利吉くんと初めて出会ったのは庭の掃除に借り出されてたときだった。庭に生えている雑草をちぎっては投げ、ちぎっては投げ...そんな気の遠くなる作業をしていたところだった。 「ピンポン」と響いたチャイムに顔を上げれば母がちょうど玄関へと駆けて行くところだった。
そのまましばらく自分には関係ないものと決め込み草むしりをしていたものの、母だが戻ってこないので様子を見に行くことにした。 といっても、一人だけさぼってるんじゃないだろうな?!という気持ちだったので、特に心配をして見に行ったわけではない。 そうして少し玄関が騒がしいことに首を捻りつつ顔を庭先から玄関へと続く道から覗かせると見知らぬ人たちが居た。
その中の小さな男の子がこちらを向いたと思うとぱちりと目が合った。その瞳が徐々に見開かれていくのを私はぼんやりと見つめていたのだけど、 突然大きな声を上げたその子に同じように目を見開くことになった。

!!」

会ったこともない子に名前を呼ばれるというのは、頭を混乱させるには十分なことだった。
まだ小学生の低学年だと思われる子が私向かって走ってきたと思えば、がしっと腰に抱きついてきた。 会ったこともなければ見たことも無い子供にしがみつかれ、私は混乱することしか出来なかった。

「え、あの」

そうして助けを求めたのは母だ。だが母も私と同じように驚いているらしくただただ目を見開いている。 次に助けを求めたのは、後にこの抱きついてきている男の子の両親だと知った。
「よかった...!」心の底から安堵するような呟きながら私の足を拘束する男の子をとてもじゃないが引きはがすことは出来ず、 この子が誰なのかについて知ったのはそこから15分経ってからだった。





正体不明の男の子の名前は利吉くん、というらしい。
隣に新しく越してきたということで挨拶をしにきてくれたところで話は冒頭のようになったということだ。 何故私のことを知っているのか? という問いに、利吉くんは傷ついたようにその整った顔を歪めた。
隣に越してきた男の子は、それから事あるごと...いや、何もなくてもやって来て、すぐに我が家のリビングに溶け込んだ。
おじさんとおばさんは共働きらしく、家には一人で居ることが多いので我が家で預かることが多かったのだ。 小学生にしては気を使うことも出来れば、お世辞だって言える利吉くんの手の平の上で転がされるようにうちの母はあっという間に 利吉くんのファンになった。うちの母を手なずけた利吉くんは、すぐさまうちへの出入りの自由が許された。
自分のことを可愛がる母に利吉くんが懐くのは当然ともいえたが、だけど何故かそれ以上に私に懐いていた。 私が帰ってくれば待ち望んでいたように出迎えてくれるし、ソファに座っていればいつの間にか隣に居る。 自室へと移動するときには何故か当然みたいな顔でついてくる。ある日動物番組を見ていて、アヒルの雛が初めて目に映したものを親だと認識するというのを目にし、それのようだと思った。 所謂刷り込みというやつだが、私は全くそんなことをしたつもりはない。利吉くんはあそこまで盲目的ではないが、それでもやっぱり似ていると感じた。
私は何故こうまで利吉くんに懐かれているのかわからなかったし、それは母も一緒だった。
私が学校から帰ってくるまでは母と過ごしているというのに、私のほうに懐いているのだから納得いかないのだろう。 だけど実際、何故か私に懐いてくれているのだ。





「利吉くんはさー、何で私のこと知ってたの?」

あの日の謎は未だ解けぬままだったので、私は思い切って尋ねてみた。この質問をしたことによって利吉くんがどういう反応をしたのかもちろん忘れているわけではないけれど、 好奇心には抗えなかった。
二人揃って座っているソファの上で、私は手にクッキーを持ちながら質問した。利吉くんは先ほどから私がクッキーのカスを 落としていることが気になるらしく、眉をひそめている。子供とは思えないほど小さなことが気になってしまう性分らしい。大きくなるのが今から恐ろしい。 それでも私の言葉を耳にすれば、意識はクッキーのカスから私へと向けられた。

「...何でだと思う」

およそ子供の返しとは思えないが、利吉くんはいとも容易くそれをやってのけた。その上意味深な視線を寄越す、というような芸当までやってのけたのだ。 私はそんな意味深な視線に気づきながらも、心当たりは以前から探しているのに見つけられなかったのでこのドラマのようなやり取りを無粋に壊すことしかできなかった。

「わかんないから聞いてるの」

手に握ったクッキーを一口かじるとまた食べかすがぽろぽろ落ちた。後でコロコロで掃除しないといけない。
けれど今度は利吉くんはそれを咎める視線を送ってくるようなこともしなかった。
ただ、その瞳を陰らしたのだ。





利吉くんがリビングに居るのが当たり前になって、晩御飯を食べていくのもいつものこととなってから数年が経った。
私は大学生になって、利吉くんはランドセルを下ろして学ランを着る様になっていた。
私は3年生ともなれば大学生としての生活にも慣れたけれど、利吉くんはまだ今年入学して袖を通したばかりのぶかぶかの学ランを持て余しているように見えた。 けれど実際、小さい頃からそうだったように浮き足立っている様子は皆無だ。
少し冷めているような表情さえ浮かべている利吉くんは不思議と少し大きめの学ランを着こなしていた。
きっとその学ランがぴったり体に合うようになれば、少し丸い輪郭やまだ高い声も変わってしまうのだろう。背だって今よりもずっと高くなる。 それが少し寂しいと思ったけれど、利吉くんは大人に近づくことを歓迎しているようだった。それどころか学ランを身にまといながら「まだ12歳か、」と煩わしそうに呟いたのだ。

「何、大人になりたいの? 私なんかこのままで居たいのに」

今年から始まる就活のことを思うと早くも憂鬱だ。
学ランを着た初々しい利吉くんを写真に収めたいという母の要望に応えるべく、私と利吉くんは近所の公園まで連れ出されていた。 ちょうど桜が咲いていることもあって、撮影場所は桜の木の下とすぐに決まった。
私と利吉くんが並んで桜の木の下にいるのを撮影しようと、先ほどから母は扱い慣れていないデジカメを弄っている。
それを眺めていたところで利吉くんの呟きだ。私の言葉に利吉くんは瞬きをしてから悲しそうに笑った。

「じゃあそのままで居てくれよ」

無理だと端からわかっているような、諦めの滲んだ言葉だった。
時々陰る利吉くんの瞳が、そのときにも陰ったのを私は見逃さなかった。
桜の花びらが風に吹かれて視界をちらちらと落ちていく。春の温かみある陽光が端と葉の隙間をぬうようにして差し込んでいる。 そんな暖かなぬくもりある風景の一部にいるというのに、利吉くんの表情は暗い。
結局何にも答えることが出来ずにいると、ようやく撮影できる状態になったらしいデジカメを構えた母による撮影会が始まった。





...見られてしまった。
所謂デートの帰り道、ふと空気が変わるのを感じたときには唇に少しかさついたものが押し当てられた後だった。
それがキスだったとわかったときには、恥ずかしさと照れくささが混じって爆発しそうな感情に頭がくらくらするようだった。 そのとき、何故かわからないけど視線を感じたような気がして頭を動かせば、彼の後ろにいつも着ている紺色のPコートを着た利吉くんの姿を見つけた。 本能的にまずいと思った私は、けれど視線を反らすことが出来ず、だからと言って声をかけることも出来なかった。
利吉くんは白と紺色が混ざった寒い時期特有の空を背景に立ち尽くしていたかと思うと、そのままくるりと反転して走って行ってしまった。 慌てて彼に別れを告げて後を追いかけたつもりで家に帰ったものの、そこに居るはずの姿は無かった。

「利吉くんは?!」
「今日はお隣でご飯の日でしょ」

共働きの利吉くんのご両親は、普段息子との時間があまり取れないことを気にしていて、週に何度かご飯を一緒に食べる決まりがある。 それが今日だったのをすっかり忘れていた。慌てた様子の私に母は何かあったのか、と訝っていたが何もないと誤魔化した。 利吉くんが中学生になって持ち始めた黒い携帯の存在を思い出し、何かメールでも送ろうかと携帯を握ったはよかったものの、 結局何を言えばいいのかわからなくて何も送れなかった。
何でこんなに焦っているのか自分でもよくわからない。





圧迫感のようなものを覚えて意識が浮上した。
いつものベッドの上、ブラウンカラーの毛布に包まって眠っていたのだと考えるよりも先に、薄く開いた目が何かを捕らえて、次にそれが生き物であると本能的に察した。 視点の合わない目を無理やり開けば、目の前の生き物が利吉くんだと気づいた。
あれ、今日は何曜日? 学校があるんじゃ。学ランじゃないってことは...。お母さんは? 何で起こしてくれなかったの。
この状況を何よりも先に理解するべきだというのに、私の頭の中には取り留めのない疑問が現実逃避するかのように浮かんだ。

「...り、きちくん」

彼の名前をなぞった声は、寝起きということもあって掠れていた。
今すぐお茶でも水でもいいから飲んで喉を潤したい。そう思って身を起こそうとして、目の前の利吉くんがベッドの横から覗き込んでいるわけではないことに気づいた。 ベッドの上に乗り上げ、私の上に覆いかぶさっている。頭を動かせば、私の頭を挟むように利吉くんの腕が上から伸びていた。 まるで利吉くん自身が檻にでもなって閉じ込められているようだ。状況を判断した後は、こんな行動を取る利吉くんの表情から何かヒントを読み取ろうとした。 だけど利吉くんは黙ったまま、ただただ真剣にこちらを見つめてくるだけ。

「...どうしたの」

何を言うべきなのか迷って、結局当たり障りのない言葉を選んだ。
こんな行動を取る意味を真っ先に問うべきなのにそれが出来なかったのは、私が臆病者だったからなのか。
当たり障りなくこの時間を過ごせば、何事も無かった日常を取り戻せると計算して反射的に取った行動だったのかもしれない。 踏み込もうとしない私を笑うかのように、利吉くんは少しだけ口端を上げて見せた。だけどすぐにその笑みは引っ込んだ。

「私のことが、」

またあの目だ。
陰った目は遠いどこかを彷徨っているかのように暗い色を落とす。
そうして私を映したかと思うと、より色が陰る。
途切れた言葉の先を探すようにして唇が何度か開閉されたのがやけにゆっくり見える。 どこか苦しげで、悲しんでいて、だけど怒りを含んだ目に射抜かれて息が詰まった。 胸の奥の方で何かがざわめいている。

「私だけだと言ったくせに」

振り絞るようにして紡がれた言葉は間違いなく私を責めていた。
私には身に覚えの無い言葉を盾のようにして、反射的に開いた口から言葉を出すのを許さないとでも言うように利吉くんが噛み付いた。


「これが罰か」





(20160220)前世を覚えている人とそうでない人