微妙なお年頃






時計の針はちょうど4時半を指していた。太陽が色を変えるほんの少し前だ。
橙色でも眩しい黄色でもない太陽が西向きの窓から見える。隣の家の部屋の住人がまだ帰って来ていないことを確認してから 私は女子高校生である事を主張する制服を脱いだ。それをハンガーにかけてからコンポの電源を入れる。CD再生 ボタンを押すと、入れっぱなしにしていたお気に入りのアーティストの音楽が流れてきた。
すでに頭の中に歌詞もリズム も入っているそれを私はテレビの中でしか見たことが無い人と一緒に歌っている気分で声を重ねた。
家の中で着るようにと買ってもらった、ウエストがゴムになったストレッチ生地の緩いズボンに足を通し、上には適当な シャツを着た。自転車をこいで帰ってきたので熱く感じ、ズボンを太ももまで折り込む。それから、 少し小腹が空いたと思い、帰ってきた時に下でお母さんから貰ったポテトチップスの袋を開けながらベランダに出た。
ベランダに出ると気持ちのいい風が髪を巻き上げていく。ゴムで髪を纏めればよかったと思いつつ、めんどくさいのでその ままベランダに腰を下ろした。転落防止のために等間隔に並べられた柵の棒の間に足を突っ込み、宙にぶらぶらと浮かせる。
靴下も脱いだ今、涼しい風が指の間まで通っていくようですごく気持ちがいい。コンポから流れる音楽を口ずさみつつ、 ポテトチップスを口に運ぶ。やっぱりコンソメ味は美味しい。
学校も終わり夕食までの限られた自由な時間、この時間が私は一番好きかもしれない。夕食を食べてからだと、お風呂に 入らないといけないし、テレビを見ないといけないし、友達とメールをしなくちゃいけないし、 次の日の学校の用意をしなければいけない...なんて、なんだかんだと時間に追われ忙しいのだ。こんな事をお母さんに言えば いくつも必要の無いのが入っている! なんて指摘されかねないので口には出さないけれど。
喉が渇いたと思い、そういえばさっき烏龍茶をコップに入れて部屋に運んできたのだと思い出した。振り返ると、机の上に 私のコップがおいてある。きちんと氷まで入れたそれはきっとキンキンに冷たいのだろう。
...飲みたい。だけどここから動くのが億劫だ。
隣の家の部屋の住人はまだ帰って来ていない様子で、パシリに使うことが出来ない。

「...全く、どこをほっつき歩いてんだ」

自分勝手な文句(という事は自覚済みだ)を呟くも返答は返って来ない。柵の棒の間に頭を突っ込み、右隣の家の玄関を見つめて みる。確か今日は部活が休みだと言っていたはずだ。それなのにもうすぐ5時になる。
ポテトチップスの袋に手を突っ込み、一枚取り出すと濃い茶色のパウダーがたっぷりとついたチップスが出てきた。
ラッキー、と何だか得した気分になりつつ口の中に放り込み咀嚼していた時だった。高い女の子特有の笑い声が聞こえた。
野次馬根性丸出しで柵の棒の間に再び頭を突っ込み、さっきの女の子の声の主を探す。すると、その女の子はすぐに見つかった。
右隣の竹谷家の前で話をしていたのだ。紺と白を基調にした夏服のセーラー服に身を包み肩までの真っ黒の髪をした その子は、はっきりとはよく見えないが、雰囲気的に可愛らしい子に見える。そしてそんな可愛らしい子と向かい合って 立っていたのは驚くべき事に、ハチだった。
思わずあんぐりと口を開けて、まじまじと見てしまう。私に今すぐキンキンに冷えた烏龍茶を渡すという使命を果たさなくては ならないはずのハチは可愛らしい女の子と何か話をしていて、笑い声が私の居るベランダまで丸聞こえだ。
女の子の笑い声は媚びる様な甘さを含んでいて、その声を聞くだけでハチに気があるのが分かる。
...女の子と放課後ランデブーしてたから帰ってくるのが遅かったのか。

「...なまいきー」

私だって彼氏なんて居ないのにまだ中学生のハチに彼女が居るのが面白くなくて半目で初々しい二人を見つめる。
何となく食欲が失せて、手に持っていたポテトチップスの袋を半分に折りたたみ横に置く。手に付いたコンソメパウダーを 舐め取って、服の端で拭いてから上体を後ろに倒し寝転んだ。ぶらぶらと、柵の間から出した足を揺らしながら目を瞑る。 控えめな音量で音楽が耳まで届く。けれど、なんとなくさっきみたいに気分良く歌う気にならなくてそれを聞くだけにする。
夕飯までにはまだ時間が掛かるだろうか。無理やり今見た光景を頭の中から追い払おうと、そんな事を考えつつ目を瞑っていると、隣の部屋の窓が開く音がした。
続いて「おーい」と言う声。それはきっと私に向けて掛けられた声だった。

「んー」

目を開かずに生返事を返すと、また窓の開く音。

「よっ」

聞きなれた低い声が聞こえたのでゆっくりと目を開くと目の前に逆さまのハチが居た。
ばっちり視線が合うと、いつも の“満面の笑み”と形容するだろう笑みをハチが浮かべた。

「寝てんのかと思った」
「起きてたよ。あ、そこのコップ取って」

上体を起こし、可愛らしい彼女が居なかった頃と同じ態度のハチに机の上のコップを取ってくれるように頼むと ハチがそれを手に取り、私に渡してくれる。受け取ると中の氷はもうすっかり解けていて、コップの表面は たくさん汗をかいていた。この分だと机の上は結露の水溜りが出来ているかもしれない。
手に付いた水滴を振り払ってからコップに口を付けると、冷えた烏龍茶が喉を流れていった。

「っはー!」
「おやじくさっ」

ハチの言葉なんて無視して私は一気に飲み干し、空になったコップを右隣に置いた。すっかり潤った喉と、体の熱が冷めて きた気がして太ももまでたくし上げていたズボンを下ろす。すると、いつの間にか左隣に座っていたらしいハチの視線が 私の太ももにあることに気付いた。

「なに見てんの」
「えっ?!」

明らかに挙動不審なハチは視線を行ったり来たりさせている。そんなバレバレな態度を取るくらいなら最初から見なきゃ いいのにと呆れつつ、可愛らしい彼女が居るくせして他の女に目移りするとは何事だ! と良く分からない苛立ちのような ものが湧いてくる。

「彼女居るくせに...」

思わず小さく呟いてしまった。
伺うように左に居るハチを見てみると何だか間抜けな顔をしてこちらを見ている。まるで私の言った言葉の意味が分からない ようだ。

「さっき一緒に帰って来てたでしょ? ...女の子と、」

ハチはくるりと目を回して私の言った言葉について心当たりを探しているようだった。
探さなくたって彼女の事なのに分からない のか? それとももしかしてあの子は彼女じゃないんだろうか?
眉間に皺を寄せてハチをじっと見つめると、 ハチは私の視線に慌てたように「あぁ!」と納得するような声を上げた。

「生意気な奴め!」

やつあたりとは自覚しつつ、ハチの足を平手で叩くとジーンズを穿いていたのでそう痛くないだろうに「いてっ」と大げさ な声を上げた。それから私を恨みがましい目で見ながら、今さっき叩いた所を擦っている。
なんて大げさな奴なんだ。とハチに呆れながらも自分から手を出した事には見て見ぬふりをする。

「あれ、ただの友達」

私の右隣にあったポテトチップスの袋に気付いたハチは膝を地につけたまま手を伸ばし、私の上に覆いかぶさるようにして 袋を取った。一瞬、ハチの着ている白いシャツで視界がいっぱいになる。ツンと匂ったのは汗の匂い。
隣でがさがさぱりぱりポテトチップを食べているらしい音を聞きながら、今のハチの言葉を頭の中で繰り返す。
...友達。
...ただの。

「...ふーん」

がさがさぱりぱりの音が止んだ。隣に視線をやるとハチが何やらにやにや笑っている。何でにやにやしているのか 分からないが、その顔に腹が立ったので自然と眉間に力が入った。

「何?」
「いや、」

それだけ言ってハチはますます顔をにやけさせた。
そして私の眉間にはますます力が入る。

「...もしかして、妬いてんの?」
「...はい?」

呆気にとられ、口をぽかんと開けながらハチを凝視する。すると、今さっきの自分の発言が急に恥ずかしくなったのか、 ハチの顔がみるみるうちに真っ赤になった。
意味が分からない。勝手に自爆した。
真っ赤な顔を未だに晒し続けるハチに、私は手を伸ばし頬を引っ張ってやった。

「...やめひょよ」

すぐに抗議の声を上げるハチを無視して私は間抜け面のハチを見た。まん丸に目を開いて、少しだけ迷惑そうに眉根を寄せてハチも私を見ている。 ハチのほっぺたは小さい頃のぷよぷよした感じが少しも残ってなくて、身が詰まっていない触り心地の悪い、固い ほっぺただった。引っ張ろうとしても伸びない。

「彼女なんて、ハチにはまだ早いから」

伸びないほっぺを平手で叩くと、ぺちんと音をたてた。だけどハチはさっき足を叩いた時のように大げさに声を上げたり しなかった。ただ黙って呆けたような顔をしただけだった。その顔色は真っ赤といっていいほどに赤い。





"ただの友達。"
ハチの口から聞いた瞬間に安堵するように思わず小さく息を吐いたことには気付かないふりをして。







(20100920)