしている今となってはこうして笑いかけられるようになった。 自然と同じように笑いを返しながら、いつものようにモップを渡す。

「ありがとうございました」
「はい」

いつも通りのやり取り。段差がある所為で、本来の身長差はどれくらいのものかわからない。 いつだって俺は見上げるほうで、先輩は俺を少し高い位置から見下ろしている。
先輩とはここでしか会ったことがない。そもそも学年が違うのだから、接点が無ければ会うことも無かっただろう。 それが”モップが壊れた”という些細なことがきっかけで、今に繋がっている。だけど、それも今日までだ。

「モップ、明日来るそうです」
「そうなんだ」

どんな感情が浮かぶのか、それを確認するために目を凝らしていると少し驚いたような表情を見ることができた。
その中に期待した感情を見つけることはできず、少し肩を落としてから気づいた。
俺はどんな反応を返されるのを望んでいたのか?
自分の感情に戸惑っていると、モップを肩に乗せた先輩が言った。

「今度は折っちゃわないようにしないとね」

相槌は首を上下に振ることによって返した。「普通に使ってたら折れることなんて無いのに謎だよね」 楽しそうに目を細めながらそう喋る姿は初めて見た。思えばここに通うようになって一週間ほどになるが、こんな風な会話は初めてだった。 先輩からこうして視線を返されることもあまり無い。思い返してみれば一方的に俺が見ている、という状態ばかりだった。 からりと笑う始めて見る先輩の姿に、喉の奥のほうから勝手に言葉が溢れてきた。

「明日も来ていいですか」

「え?」何の脈絡も無い言葉だったからか、それとも驚くような言葉だったからか、先輩は今まで細めていた目をパッと開いた。 真っ直ぐに向けられる視線に怖気づきそうな心が、今の衝動に任せた発言をなかったことにしようとする言葉を紡ぎそうになる。
だけどそれを唇を引き結ぶことで耐えた。代わりに未だに驚いた表情の先輩に答えを促すように見つめる。耳のところで激しい鼓動の音が聞こえる。
やはり言わなければ良かったかもしれない。だけどそうなってくると、明日からは接点がなくなってしまうことになる。 だからこそ、ここで接点を作りたい。
長いように感じる沈黙が続いてから、ようやく先輩が口を開いた。

「うん」

了承してくれた。それだけで俺の胸に熱が灯ったようだった。
ホッと息を吐き出してから自分が緊張していたことを知った。滞っていた血液の流れが、急に再開されたように血液が体中を駆け巡ったようだった。 そうなってようやく気づく。
俺は多分、





世界が変わる



(20131019)