冷蔵庫の中が空に近かったのでしょうがなく重い足を叱咤しながら自転車に乗って近所の店まで行き、そこでパンだのオレンジジュースだの肉だの卵だの野菜だのを買い込み、 最初の予定よりも重みのある荷物を自転車の篭に乗せ、買い過ぎてしまったことを後悔しながらふらふら自転車を漕いでいると見覚えのある後姿を見つけた。 オレンジ色の街頭と立ち並ぶ店から漏れ出た光に照らされた背中は見慣れているからこそわかった。 「スティーブンさーん!」 見るからに一人であることを確認し、軽い気持ちで声をかけたことをすぐさま私は後悔した。 振り返ったスティーブンさんの表情があからさまに不機嫌だったからだ。 何かわからないけれどよくないことが起こったか、今まさに起きているのか...。これは知らない振りをしていた方がいいやつだ。 間違いない...直感と今までの経験から脳が警笛を鳴らしている。 ふらつく自転車を制御するためにハンドルを持つ手に力を入れながらペダルの上で立ち上がる。ぐっと握ったハンドルを握った手は汗ばんでいた。 そのことからも本能的に私はこの場を今すぐに去るべきだと判断した。 「...いやー、いい夜ですね。じゃあまた!」 口にしようとしていた言葉「こんなところで珍しいですね」を引っ込めてすぐさま出した代わりの言葉は関わりたくないと自分なりに意思表示したものだった。 けれどそのものを口にしていないので目論見は外れた。(...というか、スティーブンさんなら多分私の目論見を見透かしたのなら余計に私が嫌がることをするのだと思うけど。) 剣呑な瞳が一瞬弓なりになったと思うとふらつく自転車の前に飛び出してきたのだ。 当然こちらは人を轢くわけにはいかないので(それも相手はスティーブンさん)(轢いてしまった場合には一体どんな恐ろしい慰謝料と言う名の理不尽なことや肉体労働を要求させることになるのか...考えただけで恐ろしい) ブレーキを強く握って自転車を止めれば、油を久しくさしていない自転車は「キキー!」と悲鳴を上げた。立ち漕ぎでここから速やかに去ろうとした私は当然地面に足をつけることになった。 THE・END 脳裏に映画さながらの字幕が浮かんだ。 「あっぶないっ、......ではないですか」 ついつい出そうになった文句は、目の前のスティーブンさんの威圧溢れる視線によって可笑しなことになった。 それを誤魔化すべくへらっと笑みを浮かべるもそれに応えてはもらえなかった。 いや、おかしくない? 自転車の前にわざと飛び込んできた人の目じゃないでしょ。轢かないでくれてありがとう。って感謝の気持ちがあってもいいと思う。...いや、そんなこと口が避けても言えないけど。 大きくなる嫌な予感が胸をざわめかせる。この間、今と同じように胸がざわめいたときには一人きりで異星人と対峙することになった。 すでに他の場所で起きていたいざこざを収めるべく、遅れながら現場へと向かう途中でおかしな空洞を見つけて嫌な予感を覚えながら連絡すれば 指揮を執っているスティーブンさんから「ちょうどよかった」と言われたのだ。 どうやらその空洞の中に今回の騒動の原因ともいうべきものがあるらしい、という不確かだけど危険すぎる言葉に従って飛び込んだ先でぶよぶよのわけのわからないものと対峙することになった。 死に物狂いでの戦闘の結果、私はどうにか生還することが出来たのだがそのときに感じたような嫌な予感を今感じている。 ただし今回の相手はぶよぶよのわけのわからない物体ではなくて、上司であるスティーブンさんだ。 「ちょうどいいところに来た」 薄く笑みを浮かべているところが余計に嫌な予感を覚えさせて表情が固まる。これはいよいよあのときの再現か...? もしかしたらせっかく購入した食材もダメになってしまうかもしれない。これから可笑しな自体を収めに行くのであれば...。 思わず漏れそうになったため息を細く息を吐くことで誤魔化す。 「ちょっと乗せていってくれ」 「え?!」 思いがけない言葉に反応が鈍い私を放り、スティーブンさんは私の答えなど端から聞いていないようで無理矢理後ろの荷物置きに座ってしまった。 気持ち少し視界が低くなったような気がする。...というかマジか。 出来ることなら帰りたいところだけど...それがもう無理であることはスティーブンさんが後ろに乗ってしまったことで決定してしまった。 ちらりと背後に視線を向ければきちんと荷物置きに跨っているスティーブンさんがにこりと笑い無言の圧力をかけてくる。 「...どこに向かえばいいですか?」 「ここを真っ直ぐ行ったところのパーキングまで頼む」 「え、そんなのありましたっけ...」 パーキングがどこにあるのか把握していないのであやふやな情報に一瞬不安を覚えた。が、スティーブンさんがわかっているのなら問題ないだろう。 あまり無駄口を叩いてこれ以上スティーブンさんの機嫌を悪くするのは私の本意ではない。だって、とばっちりを食らうことになる可能性が一番高いのは今一緒に居る私だからだ。 もしもここにザップがいたのなら何かをやらかして、適度にスティーブンさんはストレスを発散させることが出来るか知れないが、サンドバック代わりのザップは居ない...。 こんなにもザップに会いたくなるなんて初めてかもしれない...! いつもなら強引なスティーブンさんに「えぇー」と不満を口にするところだが、それもせずに大人しく私はペダルに足を乗せた。 不平不満を口にしたところでどっちにしろ私がやるべきことに変わりはないのだ。それなら黙っていた方が賢い。 先ほどよりも重くなったペダルに、正直早くも心が折れそうだ。 何故駐車場から遠く離れたあの場所に居たのだろう? その疑問を口にするのは憚られたため結局口を閉ざした。 「何を買ってきたのか聞いてもいいかい」 ペダルに力を込めてただただ足を動かして一刻も早く目的地に辿り着いてスティーブンさんを荷台から降ろしたいと思っていると声をかけられた。 背後から投げられた会話の始まりを予感させる言葉に、先ほどよりも機嫌がよくなったのかもしれないと思いながら答える。 「...えっと、卵とベーコンに、キャベツとチョコとポテトチップ......あ、チーズと...なんだっけ」 必要なものだけを購入するという考えは、食品がたくさん並んでいるのを見ると忘れてしまう。空腹のときなんかは気をつけないと 欲求のままにあれもこれもカゴに放り込んでしまうのだ。今日はお腹の減り具合はどうだったかと言うと、事前に友人と軽く食べていたのでマシな方だった。 それでもつらつらと並べた食べ物たちの中には不必要と言われればそれまでのお菓子がいくつか入り込んでいる。 早くも息が上がり、聞き取りづらいだろう返答を聞いて何を思ったのか「へぇ」なんて相槌が背後から聞こえる。 別段興味は無いんだろう、と思いながら足に力を入れる。まだまだそのパーキングとやらは現れそうに無い。 というか、今気づいたけどこういう場合ペダルを漕ぐのは男じゃないのか?! 漫画や映画、ドラマなどでは青春を表現するのによく見る描写だ。実際に経験が無かったものの、それをしている同級生に憧れたものだ。 今は二人乗り事態が禁止されているというのだから世知辛い世の中だなぁ...とは言っても、ここHLじゃ年頃の男女が自転車を二人乗りしているという甘酸っぱい光景は見たことが無い。 それをせっかく今しているというのに...!! 現実は甘くなくて私が前に座ってペダルを漕ぎ、はぁはぁ変質者のように息を切らしている。(おかげで喉はからから) それに後ろの荷台に乗っているのは友達以上恋人未満なんて甘酸っぱい関係の人ではなく、ましてや恋人でもない。簡単に言えば上司。簡単に言わなくても上司。それも不機嫌。という最悪な状況だ。 バランス感覚がいいのかスティーブンさんは私に捕まってくることもないので下手したら一人で乗ってるようなものだ。成人男性一人分の重みを乗せて...。 ...マジで早く帰りたい。先ほど買ったものを肴にビールで喉を潤したい。 「料理するの?」 さっさとこのミッションを終えてビールを飲むことに思いを馳せているとまたしても声をかけられた。 その言葉に多少の苛立ちを覚える。重いペダルの所為で沸点が低くなっているような気がする。 「...しますよ! 一人暮らしもそれなりにしてますから!!」 「へぇ」 またしても特に興味がなさそうな相槌にさらに眉間の皺が深くなるのを感じた。 ぜいぜい息を苦しそうにしているのが聞こえないのだろうか? そんなどうでもいい話をしたい気分じゃないんだよ!! 今すぐビールを口に流し込んでくれ!! これを直接言うことができたらどれだけすっきりすることか...。 「...というか、まだ! つかないんですか?!」 叫ぶように声を上げれば、何人かの人たちがこちらを振り返った。 荷物に加えて成人男性一人分はどう考えても重量オーバーだと思う。おかげで額の汗を拭うことも出来ない。 汗を拭えばハンドルは片手では制御できず、二人で仲良く道路に転がることになるだろう...買い物したものをぶちまけながら...。 そんな恐ろしいことは阻止しなくてはいけないので手は離せない。 「重いですっ!!!!」 「失礼だな。細身なほうだと思うけど」 「だけどっ、重いんですよ!!!!」 私とは対照的にのんびりとした口調のスティーブンさんに噛み付くように返せば、背後で喉のところで笑っている声が聞こえた。 さっきまで不機嫌だったとは思えない変わりようだ。一体何で機嫌がよくなったのかわからないけど。 「今度食べさせてくれよ」 「なにを?!」 「君の手料理」 「なんで?!」 ペダルを漕いでどうにか自転車を前に進めようとすることしか考えていなかったので、あまり考えもせずに返した。 そうしてスティーブンさんが少し言葉に詰まったように「...何で、と返ってくるとはなぁ」なんて呟いているのが聞こえた。 そこで改めて先ほどのスティーブンさんの言葉を頭の中で繰り返し、ようやく意味を理解した。そうするとまたしても先ほど叫んだ言葉が頭に浮かぶ。 だけどさっきよりも何倍も強い思いがこもる。 「何で?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!×∞」ってな感じで。 酸素が頭にまで十分に届いていない状態なのでますます頭が混乱していれば、突然肩を軽く叩かれた。 「ここでいいよ」 ブレーキを握って止めるよりも先に自転車が軽くなったのを感じた。振り返れば先ほどまで荷台に乗っていたスティーブンさんが道路に立っている。 「助かった。礼を言うよ」 「あぁ、いえ」 唐突にこの嬉しくない強制労働から開放されることになったというのに、私は文句を口にすることも忘れていた。 パーキングは見たところないようので、この道をもう少し奥に行ったところにあるのかもしれない。 「単純に食べたいから、じゃだめかい?」 傍若無人とも言える行動を取って起きながら突然伺うようにして尋ねられてしまうと調子が狂う。 さっきまで刻まれていた眉間のシワは消え、据わっていた目も今では緩く弧を描いている。 再開された会話に頭がまた混乱し始める。 「え、いえ......だめでは、」 いつものように強い口調で言われれば文句を口にすることが出来たはずなのに......つられてこちらもしどろもどろの返事になってしまった。 視線を定めることが出来ずにもごもごと口を動かしながら額を手で拭った。さっきとは違う意味で喉がからからだ。 常時にはない雰囲気に翻弄されているのを自分でも感じながら、それを認めたくなくて意味もなく足に力を入れてペダルを動かす。 オレンジ色の街頭があるとは言え、すっかり夜に包まれたHLの街中は暗い。これがいけないのかもしれない。 だからスティーブンさんはこんなことを口走ったのかも...! 「ならよかった」 今までの雰囲気を吹き飛ばすかのように軽い口調に視線を上げれば、機嫌がよさそうに笑っているスティーブンさんを見つけた。 そこで理解した。私が料理を振舞うことは決定事項になってしまったということに...。同時にこの上司は性格がよろしくないことも思い出した。 私の態度に面白さを見出した故の笑みだと思うと顔が熱くなる。 「何なら今から行こうか」 「はあ? どこにですか?」 私で遊んで機嫌を回復しようとしているような気がしてずいぶんと刺々しい返答になった。だけどそれを意に介していない様子のスティーブンさんの顔から笑みが消えることは無い。 「君の家」 「...はっ、」 「...」 「...」 「彩の家」 「いや、何回も言わなくてもわかってます!!」 「聞こえていないのかと思ってね」 確かに聞き間違いかと思ったが、そこについては無視することにした。 思わずジッとスティーブンさんを見つめると、心のうちを読めない笑みが返される。 ...完全に遊ばれている。そう確信した私はハンドルを握るとペダルを漕ぐ為に足に力を入れた。 「帰るのかい」 「はい、帰ります。こう見えて忙しいでスティーブンさんの暇つぶしに付き合ってる場合じゃないんです」 本当は「ここで遊ばれている暇はないんです!!」と叫びたいところだけどやめておいた。遊ばれていることを認めるのは何だか悔しい。 「つれないな」 「ここまで運んであげたのにそんなこと言います?」 「そうだな。けどここまで来たなら最後まで付き合って欲しいところだな」 「どんだけわがままなんですか」 悪態をつけばスティーブンさんはニヤリと口端を上げた。 「甘えてるんだよ」 「...言ってもいいですか」 「なに?」 「げーーーーー!! って感じです」 力を込めて吐き捨てるように言えば、スティーブンさんは声を上げて笑った。 何かを含んだものではなく、屈託なく笑っている様子に私は感じていたはずの苛立ちが萎んでしまうのを感じた。 こんなに楽しそうにされてしまうと毒気を抜かれてしまう。一通り笑ってからスティーブンさんは笑い疲れたように息を吐いてから呟いた。 「確かに」 「何がですか」 唐突な言葉がどこに掛かっているのかわからずに返せば、スティーブンさんが意味ありげにこちらを見ながら笑みを深める。 「なかなかいい夜だと思ってね」
ある夜のメモワール
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