水曜日のおとこのこ



「あ」

微かに聞こえた声に足を止めたのは、本当に偶然だった。
振り返った先に見つけたのは、ひどく懐かしい顔だ。

「...食満くん?」

思いがけない再会に目を見開けば、視線の先で気恥ずかしそうな拙い笑みが返って来る。
遠いところで聞こえた音に視線をそちらに移せば、ちょうど電車がホームへと入って来るところだった。 強い光を浴びた目が一瞬眩む。
光に目が慣れるよりも先に電車が滑り込んできた合図の音が響いた。

「乗らなくていいの?」
「あ、はい。これじゃないので」

どこか他人行儀にも思える畏まった言葉遣いの彼に違和感を覚え、じっと見つめてそういえば彼が学ランを着ていることに気づいた。
私と同級生のはずの彼が何故それを着ているのか。
え、と思わず声に出せば、何に驚いたのか察した様子で声が返って来る。

「気づきました? 俺、弟の留三郎です」
「...ええっ?」

驚きの声を上げた私に留三郎くんは嬉しそうに笑っている。先ほどの拙い笑いではなく、人懐こく目を細めて笑う表情にずいぶんと昔の記憶が掘り返された。その顔に既視感を覚える。が、それが彼の兄のものなのか、彼のものなのかまではわからない。
それくらい“食満くん”と“留三郎くん”はそっくりだ。

「...ごめんね、ほんとにそっくりだから食満くんかと思った」
「よく言われます」
「けど考えたら私と同じ年なのに学生服きてるわけがないよね」

声を上げて笑う留三郎くんと一緒に笑う。
いま大学生の私と同じ年のはずということは、とっくに高校を卒業しているはず。留年したとしてもいくらなんでも何年留年してるんだ、ってことになる。

「何年生?」
「二年です」
「そっか〜、大きくなったねぇ」

しみじみと親戚のおばさんのように呟けば、留三郎くんは苦笑を浮かべている。

「......食満くんは元気?」
「元気にしてますよ」

思わず留三郎くんに、長い間顔を見ていない同級生の顔を重ねてしまう。
進学先が違ったので、高校時分の食満くんの姿は見たことがないので想像しかできないけれど、きっと留三郎くんとそっくりだっただろう。中学生の頃で食満くんの記憶は止まっているというのに、なぜか目の前の留三郎くんを見ていると懐かしさを覚える。
そこで会話は途切れた。そう親しいわけでもなく、ましてや何年かぶりの再開だ。 これ以上何を話せばいいのかも思い浮かばず、いつもこの時間? と、尋ねたところで待ちかねていた電車がやってきた。
思わずホッと息を吐くと、外気に晒されたそれは白い靄として目視できた。

「あ、電車だ」
「ほんとだ」

ここで別れることになるかと思われたが、よく考えれば私と彼のお兄さんは同じ小学校の同級生だったのだ。つまり同じ学区内に家がある。
自ずと同じ電車に乗ることになり、少しの気まずさを覚えたものの、それは杞憂だった。 というのも、車内は帰宅のために電車を利用している人でいっぱいだったからだ。授業やバイトなんかをしていると、この時間帯に電車に乗り込むことがあまりないので忘れていた。 この時間帯はとんでもなく混みあっているのだ。
留三郎くんにばかり意識が向いていたので気づかなかったが、いつの間にやらホームにも人がいっぱいで、すでに人がそれなりに乗っている電車に留三郎くんと一緒に乗り込むと後ろから人が入って来る。
自ずと体が触れ合う距離まで近づくことになってしまった。

「すごい人だね」
「ですね」

少し高いところにある顔に向かって話しかければ、気まずげに視線を泳がせながら声が降って来る。他人とくっつくのでさえ気まずいというのに、知り合い...それも中途半端な知り合いと密着するのは気まずい。留三郎くんの気持ちが痛いほどわかる。というか、その気持ちを共有していると思う。
下手に話しかけるのも...と思い、そこからは無言でただ電車に揺られた。

.
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小学生だったあの頃、高学年ではあったがまだまだ子供だった私たち。
同級生の食満くんは運動神経がよく、面白くてクラスの中でも目立つ人気者だった。つまり、小学生の時にモテる要素を持ち合わせていた。

「わたし食満のことが好きなんだ」

内緒話として告げられた友達からの告白により、私は淡い恋心を隠すことになった。
そこで「わたしも!」なんて言える度胸を持ち合わせていなかったので、自然と彼女を応援する立場になっていた。
食満くんがよく遊んでいる公園に行けば、彼女と食満くんが二人になれるように私は彼の弟の面倒をみていた。
他にもいる同級生の男の子達の輪の中に入るにはまだ小さい留三郎くんは、見ておかないと何かあると大変だと母親に食満くんは言い含められていたらしい。時折弟を気にする素振りを見せる食満くんに「彩が見てるから大丈夫だよ」と友達が言うので、いつの間にかそういう役割になってしまっていた。
そこからは食満くんが小さな弟を連れてきたときには、私が面倒を見ることが“決まり”になった。
留三郎くんは私に懐いてくれたので、それをかわいいとは思ったものの、相手が小さな子となるとこちらが自ずと合わせる立場になるので、楽しいというのとも違う。

そんな日々はクラス替えをすると徐々に減り、終いには食満くんと遊ぶこともなくなった。ましてや食満くんを通しての知り合いである留三郎くんに会うことはなくなった。
なので、今こうして一緒に帰りながら感じるのは喜びではなく、気まずさだ。


降りる駅はやはり同じだった。留三郎くんと、人であふれ返っている車内から抜け出し、ひんやりした空気が漂っている道を歩く。街灯はあるものの空が黒く塗りつぶされた夜道を歩くのは心許ない気分だったのが、今日は一緒に留三郎くんが居ることでそれも和らいでいる。
だが、また違う微妙な居心地の悪さに、さっさと家に帰りたいという気持ちは変わらない。

「留三郎くんは家どこだったっけ?」

記憶が正しければ、食満くんの家はうちとは反対方向と言ってもいいくらい離れていた気がする。

「そんな遠くないんで送っていきます」
「ええ? いやいや、高校生に送ってもらうなんてそんなのできないよ」

思いがけない申し出に驚いてしまい、自分で考えていたよりも大きな声が出てしまった。
私が知っている留三郎くんは公園の砂場で砂を山のように盛ったり、滑り台を一人で怖々と登り、その天辺で「彩ちゃん! 見てみて―! すごい?!」とか言ってたのだ。それが一丁前に私を家に送り届けるというのだから驚かないわけがない。

「彩、さん、女性一人だと危ないし...」

おぼつかない敬称もだけど、大人びたことを言ったことにも思わず笑いがこみ上げてしまう。
それに、夜道とはいってもまだそこまでの時間じゃない。なんだったらバイトや飲み会がある日のほうが帰りが遅いのだから。私からすれば早いほうだ。
だけどもちろんそこまで知っているわけではない留三郎くんは、私が笑ったことで心許ないような表情になってしまった。

「ありがとう、けどいつものほうが時間も遅かったりするから大丈夫だよ」
「...はい」

口を引き結び俯いての返事に、少年の矜持を傷つけてしまったのかもしれないと思い至ったが、だからといって返事を翻すこともしなかった。もちろん、この申し出が嫌だったわけではなく、むしろその気遣いが嬉しかったので傷つけてしまったかもしれないことを考慮してフォローの気持ちでなんてことないような会話をするために口火を切った。

「じゃあ私こっちだから、バイバイ。留三郎くんも気を付けて」

手を降って挨拶すれば、控えめに手を振り返してくれたことに思わず口角が上がった。





(20200430)続きます