私は別に虫が好きとか言うわけではない。
むしろ苦手と言ってもいいくらいだ。それなのに何故かくのたま長屋に虫が出たときには私がどうにかするということになってしまった。 その原因というのも何となくわかっている。
他の子たちのように虫が出たときに私は騒がないのだ。というよりも驚くと騒げない。
一様に悲鳴を上げながら虫から距離を取る友人たちと比べ、私は驚いても声がでず、咄嗟に動くことも出来ないのだ。 その上、感情があまり顔に表れないことも手伝って、私は“虫が大丈夫な人”という認識をされてしまうようになったのだ。 本当は全然大丈夫じゃないのに頼られてしまうと断ることも出来ず、内心びくつきながらも「遠くに捨ててきて!!」という 友人たちの言葉の通り動いてしまう。
そういうことを五年ほど積み重ねていると、虫が出たときには「山田彩に言え」という暗黙の了解みたいなものが出来上がってしまっていた。
今ではくのたま長屋に虫が出たときには、先輩にも後輩にも呼ばれるまでになってしまった。
なので、「キャー!!」という断末魔のような声が聞こえたときから予感はしていた。 部屋で本を読んでいた私の耳は、次に床を蹴る足音を拾い上げた。いつもは音を立てないよう訓練をしていることもあり、 音が聞こえるということはあまり無いのに今日は違う。とても焦っているのがその足音の乱れからも想像できた。 その予想通り、いつもは一応形だけでも部屋の戸を開けられる前には声をかけられるというのに、今日はそれもなしに部屋の戸が開かれた。
パァンッ!
勢いをつけて開けられた戸は、破裂音にも似た音を立てながら人がやってきたことを知らせた。

「虫が出た!!」



本を読んでいるというのにお構いなしに手をひっぱられ、強制的に目的である部屋へと連れてこられた。 本当は私だって嫌なのだけど今更それを言うこともできない。五年をかけて私は虫取り係りになってしまったのだから...。
部屋の前には何人かのくのたまがいて、中を覗き込んでいた。 その様子からも部屋の中にいるものが大物かもしれないということを予感させた。
油虫だったらどうしよう…。
進もうとはしない足を無理やり動かし、どきどきしながら部屋の中を覗き込めば虫の動向を見張っていたと思われる友人が指をさしてどこにそれがいるのかを教えてくれた。 指の先には大きな蛾がいた。
油虫ではなかったことにとりあえずはホッとした。
そうして中に強制的に押し込まれ、私はしょうがないので蛾を捕獲することにした。 まだ今日はマシだ。蛾なら蝶に見えないこともない。
普通のものよりも大きいということはちょっと気になるものの、そこは敢えて気にしないようにしながら私は部屋の中に足を進めた。 壁にくっついた状態で身動きをしない蛾は、蝶とは違って羽が動くことが無い。羽の模様をこちらに見せびらかしているかのように壁と並行に羽を広げている。 その丸見えの模様はとても不気味だ。蛾くらいいつもなら皆自分で追い出しただろうに、今回私がかり出されたのは間違いなくこの不気味な模様と大きさが原因だろう。 本か何かを使って部屋から追い出そうと考え、机の辺りを物色するように見る。

「さっき生物委員会が何か探してたよ。...多分、それじゃないかな?」

先ほどまでは居なかった友人の言葉によって、私の計画は潰れた。



蛾ぐらいどうってことはない。この五年いろいろな虫たちを相手にしてきたのだ。いくら模様が不気味だろうが、少し他のものよりも大きかろうが、蛾は蛾だ。 暗示のおかげもあり、私は無事に蛾を捕まえることに成功した。
左右の羽を掴まれているというのに蛾は暴れることもなく、大人しくされるがままだ。 もしかして死んでるんじゃ…? と疑問に思ったが、足がうようよと不気味に動いているのが見えてしまったので大丈夫なようだ。 そうして無事に蛾を捕まえることが出来た私は、次に生物委員を探すことにした。
虫を捕獲してから生物委員を探す、という一連の流れもすでに何度も経験があるので慣れたものだ。 だが、探すまでもなく忍たま長屋の敷地に侵入すると同時に探していたぼさぼさ頭を見つけた。 どきりと一瞬だけ心臓が跳ねたような気がしたが、それには気づかないふりをしてその後姿を改めて見つめる。
特徴的なその髪をしている彼は、間違いなく生物委員に所属している。それを証明するように、手には虫取り網を持っている。

「竹谷くん」

私の呼びかけに、今まできょろきょろと何かを探している素振りをしていた顔が振り返った。
その目が私を認識し、次に私が両手で持っているものを認識したのは、彼の一連の表情の変化でわかった。 笑顔だったのが突如、厳しい表情になったのだ。
私と違って竹谷くんの表情はとてもよく動き、とてもわかりやすい。だけど何故そうまで怖い顔をしたのかはわからず、少し戸惑ってしまう。 もしかしたら持ち方が悪かったのだろうか? 私は蛾について詳しくないので、正しい掴み方を知らないので出来るだけ触れる面積が少ない方法――左右の羽を摘む――で捕らえていたのだけれど、 この掴み方はよくなかったのかもしれない。

「それ!」

突然手に持っていた網を放り投げて私のところまで走ってきた竹谷くんの行動と剣幕に、私は思わず半歩後ろに下がった。
そうして半ば奪われるようにして、手の中で大人しくしていた蛾を持っていかれた。 突飛ともいえる竹谷くんの行動に、今度は私が驚く番だった。

「手、何もなってないか?!」
「...え?」

状況が飲み込めずに居る私に、竹谷くんは焦れたように言葉を紡ぐ。

「こいつ毒あって、...それで手、大丈夫か?!」

模様が不気味だとは思っていたが、まさか毒を持っていたは思わなかったので驚きながら手を眺めた。 だけど特に変化は無い。それを伝えると明らかにホッとしたように竹谷くんが笑った。 ここで私も笑い返すのが反応としては正解だったのかもしれないけれど、それよりも竹谷くんの手元が気になった。
正しくは素手で毒があるらしい蛾に触れている竹谷くんの手だ。

「それ、竹谷くんも触ってるよ」
「マジだ!!」

私が指摘してようやく自分も毒を持っているという蛾に触れていたことに気づいたらしい竹谷くんは、驚いた様子で叫んだ。


それから急いで蛾を虫篭の中に入れ、私と竹谷くんは手を洗いに行った。念入りに洗ったほうがいいという竹谷くんの言葉に従い、 何度も手を洗った。冷たい水で爪の中まで洗いながら、私は不意にさっきの竹谷くんの反応を思い出して笑ってしまった。 私に注意しておきながら慌てすぎて自分も素手で触ってしまうのだから、改めて竹谷くんの人の良さを感じる。
そんな私を竹谷くんは「変な奴だな」とか言いながらも、その顔は私と同じように笑っている。
十分すぎるほど手を洗い終え、何となく一緒に歩いていると思い出したように竹谷くんが口火を切った。

「ありがとな」
「あ、うん」

反射的に頷いて返してから、そのお礼が先ほど蛾を捕まえたことについてだと遅れて理解した。

「虫苦手なのにな。いつも助かるよ、俺らはそっち入れねぇから」

なんでもないようにさらりと言われ、つい聞き流してしまいそうになったものの、頭でもう一度言葉を噛み砕いて驚く言葉が含まれていたことに気づいた。

「...え?」
「いや、くのたま長屋には入れないから」

きょとんとした様子で竹谷くんが先ほどの言葉を詳しく説明してくれたが、私が聞きたいのはそこじゃない。 焦れったく思いながら私は疑問に思った点を口にした。

「そうじゃなくて、...私が虫苦手だって何で知ってるの?」

私が何故そんなことを訪ねるのかわからないとでも言いたげな、困惑した表情が返ってくる。 だけど私はそれ以上にきっと困惑している。いつも通り、表情としては現れていないだろうけども。
私が虫を苦手だということは、私以外に知っている人はこの学園には居ないはずなのだ。私の望みとは裏腹に結果的にはそうなったのだから。

「何でって……顔見て」
「…え?」
「え! 何か俺変なこと言った?!」

あまりにも意外な返答に目を瞬かせれば、竹谷くんもまた驚いたように声をあげる。
顔を見て虫が苦手だと思われたことは一度も無い。というのも、自分でもわかるほど顔に感情が表れないからだ。 感情はもちろんある。悲しいとか楽しいとか、嬉しいとか悔しいとか...だけどそれらの感情は人よりも少し弱く、全て私の胸のうちで完結してしまう。
だからこそ今私は虫取り係のようなものをする羽目になっている。
それなのに竹谷くんは、私の顔を見て虫が苦手だということがわかったのだという。 何かまずいことでも言ってしまったのだろうか、とわかりやすく顔に書いている竹谷くんに改めて私が驚いた意味を説明した。

「私あんまり感情が顔に出ないから」
「そうか? 俺はそんなことないと思うけど」

私の言葉に納得いってないように首を傾げる竹谷くんは、何かを考えるように視線を上に向けた。

「昨日とか何かいいことあっただろ?」

昨日、そう言われて思い返してみれば、授業で山本シナ先生に褒められたことに思い至った。 頷いて返せば、竹谷くんは何故か得意げに口角を上げる。

「廊下ですれ違ったとき嬉しそうな顔してたから、あぁ何かいいことあったんだなって思ったんだよ」

顔を見られただけで私の機嫌がわかってしまうというのだから、本当に竹谷くんには私の感情が読めているらしい。俄かには信じがたいが 今ぴたりと言い当てて見せたのが何よりの証拠だ。

「そんなこと言われたの初めてだ...」

顔を見られただけで機嫌を言い当てられたのは初めてなので、驚きながら呟いた。
機嫌が良いとも悪いとも指摘された経験と言うのが私には少ない。もとより他の同級生達と比べると感情の起伏が弱いのだ。 だから表情にも出づらいのだろう。だからこそ、改めて竹谷くんがぴたりと私が虫が苦手と言うことや、機嫌を当てたことに驚いた。

「動物を相手にしてるから表情を読むことが出来るのかな?」

何故言い当てられたのか、不思議に思いながらも彼が他の人と違う点について考えた結果を口にした。
彼は日頃から生物委員としていろいろな虫や動物と接している。それらの生き物は言葉が通じる人同士と比べると機嫌などがわかりづらい。 中でも虫などは特にだ。そんな生き物と接しているからこそ、竹谷くんは観察眼が磨かれたのだろう。 だが、てっきり竹谷くんも同意してくれるものと思っていたのに、彼は何かを考えるように空を仰ぎながらぽつりと呟いた。

「...それ以外にも理由があるかもしれないけど、」
「え、どんな理由?」

それはぜひとも聞いてみたいと思い、食い気味に尋ねる。逸る気持ちを表すように一歩足が前に進めば竹谷くんとの距離がぐっと近くなった。 そうすると空を映していた竹谷くんの目がこちらに向けられることになった。
答えを促すようにじっと見つめると、竹谷くんの目が落ち着き無くきょろきょろと動き、唇が一文字に結ばれた。 そうしてじわじわと赤く染まっていく顔を見て、何となく答えがわかってしまった。私の心臓が早く脈打ち出したのを感じて視線を背けようとした。 だけど一瞬早く、彼の視線に囚われてしまった。そうすると不思議と視線をそらすことが出来ず、ただただ熱のある視線を正面から受け止めるしかない。

「今どきどきしてる?」





柔く暴く







(20151201)リクエストありがとうございましたー!