今日は誰の夢に入ろうか。一考するよりも先に頭に浮かんだのはここ最近何度も夢の中にお邪魔している人のことだった。
 マットレスへと体が沈み込んでいく、やがて体の輪郭がとけていくような心地になればもう簡単だ。その人のことを思いながら身を任せればいい。
 目が覚めると自分が座っているのは見慣れたバールのテラス席だった。
机の上はいつも頼むカップチーノがある。空いていればここに座るのがこのバールに来た時の私の”決まり”だった。
ここに座っているということはもうすぐ彼がここを訪れるということだろう。少しだけ胸が早く打ち始めたのを感じながら視線を通りへと向ける。
 彼は現実と同じようにこの通りを街の人たちに声をかけられながらやってくるのだ。初めて入り込んだときもそうだった。そのときには彼の真面目な性格が伺える夢に思わず笑みがこぼれたのを覚えている。
 現実と同じように街の人々に愛されている彼は、そこらで声をかけられ、それに手を軽く挙げて答えながらやってきた。
人通りのそれなりにある通りでも彼はあの太陽の光を反射するように真っ白なスーツのおかげもあって目に付く。

「ブチャラティ、チャオ!」

 今までこうやって気軽に現実で彼に声をかけれたことは一度だってない。だというのに夢の中ではまるで親しい友人かのような振る舞いで声をかけられるようになっていた。 情けないことにそれはそのまま私が彼の夢の中に入り浸っている証拠にもなる。

「あぁ、チャオ」

 手を軽く挙げて応えてくれた彼は私が誰かなんてことを深くは考えていない。それでも彼が私を見て返事をしてくれたという事実に胸がいっぱいになる。
 人の夢の中に入ることができるという不思議な能力を得て思ったのは、夢の中では人は皆無防備だということだ。そしてあまり深く考えない。だってまるで友達のように声をかければ同じように返してくれる。友人の中に入り込んでいてもあっさり受け入れてもらえることもわかっている。
友人の中に知りもしない女が混ざっていることにあまり疑問を持ったりはしないらしい。なのでここでは少し気持ちが大きくなってしまう。
 現実では実行できないことが夢ではできる。それはとんでもなく魅力的で、私はこの誘惑に打ち勝てる術を今のところ持っていない。

目を閉じたら逢いましょう


 彼の仕事柄、9時には布団の中に居るなんて規則正しい生活をしているわけがないので、彼の夢の中に入るにはタイミングが合わなければとことん合わない。夢の中に入るには相手が眠りについているのが最低限な条件だ。その最低限が満たせていないことは多々あった。 そういうときには大人しく眠りにつくようにしていた。
ここ一週間彼の夢の中に入りこむことができずにいることからも、彼が夜遅くまで起きているであろうことは想像に容易い。体を壊さなきゃいいけど......なんてことを考えて、ブチャラティは私がこうして彼の体を心配していることも知らないのだろうと至り、気分が落ち込んだ。
現実でも夢の中と同じように彼に気軽に声をかけることができれば...。そう考えても実際に行動に移すことができないのが私だった。
 目を開くと彼がすぐそこに居て驚いた。
 彼は椅子に腰かけ机に向かっている。机の上には何枚かの紙が散らばっていることからも何かを書き込んでいるらしいことが分かった。 夢の中でまで真面目に仕事をこなしているらしいことに、私の頭の中の彼と変わらない性格を見た気がする。

「誰だ?」

 やがて急に私がここにいることに気づいたらしいブチャラティが顔を上げた。その表情には不審者を見るような不遜なものは見当たらなかった。ただただ不思議そうにしているので、警戒されているわけではないことがわかる。

「やめてよブチャラティ。だよ」

 人の夢の中に入り込むことに慣れているので、こういう場面にも慣れっこな私の口からはするりとまるで親しい友人かのような言葉が出てきた。ブチャラティに認識されていない現実じゃ絶対に出来っこない気軽な返事をする。夢の中にいるということもあり、やっぱり気が大きくなってしまうらしい。

「あぁ、そうだった。すまない少しぼんやりしていたみたいだ」

 ブチャラティは知りもしない女が知り合い面したことに疑問を持つこともなくあっさり納得した。その上律義に謝りの言葉まで口にするのだから、好感度は上がりっぱなしだ。そのまま何事もなかったかのようにまた視線は机上へと向けられる。

「仕事?」
「あぁ、少し片づけておこうと思ってな」

 彼が最近休むことができていないということは夢の中に侵入できないことからも察することができる。もちろん私が活動中の昼間のことはわからない。昼間にその分きちんと休むことができているというのならそれに越したことはない。だけど夢の中でまで仕事を続けているブチャラティに思うところはある。

「ねぇ、ちょっとそれは置いといて休憩にしよう。ブチャラティは働きすぎだよ」

 書類から顔を上げたブチャラティは軽く目を開いてから小さく「そうだろうか...」と呟いた。

「これだけ片づけるからは先に休んでおいてくれ」
「...呼び捨て......!!」

 名前を呼ばれた衝撃で頭が一瞬停止ボタンを押されたみたいに活動休止状態になってしまったが、再生ボタンを押してくれたのは停止させたブチャラティ本人だった。

?」
「...ハッ...!」

 不思議そうにこちらを見上げるブチャラティはまさか自分のせいで私が動きを止めたとは思いもつかないだろう。

「ダメダメ。私だけ休憩しているんじゃ意味ないし。お茶淹れてくるからそしたら休憩ね」

 ブチャラティの夢に入り浸っているのでこの場所には見覚えがある。キッチンだと思われるほうへと足を進めながらエスプレッソは目が覚めるからやめたほうがいいかもしれないと考える。そう考えてから夢の中であることを思い出した。夢の中なのだから別にいい気もするけど...結局結論が出ないままキッチンにたどり着いてしまった。
ただの気持ちの問題だけど......そう考えながら棚を漁ってティーカップとポットを取り出した。
茶葉を棚から探し当て、それをセットしながら注ぐためのお湯を沸かす。
 何かおやつになるものもないかと棚を見てみるが何もなかったので、頭の中にお気に入りのバールのドルチェ、ズッパイングレーゼを浮かべる。 そうすると目の前のテーブルの上にシロップの染みたスポンジとカスタードがたっぷりの上に色とりどりのフルーツの乗ったそれが二つ現れた。まるで魔法のようなこの能力はまさに夢のある能力だけど、夢の中でしか使うことができないという難点がある。
これをおやつとして出そう、と考えるが、もしかしたら彼の好みから外れるかもしれないと唐突に考えてしまった。程よい酸味が感じるが、シロップとカスタードが少し甘いと言えば甘い。苦手な人は苦手かもしれない。
じゃあ甘みが控えめなティラミスはどうだろう。目の前に二つあったズッパイングレーゼの一つがティラミスへと変わる。
いや、パリパリのパイ生地とクリームの相性がばっちりなスフォリアテッラなら嫌いな人もいないんじゃないだろうか。
考えれば考えるほど答えは出ない。一度もお茶を一緒にしたことがないので、ブチャラティの好みが全くわからない。
 結局お盆の上には数種類のお菓子やケーキが並ぶことになった。予想以上に豪勢なおやつになったが、これならきっと好みのものが用意できるはずだと妙な自信を持ってしまう。

「......すごいな」
「ブチャラティが何が好きかわからなかったんで...」

 ぎっちりお盆の上に載っているおやつたちに唖然とした様子のブチャラティに誤魔化すように笑いながら答える。

「どれでも好きなの選んでください」
はどれが好きなんだ?」

 ソファに座ったブチャラティの前に紅茶を淹れたカップを用意してから向かいのソファに座る。

「え? 私はどれも好きなんでどれでも。それよりもブチャラティが選んで」
「いいのか?」
「もちろん」

 私は食べようと思えばいつだって食べられる。それこそ夢の中でなら無限に食べることができるので、ブチャラティに是非とも食べてほしかった。とはいえ、現実の彼は目が覚めればこのことをきっと覚えてはいないだろうけど......。
 少し考えるような素振りをした彼は、だがすぐに手を伸ばしてスフォリアテッラ選んだ。

「ん?」

 やっぱりこれを嫌いな人はいなかった! という喜びが隠せていなかったらしい。不思議そうにこちらを見られて笑いながら答えた。

「やっぱりスフォリアテッラを嫌いな人はいないよなーって思って」
「そうだな。オレもこれは好きだ」

 軽く微笑んで答えられるとこっちもものすごく嬉しくなってくる。むずむずする口角を少し抑えながら思わず前のめりで声を上げた。

「まだまだいっぱいあるから遠慮しないで食べて!」
「おいおい、そんなには食べられないぜ」

 おかしそうに笑ったブチャラティにとんでもなく幸せな気持ちになる。今目の前にブチャラティが居なければ部屋の中でスキップしていたかもしれない。
 実際に食べたことがあるお菓子はどれもこれもおすすめだ。夢の中でくらいのんびりしてほしいと思っての行動だったのだが、おいしいお菓子をブチャラティに食べさせたいという気持ちにすり替わってしまい、そこからはこのお菓子のどこがおいしいかを熱弁することになった。それにブチャラティは相槌を打ちながら答えてくれた。
 目の前の光景が霞んでいく感覚は慣れている。それは目覚める合図か、夢を見ていられなくなるほど深い眠りにつくということなのだと私は解釈している。
見慣れた部屋が、食べかけのお菓子たちが、ブチャラティが徐々に霞のようになっていくのを残念な気持ちで見つめた。

「またね」

 意味のない挨拶だとは思いながらも声をかけずにはいられなかった。
 その後、いつになく私に都合の良すぎる展開だったことに興奮のあまり眠ってられず起きだし、夜中の3時にさっきはできなかったスキップをしたのは絶対に誰にも知られたくない。



 味を占め、それからもブチャラティの夢の中には度々お邪魔した。
いつかは子供のブチャラティが幸せそうに両親と話しをしている姿を眺めた。
いつかはギャングらしく男を締めあげている姿を眺めた。
またいつかはお父さんが亡くなってしまい、ぼんやりとベッドの傍らに座っているまだ青年になりきっていないようなブチャラティの手を握った。
仲間たちと一緒になんてことない話をして笑いあっている姿も見た。
あの日のように仕事をしているブチャラティを見つければ、無理やりお茶の時間を取らせたり外に連れ出した。
 夢は不思議なものだ。わけのわからない夢を見ることがあれば、過去の出来事を鮮明に映し出すこともある。
 彼の夢を通じて、私は少しだけ彼の生い立ちや生き様なんて人が決して簡単に触れることができないはずのものを盗み見てしまった。
その負い目もあるから余計に彼に声をかけることができなくなっていることに気づいたのは、いつものバールのテラス席で彼が通り過ぎるのを見送ってからだ。
朗らかに街の人たちと話をしているブチャラティの”本当”を知ってしまった気がした。それは彼が望んた結果でないことも痛いほどわかっているからこそ、とんでもなくいけないことをしたのだと自覚した。
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 仕事の休憩中、いつものバールへとやって来て例のテラス席へと足を向けて先客がいることに気づいた。瞬間的に体の温度が上がったような気がする。席に座っているのは紛れもなくブチャラティだったからだ。彼が今までこのバールに立ち寄っているところを見たことがなかったので、てっきりこの店に彼が来ることはないと思い込んでいた。

「先客ですね」

 いつも通りを実行できず、店内で動かなくなった私に気づいたらしい顔見知りのウェイターが声をかけてきた。
残念でしたね。とでも言いたげな彼はただいつものお気に入りの席に座れないことにがっかりしているとでも思ったのだろう。だがもともとあの席を”いつものもの”と定めたのは通りを歩いてくるブチャラティがよく見えると思ったからだ。ブチャラティを盗み見るための席ともいえるので、そういう意味では彼が例の席に座っていることにがっかりするなんてことはない。
 現実ではいつもは遠くから眺めている彼がそこに居ることに既視感を覚えてしまうのは間違いなく彼の夢の中に入り浸ってお茶をしている所為だ。

「テラスにしとく? いつもの席はだめだけど」

 ずいぶんと気軽に声をかけてきたのはまだそこにいた顔なじみのウェイターだ。彼がそこに未だ居たことに気づかなかったので声をかけられて肩が跳ねた。
完全に意識がブチャラティにばかり向いていたらしい。

「あ、うん。いや、どうしよ...」

 テラス席に出れば自ずと彼がこちらの存在を認識してしまうかもしれない。彼の瞳が太陽の光を反射する海のような色合いをしていることは夢の中で何度も顔を合わせているので知っているけど、そこに実際に映りこむ勇気はない。

「まぁいつもの席以外にも気に入るところがあるかもしれないだろ。試してみよう」

 こちらの心情と数々のストーカー行為(と呼ばれても返す言葉が見つからない......)を知るはずもない彼に少々強引に腕を取られて引っ張られる。
もちろん彼が目指すところはテラス席であることがわかるので反射的に体に力が入る。

「待って、まだ心の準備が...!」
「心の準備って大げさだな、彩は」

 気づけばブチャラティの隣の席へと座ることになっていた。海色の瞳がこちらに向けられるのを背中に感じ、それから逃げるように自然と背中が丸まってしまう。

「注文はいつものでいい?」
「う、ん」

 客を席へと案内し、注文を取った彼はこちらの心情など知る由もなく足取り軽くカウンターへと向かっていった。 それを見送ってしまってからこちらは居心地の悪さが半端じゃない。彼が後ろの席に座っていると思うだけで心臓が早鐘を打ち、全力疾走してきたかのように息切れを起こしそうだ。いつもただただ一方的に眺めていたのじゃなく今間違いなく彼は”私”を認識しているだろうと思うとそれだけでどうしようもなく緊張してしまう。夢だとやっぱり気が大きくなっていたらしいことが証明された。だって現実の私はとんでもなく小心者だ。
「はい、いつもの」笑みを浮かべたウェイターの彼がいつもの白い磁器のカップをテーブルへと置いた。それにお礼を言えばそのまま彼は奥へと引っ込んでしまう。

「ここは君の席なのか?」

 別にずっとこちらを見ているわけがないから緊張する必要はない、自分に言い聞かせながらカップの取っ手にそっと人差し指を差し込み、口へと運ぼうとしたところで背後からかけられた言葉に体が小さく跳ねた。カップの中のふわふわに泡立てられたミルクの下で液体が大きく波打つ。
すっかり聞きなれた声は、夢と寸分変わりなく鼓膜を揺らした。ソーサーの上へとカップを置き、振り返れば海色の瞳がこちらに一直線に向けられている。さっきのカップチーノのように心臓が大きく波打ったような感覚を覚えながら視線を不自然にならないように反らす。

「......いえ、私の席ってことでもないんですけど、よく座るってだけです」

 勝手に自分の馴染みの席としているだけで、そこは別にもちろん私のものというわけではない。

「そうか、悪いことをした」

 思いがけない謝罪に反らしていたはずの視線をブチャラティへと向けてしまう。

「いえ、全然! ...いっ!」

 全力で彼が悪いわけではないと伝えようとして無意識に体が動いてしまっていたらしい。両手を顔の前で左右に振りながら自分でもどういう動きをしていたのかわからないけれど、足をぶらつかせていたらしくて脛を椅子にしたたかに打ち付けた。じんと骨に響くような痛みに背筋が伸びる。
スチール製の椅子はちょっとやそっと乱暴に扱っても壊れなさそうだと思っていたが、その予想は間違っていなかったようだ。脛がへこんだかと思うほど頑丈なようだし。

「大丈夫か?」

 立ち上がってこちらへと向かってくる彼に何度も頷く。ほんとは痛いけど我慢できないほど痛いわけじゃない。それよりも彼の前で失態を犯したことのほうが恥ずかしい。
間違いなく顔が赤くなっているだろうと確信している間にも彼は片膝を立てて目の前でしゃがんだかと思うとぶつけた個所をじっと見ている。近すぎる距離に思わず息を止める。

「痛むようなら冷やしたほうがいいかもしれないな」
「あの、全然大丈夫です...!」

「あざになるかもしれない」そう呟いたブチャラティはおもむろに立ち上がると店内へと入り、カウンターへと向かっていった。何をしに行ったのか見つめていると、ウェイターの彼と何かを話している。かと思えばこちらに戻ってきた。その手には何かが握られている。
その何かがハンカチだとわかったときには屈んだブチャラティによってぶつけたところにハンカチを当てられていた。

「水で濡らしただけだがないよりはマシだろう」
「すいません...ありがとうございます...」

 ブチャラティのスーツと同じ白いハンカチを受け取り頭を下げる。彼が優しく親切であることは十分知っていたが、勝手に脛をぶつけた見知らぬ女まで気遣ってくれるとは思っていなかったので言葉が少し喉のところでもたついた。
 ハンカチは固く絞られているようで、ストッキングが濡れてしまうということもなかった。だが確実に冷たさを孕んだそれに、熱が引いていくようだ。
患部の痛みと裏腹に、彼の優しさに触れた私の体はどんどん熱を高めているのを感じる。こんなことなら氷がたっぷり浮かべられたアイスティーを注文すればよかった。

「一つ提案なんだが」

 席へと戻ったブチャラティへと視線を戻す。彼はテーブルへ両肘をつけて手を組んでいた。視線はこちらへ真っ直ぐ向けられている。

「オレの前の席が空いてるんだが、もしよければどうだろう」

 大人の女性ならここで「どうしようかな」とか一度悩むような素振りを見せたり、「彼女に怒られたりしないかしら?」とか言って彼女の有無まで確認してしまいそうだけど、私と言ったら大人の女性なのにそれらと程遠い言葉が口から出てしまった。

「えっ、いえ、そんなっ悪いです」

 まさか彼と一緒のテーブルを使うなんて夢の中じゃあるまいし、できるわけがない。
 咄嗟に先ほどと同じように両手を顔の前で左右に振りながら頭をぶんぶん振った。

「このテーブルには二つ椅子が設置されている。つまり二人ならこの席に座ることができるってことになる」

 夢の中なら確実に座っていた。それも友人面して。だけど現実だとなるとそれはとんでもなく難しいことのように思える。

「オレは一人だし、君も幸運なことに一人のようだ」

 この誘いが嬉しくないわけがない。だけどやっぱり素直に受け入れられないのは彼に対して抱えている後ろめたさのせいだ。
この後ろめたさがなければすぐにでも飛びついている誘いだ。

「どうだろう」

 選択を促すような言葉と軽く細められた海色の瞳に見つめられるとまるで催眠術にかかったかのように、さっきまでの迷いがなんだったのかというくらいに呆気なく頷いてしまった。 いつも座る席と向かいあった椅子に腰を下ろす。ぬるくなったハンカチをどうしようかと迷うが手に握った。
つい誘いに乗ってしまったがここから何か会話が浮かぶわけではない。夢の中なら近所のおばさんの話や、仕事場での先輩から聞いた話を面白おかしく話すことができたけど現実じゃそんなことできるわけがない。

「君とは以前にも会ったことがあるような気がするな」

 沈黙を破ったのは意外にもブチャラティだった。
考えるように顎の下に片手を添えたブチャラティからの真っ直ぐ向けられる視線に、どきりと心臓が嫌な音を立てた。背中がひんやりするように感じる。
咄嗟に脳裏を過ったのは今までのストーカー行為の数々だ。彼の夢の中に侵入し覗き見た映像たちが罪悪感と共に押し寄せてきた。 ブチャラティが現実でという人間がいることを認識しているとは思えない。そうなると彼が既視感を覚えたのは唯一顔を合わせている夢が原因だと思えてくる。 今までこうして人の夢の中に入るってことはそれこそ数えきれないほど行ってきたが、それによって現実でも相手が自分のことを認識したという例はなかった。それが彼に当てはまらないのだとすればそれは何故か。そう考えたときに浮かんだのは夢の中に入り込んだ数だ。 思えば今まで誰か一人の夢にこんなにも入り浸ったことはない。

「...街中で何度も見かけたことはあります。だからかな」

 思い当たるものは隠し、口にしたのはありきたりな理由だった。

「そうだろうか......」

 納得いっていないように呟かれた言葉に肝が冷える思いだ。
まさか「夢の中で会ったことがある気がする」なんてずばり言い当てられることはないだろうけどそれでも疚しさを抱えている身からするとヒヤヒヤする。 こうして憧れて一方的に知っていただけのブチャラティと一緒にカップを傾けているなんて、ここに来るまでには想像すらできなかったことだ。なのに素直に嬉しいと思うことができないのは夢の中に入り浸り、彼の内側を少なからず知ってしまったからだろう。彼の知らないところで彼のことを知っていく...どう考えてもルール違反を起こしている。 それらから目を反らすようにカップチーノを口に含んだ。独特の苦みと甘さが今は喉にこびりつくかのように感じた。

「...いや、やはりオレは君と会ったことがある。それどころかこうして話したことすらあると思える」

 確信めいた言葉だった。一見すれば運命的な出会いを果たした男性から情熱的な言葉をかけられたかのようだが、そんなつもりの言葉だとはとても思えない。
 覚えてくれていたという喜びの感情が胸に生まれながらも疚しさを抱えているために素直に喜ぶことができない。

「気を悪くしたのならすまない。下心があって言ったわけじゃあないんだ。本当に君とは以前に会ったことがあると思う」

 何も答えずにいることを勘違いした様子で謝られたが、もちろん気を悪くしているなんてことはなく。ただ単純に言葉が出てこなかっただけだ。 「自分でもおかしなことを言っているという自覚はあるんだ」

 一息つくようにカップに口をつけているブチャラティは、夢の中で何度も見たことがある。夢の中ではそのカップの中身の液体を私が淹れたこともあった。
 夢と現実が混じりあって境界が曖昧になってしまいそうな既視感を覚え、そんな自分を戒めるためにカップをぐいっと一息に飲んだ。
まだ熱を持っているそれによって口内が悲鳴を上げたが、声は上げずに済ませた。

「口説かれてるのかと思っちゃいますよ」

 少しおかしくなってしまった空気を消すために冗談っぽく明るい声で返す。
ブチャラティは軽く目を開いたかと思えば、少し考えるように黙り込んでしまった。冗談っぽく言ったつもりだったけど、本気に聞こえただろうか...。 願望が混じっていることは否定できないが、まさか口説かれるとは図々しすぎて思えない。

「あの、もう行きますね。そろそろ時間なんで。ありがとうございました」

 このままここに居ればボロが出るのも時間の問題のように思えた。夢の中でしか接したことがないとはいえ、ブチャラティ相手に誤魔化せると思えるほど自分を過信してはいない。名残惜しいという気持ちはもちろんないわけではないが、それよりも自分が何を言ってしまうかのほうが怖い。 バッグを掴んで慌ただしく椅子をテーブルへと押し込む。引き留めるような声が聞こえた気がしたが、それが願望なのか現実なのか確かめることもせずにバールを後にした。
 手にハンカチを握ったままだったことに気づいたのは、仕事に戻ってからだった。





(20190430)