「もう歩けねぇよー」
「...」
「おんぶしてください」
「馬鹿。自分で歩け」

憎憎しげに、そして吐き捨てるように返答した田村先輩は、舌打ちでもしそうなほど苛立った表情を浮かべていた。
何もそこまで怒らんでも、とは思ったもののそれを口にはしなかった。口にすればややこしいことになるのはこれまでの経験上わかっている。 「ちぇっ」と呟きながら、私はしょうがないので重い足を動かすことにした。
今の今までかかった帳簿付けはようやく終わり、私の手は月の淡い光の下でもわかるほどに墨だらけだった。
帳簿をきれいに片付ける前に、手はきれいにしておかなくては帳簿に墨がついてしまうので私と田村先輩はわざわざ手を洗いに行っているのだ。 完徹三日目ともなれば、普段から冗談が通じない田村先輩だけど、ますます冗談が通じなくなる。
冗談でおんぶしてくださいって言ってみただけなのに、田村先輩は目つきは鋭く、声は少し控えめなのは疲れているからだろう。 後輩のちょっとした冗談くらい多めに見てくれればいいのに、まあ、半分は本気だったけど。いや、半分以上本気だったけど。 ほんとにおんぶしてくれたら儲けもん。って思ってたけど。
眠っていないことで判断力はずいぶん低下していて、頭の動きも鈍い。だけどやっと寝ることが出来るのだと思うと嬉しい。 それなのに体は思うように動かない。
左門の奴はすでに白目を向いてこの世には居ないような顔をしていたので、潮江先輩が魂の抜けた一年生二人と一緒に抱えて部屋まで運んでいった。

「悪いが二人で部屋を片付けといてくれるか」

その潮江先輩の言葉にかろうじて意識のあった私と、目は据わっているもののまだ大丈夫そうな様子の田村先輩が頷いた。
本当は「左門ずるい!! 私も寝る!」とか駄々をこねて潮江先輩の背中に張り付いて部屋まで送って欲しいところだったけど、それを潮江先輩本人に言う勇気は持ち合わせてはいなかった。 下手したらたるんだ根性を叩きなおす! とか因縁をつけられて徹夜でマラソンコースになるかもしれないのだ。
黙って従うというのがこの場合には正しい。
長いものには巻かれることを知ってしまった私は、結果こうして重い体を引きずるようにしながら井戸に向かっている。
先を歩く田村先輩は、いつものようにしゃんと背筋を伸ばして歩いている。 きっと疲れているだろうことはここ数日一緒に朝を迎えたわけなのだからわかっている。それに正面から見ると、田村先輩の目の下には濃い隈があることも知っているのだ。 それなのに、なんであんなちゃきちゃき歩くことが出来るんだろう。

「早く来い」

ぼんやりと田村先輩の背中を眺めながら先輩のことについて考えていたので、突然振り返られて目が合うとどきりとした。 いつもなら急かされれば小走りで一応その言葉に従うものの、今は足がとても重いので小走りさえも重労働だ。

「今走ったらもうそれだけで全ての力を使い切ってしまいますけどいいですか?」
「いいわけないだろ!」

勘違いかもしれないけどいつもよりもツッコミのキレが悪いかもしれない。なんてことを分析していると田村先輩がこれみよがしに舌打ちをして見せた。 そのことからも田村先輩がご機嫌とは言えないことが伺える。
しょうがないので私は早歩きすることにしたのが、疲労の溜まった足は小刻みに震え出したのに気づいて私はその場で立ち止まった。 私が追いつくのを待って田村先輩がこちらを見ているのを確認してから言った。

「見てください。生まれたての小鹿」
「いいから早く来い!」

短気な田村先輩の血圧が上がって倒れられても面倒なので、私は渋々その言葉に従うことにした。



手を無事に洗い終えてからも「手を洗うだけなのにお前の所為で随分時間がかかった...」ちくちくと私を責める言葉を口にする田村先輩は私と同じで早く眠りたいらしい。 濃い隈のある目元を擦る姿はどうみても疲れきっていた。疲れきっているのに怒る気力があることに驚きながらうるさい田村先輩を宥める。

「まぁまぁ」
「おっまえっ...! 僕の装束で手を拭くな!!」

宥めるつもりが余計に怒らせてしまった。
さっさとこの場を去るべきだと思った私は、先ほど歩いてきた道を早足で辿れば、後ろから諦めたようなため息が聞こえた。 「油断も隙もないな」ぶつぶつと呟かれた言葉は、静かなこともあってよく聞こえる。
なんだかんだと言って田村先輩は後輩に甘いと思う、なんてことを言えば怒ることは目に見えてわかるので黙っておこう。 だっていつだって”しょうがない”って感じで私の行いを許してしまうのだから。
だから私もこういう態度を取ることが出来るのだ。これが本当に冗談が通じない、優しくない人だったらきっと私は何度も痛い目を見ていたことだろう。 それがわかるくらいには自分の行動がわかっている。まぁ、言い方によっては甘えてるのだ。
これを聞いたら田村先輩は今度こそ血が上って卒倒してしまうかもしれない。 「甘えてなんか無い!! お前のそれは」とかなんとかごちゃごちゃ言って。

「...疲れた。後ろから押してください」
「はぁ? 馬鹿言ってないでさっさと歩け」
「嫌です」
「ふざけるな、こっちこそお断りだ」
「...」
「...」
「ハァ...もうわかりましたよ、わかりました! 今なら背中を押しながらどさくさでお尻触ってもいいですよ! これを待ってたんでしょ?!」
「ばっ! なっ、何言ってる?! それも何でお前が妥協したような形になってるんだ! こっちはそんなこと要求してないぞ!」

キレが悪いと思っていたツッコミに鋭さが戻ってきたことに満足して顔を赤くしている田村先輩を見ながら「うんうん」と頷いた。

「それだけ元気があれば出来ますね」
「おっ、まえは...!」
.
.

「くそ、何で僕がこんなこと...」
「何だかんだ言ってやっさしー! よっ、先輩!」

私の見え見えのおべっかに田村先輩は「頼むから黙っててくれ...」と疲れ切った様子で呟く。
男子にしては線が細く見えるものの、先輩の手は大きくてぐいぐい力強く私の背中を押してくる。なので、私はとても楽チンだ。 勝手に脚が動くのについて行く様な形で歩いていると徐々に眠くなってきてしまった。目を擦りながら欠伸をかみ殺す。 ここからまだ仕事が残っているっていうのだからホントに勘弁して欲しい。
このまま黙っているとすぐにでも眠ってしまいそうな気がして、それを誤魔化すために口を開いた。

「田村先輩ってなんだかんだ優しいですよね」
「...」

てっきりまた何か怒りながら捲くし立ててくると予想していたのに、背後の先輩からの応答は無い。
まさか眠ってる? 可能性が少ないとは思いながらも、そんなことを考えて後ろを振り返ろうとすると急にぐっと力を入れて背中を押されたので、転ばないように前に向き直った。 その反応からも眠っているわけではないと判断することが出来た。

「...言っとくが」
「はい?」
「誰にでもこうなわけじゃないからな」

眠気のあまり今にも停止しそうな頭で今の言葉の意味を考える。さっきの私の言葉からの繋がりを考えて意味を理解した。 いっつも怒ってばっかりの先輩にしては珍しく殊勝な態度であることに少しの違和感を覚えつつ、いつもの調子で返した。

「私だから特別なんですよね〜」

軽く、ホントに冗談のつもりの言葉だった。
そうして先輩の言葉はいつものように怒ったものが返ってくるのだと予想して口元がにんまりする。
だけどその予想は外れて、ただただ沈黙が続いたのでどうしたのかと後ろを振り返ろうとすると鋭い声が飛んできた。

「...見るな!」

どこかいつもとは違う調子の声に私は戸惑い、すんなりと言うことを聞くことにした。
何でだか背後に居て見えない田村先輩が顔を赤くしている姿が想像出来てしまい、私は急激に恥ずかしさを覚えてしまった。 背中の触れられている部分が急激に熱を持ったような気がして、さっきなんで背中を押してくれなんて頼んだんだろう! と後悔した。





走り出した深夜未明



(20160502)