話し声が遠くのほうでするような気がして、意識が徐々に浮上した。
 寝起き特有の気怠さと頭の重さに抗い、無理やり目を開ける。

「うるせえ、頭いてぇんだからでかい声出すんじゃねぇよ...」

 目の前に人が居たことに一瞬心臓がひやっとしたものの、すぐに昨夜のことを思い出して焦ることもなかったのだと思いなおす。
 こちらに背中を向け、ザップさんはどうやら電話をしているようだ。昨日窮屈そうだったので白い上着は脱がしたので黒いインナーが見えている。
 シャワーを浴びた後、眠る場所もないのでしょうがなくザップさんとベッドを一緒に使うことにしたのだ。 一人では十分の広さに感じたはずなのに、図体の大きな人と一緒に眠るにはベッドは小さかった。
距離を取りたかったのだがそうもいかず、妥協してザップさんを端っこに寄せ、間に枕を置いておいたのだけど...枕は見えるところにない。

 携帯を耳に当てながら身じろぎしているザップさんを見ていると、ゆっくり体を反転させている。
いやにゆっくり動くのは私が寝ていると思って配慮しているのだろうか。
 この人もそんな配慮ができるんだ、と感心していると、今まで話し相手にばかり向かっていたらしい意識がこちらに向けられたのが目の動きでわかった。

「うおっ!!」

 目が合ったと思うと声を上げたザップさんの驚きは、ベッドのマットレスの振動で伝わって来る。
 目をまん丸にして驚いている様子は、いつもの人を食ったような表情と比べるとギャップがあり、思わず吹き出してしまった。

「...テメー何がそんなに面白いんだ? アァ?」
「いひゃいひゃい!!」

 笑ったことで気を悪くしてしまったらしい。遠慮というものを知らないザップさんに、思いっきり頬を引っ張られた。 シーツにぺたりとくっつけていた右頬はかろうじて助かったものの、左頬は重症だ。 こぶとり爺さんのように頬の肉を持っていかれる想像をしてしまった...。
抗議の意味でザップさんの手を叩くが、あまり意味がないらしくて離れない。

『ザップさん! 聞いてんですか!? スティーブンさんがずっと笑顔でザップはもしかしてまだ寝てるのか? って聞いてくるんスよ...!!』

 放り出されたスマホから聞こえたのは少し高めの男の子の声だ。途端、急に興味を失ったみたいに視線が逸らされ、頬が解放された。 きっと赤くなっているであろう頬をこれ見よがしに撫でるが、ちらっとこちらを一瞥しただけでもちろん謝られることもない。

「今行くっつの。ザップさんは寝てたわけじゃねぇ道中次々と襲い掛かって来る刺客と戦ってた、って適当に誤魔化しとけよ!!」
『いや刺客って誰っスか?! 無茶苦茶言わんでくださいよ!!』

 少年の抗議も空しく、ザップさんはそこで通話を切った。
 かわいそうに、きっと電話の向こうの少年はスティーブンさんとやらと、ザップさんの間に挟まれているのだろう。

「上着なら椅子の上です」

 まだ倦怠感から抜け出せずにいる私と違い、ザップさんはさっさとベッドから出て行った。布団に名残惜しさを感じている様子もない。
 もしかしたら寝起きはいいほうなのかも。そんなことを思いながら声をかければ、こちらを一瞥してベッドを回り込んで椅子のほうへと歩いていく。
 ジャケットは皺など気にならなさそうだったので、適当に椅子の背もたれにひっかけるようにして置いといた。
 ジャケットを見つけ、サッと腕を通したザップさんを眺める。無造作に襟を正している仕草に、まだぼんやりしている頭が感想を述べた。

―――もしかしたらザップさんはかっこいいのかもしれない。

 ふと浮かんだ言葉に、自らの思考にバカか! と怒鳴りたくなった。ザップさんのことなんかをほんの少しでもかっこいいと思ってしまったことを認めたくはない。それどころか、脳がバグってしまったのかもしれない……という恐怖を覚える。

「命の恩人ですね」

 認めたくなくて、ついそんな意地悪な言葉を口にした。
 朝のやり取りをしたのは二度目だが、あの時と立場が入れ替わっていることに気づいたのは昨日だ。 ゲロを吐かれることはなかったものの、ザップさんの言うところの命の恩人に私はなったんじゃないだろうか、と思っていた。
 ザップさんの眉根がぎゅっと寄ったことにより、自分がにやにや笑っていたらしいことに気づいた。

「安心してください。私は誰かさんみたいに感謝の気持ちをカツアゲなんてしないので」

 珍しくザップさんを黙らせることに成功したかと思い、得意げな笑みがどうしても浮かんできてしまう。
 だが、ザップさんがこんな嫌味一つに負けるわけがなかったとすぐに思い知らされることになった。

「ゲロ吐き女のくせに生意気言うじゃねぇか! アァ?!?!」
「ぎゃー!!」

 ずんずんとこちらに大股で近づいてくる様子に危機を察知し、すぐさま布団の中に潜り込もうとしたがザップさんのほうが早かった。
ベッドの上に飛び乗ったと思うと、うつ伏せで寝そべっていた私の腰の上に乗り、首に腕を回して締め上げてきたのだ。
強制的に海老反りの姿勢にされ、背骨がミシミシ軋む幻聴を聞いた。

「ぐるじいっ!! ぐるじいですっ!!」
「アァ? あんだって? よく聞こえねぇーなぁ」
「ごめんなさいー!!!」
 ケケケ、と悪魔のような笑い声をあげるザップさんにようやく解放され、そのままシーツにに倒れ込む。
 相手が女であろうと容赦しないとはある程度予想していたものの、その予想がおおよそ通りであったことが証明されてしまった。

「じゃあ行ってくら」

 朝の運動を済ませたみたいにどこかすっきりした表情のザップさんを恨めしく睨む。
 とても女相手に容赦なくプロレス技をかけるという悪質な行いしたとは思えないさわやかさだ。

「いってらっしゃい...馬鹿ヤロー」
「あン? 誰がなんだって?」
「なんでもないです」

 ようやく出ていくと思ったところで踵を返してこようとしたので、慌てて布団の中に隠れた。
そろっと布団から頭を出して伺えば、ちょうどザップさんが出ていくところだった。背中だけで怠そうなのが伝わって来る。 さっき少年に言っていた「刺客と戦っていた」という言い訳はどう考えても無理があると思う。
 かちゃ、とドアが閉まったと同時に施錠された音が聞こえる。
 そういえばザップさんって仕事してたんだな...と、今更なことに気づいた。
何の仕事をしているんだろう? と、当然ともいえる疑問が浮かんだが、想像しようにもそもそもザップさんが仕事をしている姿というのが上手く頭に描くことができなかった。

「また今度聞いてみよ」

 小さく呟いた声は、静かになった部屋に思いのほか響いた。


(20200524)