最初、私はダニエル・ロウ警部補のことが苦手だった。
まず雰囲気がとっつきづらい。それに加えてあの目だ。鋭い目は警察官としては武器になりそうだけど、その他のときにも適用されて萎縮してしまう。 だから話をそこまでしたこともなければ、関わりもほとどんなかったというのに私は苦手意識を持っていた。


「あー...」

パソコンとにらめっこしすぎて目が疲れているのを感じて目頭あたりを指で揉んだ。
私の声はむなしくフロア内に響いただけで、誰かの声が返ってくるようなことも無い。
もう随分前に同僚達は家へと帰って行ってしまったからだ。今日はこのHLには珍しくとても平和な一日だったので、帰宅も早々に出来ることになったのだけど... 生憎私は溜まっていた書類を片付ける必要があった。
明日は休みなので、今日中は終わらせる必要があるので早々に帰路に着く同僚達を恨めしく送り出すしかなかった。 改めて顔を上げて周りを見てみれば、フロア内の電気は消えてしまっている。私の頭上の電気だけでは心もとないと思ったものの、 だからといってフロア内の電気を全てつけるのは怒られるのでやめる。
いつもは騒々しいといってもいい署内がシンと静まり返っているということがすでに不気味に感じるというのに、その上経費削減で電気を使うことさえ許されないことがたたり、フロア内は薄暗い。 私が書類をさっさと終わらせていればよかったと同僚達には言われたけど、その時間が無かったのだからしょうがない。 息をついてもう一度パソコンに向かう。明日は休みなのだから何が何でも今日中に終わらせる!

「お、まだ居たのか」

カタカタとキーボードを打ち込む音だけしか聞こえなかった耳に、突如男の人の声が割って入ってきた。
驚いて振り返れば、私のその勢いに向こうも驚いた顔をしているのが見開かれた右目から伺えた。 思わず「まずい」という感想が一番に頭に浮かんだのは、その相手がダニエル・ロウ警部補だったからだ。 私は彼のことが少しだけ苦手だ。
当たり障りの無い態度を貫こうとへらりと笑みを浮かべて会釈を返す。そうすると警部歩は進めてこちらへと近づいてきた。 え、何か私に用でもあるのだろうか。つい体が避けるように仰け反ってしまう。そうして私のデスクまでやってきた警部補はパソコン画面を眺めてから呟いた。

「偉いな」
「えっ、あ、いえ...」

思いがけない警部補の言葉に一瞬呆けてしまう。そうして改めてなんて返せばいいのかわからず、頬がじんわりと熱を持つのを感じながらもごもごと曖昧に返事をした。 そうするとついさっきまでは出来ていたのに警部補の目を見ることができなくなってしまった。 だけど何だが何も話さないでいる空間への焦りみたいなものが生まれてしまい「あの、私、仕事が遅くて」と、途切れ途切れの不恰好な言葉を気づけば口にしていた。 それに警部補は「そうか」と相槌を一つしてから自分のデスクへと向かっていった。
徐々に気配が遠ざかるのを感じてホッとしながらも、同時に少し残念なような気もした。
がさがさと聞こえる音のほうへと視線を向け、何かを探している後姿を見つけてからもう一度パソコンへと向き直った。 やがて聞こえた足音に視線を向ければ、警部補が出口へと向かっているところだった。

「お疲れ様でした」
「おう、お疲れ」

咄嗟に挨拶を口にすれば、警部補は先ほどまで持っていなかった封筒を持った手を上げて気軽に言葉を返してくれた。
今の一瞬の出来事で、私は警部補への苦手意識が解けてしまっているのに気づいた。自分でもなんて現金なんだろうと思いながらも、 警部補の言葉にじわじわと口角が上がってしまう。
警部補は案外いい人なのかもしれない。そんなことまで考えてしまうのだから、自分でも簡単だと思った。
.
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あと少し...あと少し...何度繰り返したかわからない言葉はまるで呪文のようだ。
だけど先ほどの憂鬱な感情は減ってしまっている。どちらかといえばやる気に満ちた「あと少し!」って感じに変化していた。 その理由は単純だけど、先ほどのやり取りに答えはあるだろう。
もうひと踏ん張りと一度伸びをしてから改めて液晶画面を見つめる。

「ん」
「...ぅわっ」

突然耳のすぐそばで聞こえた声のようなものと共に、背後からにゅっと腕が伸びてきたので驚いた私は椅子の上で跳ねた。 咄嗟に隣の腕の先を辿れば、先ほど返ったはずの警部補が居てまた驚いた。

「早く受け取れ」

ぶっきらぼうに聞こえる言葉は、けれどにやりと上げられた口角を見れば不快さは皆無だ。 先ほどの私の反応を笑われているのだと察しがついて、カッと顔に血が上る。
その顔を隠すために俯きながら、早く受け取れと催促するように目の前に突き出された缶の紅茶を受け取った。

「一人で残業を頑張ってる労いだ」
「...あり、がとうございます」

差し入れということなのだろう。偶然にも私がいつも好んで飲んでいるものと同じだったことに驚きながら同時にありがたいと思う。 だけどそれを態度に出すことが出来ずにただただ固いリアクションしか出来ない。
それでも警部補は気を悪くした様子も無く、緩く笑っている。ダニエル・ロウ警部じゃなくて、例えば先輩が差し入れをしてくれたのなら軽口の一つや二つ叩けるのに、 それができるほど警部補とは親しくもない。もっと言えば先ほどまで苦手だと思っていた人なのでどうしても態度が強張る。

「ほどほどにしとけよ」
「はい」

へらっと笑って答えれば、先ほどと同じように片手を上げて警部補は「お先」と言って出て行った。
そこでわざわざ私にこの紅茶を渡すために戻ってきてくれたのだということを知り、口元がむずむずしてしまう。
それを誤魔化すために手の中の缶のプルタブを指で引っ掛けて開け口へと運べば、甘い紅茶が口の中に広がった。
不思議といつも以上においしく感じた。





琥珀色ブレイクタイム



(20160405)