過去と決別する頃 ガチャ 鍵が穴に差し込まれた僅かな音で、うつらうつらと夢と現実の間を行ったり来たりしていた意識が覚醒した。 ハッとして目を開くと辺りは すでに暗闇に覆われていた。寝起きのぼやける視界を少しでもクリアにしようと目を擦ると、目の前が急に明るくなった。 ちかちかと二度ほど点滅したかと思うと、パッと光りが降り注ぐ。突然の光りに目が慣れず、眩しさに眉根を寄せれば 間抜けな声が耳に届いた。 「...ぅわっ! ...びっくりしたー」 三郎居たんだ。大げさにその場で小さく跳ねて驚きの声を上げたは一瞬止めていた歩みを再開させ部屋の中に入ってきた。 手に持っていた鞄と上着をそのまま無造作に俺が寝転んでいるソファーの前に投げて、洗面所へと歩いていく。 「居ちゃ悪いか」 その背中に投げかけた言葉は自分で考えていたよりも不機嫌に響いた。声も寝起きだから掠れて低い。 けれどもそんな俺の態度を気にも留めない様子のはいつもの調子で「悪いなんていってないじゃんかよ」と返してくる。 温度差が激しい事に果たしてあいつは気付いているのだろうか。あっけらかんとしたの態度が鼻について、睨むように して洗面所に向かうその背中を見つめる。 すぐに水の流れる音が聞こえた。消えた背中から視線を下に落とせば、上着がくちゃくちゃになっていた。 ...皺になっても俺は知らないぞ。大体、放り投げる前にハンガーにかければいいんだろうが。 胸中で呟いていると、が洗面所から戻ってきた。一瞬、俺に視線を向けたかと思うとそのまま何事もなかったかの ように台所に入っていった。その行動が何を意味しているのか察した俺はすかさず声を上げる。 「俺、紅茶、あったかいの」 寝起きにしては張り上げた声を出せば、台所から「うざー!」という言葉が聞こえた。それに思わず口元が緩む。 まだ寝たりないからか自然とあくびが出たが、もう眠る気分ではなかった。起き上がり、一度ぐっと両腕を上空に 向かって伸ばす。ぱき、と体のどこからか音が鳴った。それから、しょうがないと下にほったらかしにされていた、 の上着を手にとり、適当にハンガーに吊っておいてやる。 「おらよ!」 「さんきゅ」 言葉のわりにテーブルに置かれたカップの中の琥珀色の液体は緩く波立っただけだった。すぐに液体の表面は静かになった、 湯気の立つカップを手にとるとじんわりと手が暖められていく。あまり熱過ぎるのは好きではないので、口はつけずに 手から伝わる熱を感じていると、が隣に座った。沈み込むソファーの感触に合わせて体を傾かせると、すぐに文句 が飛んでくる。 「おいおい、そんなにソファー沈んでないでしょ!」 「いや、沈んだ」 「沈むわけあるか」 「沈むわけある」 「...」 「...」 妙な沈黙が流れる。はじっとりとした恨みがましい目つきをして俺を見ている。それに俺は出来るだけ何も知らない 分からないと、無邪気な顔をして見返す。それでもその視線が消えることはなかったのでふーふーと紅茶に息を吹きかけたりしてみる。その間もは俺のことを黙ってみていた。 そのじっとりした視線には気付きながらも完全に無視して俺は紅茶に息を吹きかけ続ける。 今日の俺は少し虫の居所が悪いからしょうがない。 知らず知らずに胸中で紡いだ言葉はこの行動を正当化しようして言い訳染みたものだった。それにバツの悪い思い を抱きながらも俺はそれさえも知らないふりをした。 「...」 「ふーふー」 部屋の中は俺が紅茶を冷まそうとする音しか聞こえない。は流石に俺のこの態度に対して何か感じているかもしれない。 自分でも幼稚なのは良く分かっている。それでも、どうにも今の俺は些細な事でも気に触ってしまう。 誰のせいで虫の居所が悪いのかわからないのか! からしてみれば理不尽だ、と思うだろう呟きを飲み込み、紅茶の中に吹き込む。 「ほぅー...」 低く隣から聞こえてきた声に視線をそちらに向けそうになり、ぐっと我慢する。 耳まで何も届かなかったと依然聞こえないふりをして、一心に紅茶の中を覗き込む。 「そんな生意気な三郎にはこれあげない」 "これ"と指された物が何であるのか気になり、そろっと視線を上げれば腹の立つことに得意げな顔をしたがこちらを見ていた。 自分の言葉でまんまと俺を釣る事が出来たのが嬉しいらしい。それに多少の苛立ちを覚えながらも"これ"が一体何で あるのか確認しようとの手を見れば、ナイロンの袋を握っていた。"これ"とはそのナイロンの袋に入っているもの の事だろう。目を凝らし、その曇ったナイロンの中身を見ようとするとが袋の中に手を突っ込み茶色い何かを出した。 「チョコクッキー、作ったんだ」 そう言うとそれをひょいと口の中に放り込む。一口サイズの丸いそれはの口の中でさくさく音をたてて粉々になったようだった。 「ん」 ナイロンの袋からまた一つクッキーを取り出してから俺に袋ごとクッキーを差し出してくる。それを受け取りながらも がさがさと音をたてるナイロンの袋を半目で見つめる。 「なに?」 片手にカップを持ち、もう片方の手にはクッキーを持ったが不思議そうに俺を見つめる。 俺が考えている事はさっぱり予想がつかないらしい。 「...いや、ナイロンの袋のまま渡すか?」 俺の言葉にきょとんとした表情を浮かべるには俺が言いたい事が伝わっていないらしい。 何いってんだ? こいつ。みたいな顔をしながら、また一口紅茶を啜り、クッキーを口の中に放り込む。 さくさくさく... ごくん クッキーが無事、の喉を通過したのを見届けてから話の続きを促すためにじっと見つめる。 もじっと俺を見返している。そしてやっと口を開いた。 「あのさ、」 客に対して普通ナイロン袋に入ったクッキーなんか進めてくるか? おかしいだろ。皿とかに入れてくるもんじゃないのか? いくら幼馴染でもこれはちょっとないだろ。 その俺の文句が珍しい事に通じたらしい。 「食べないなら返せ」 「...」 返せ。と手を差し出してくるには、やはり俺の言いたい事が伝わっていなかったらしい。いつのまにか視線もクッキーの 入ったナイロン袋に一直線に向かっている。これみよがしに大きなため息を吐くも、視線は俺の右手に握られた ナイロン袋から剥がれない。その姿は小学生時分の帰り道、学校の給食で残してきたパンをやっていたポチにそっくりだ。 俺が給食袋からパンを入れてあるナイロン袋を取り出すのを一心に見つめていたポチ。一口サイズに千切って投げれば 空中でキャッチしていたポチ。手からパンをやろうとすると手ごと食べようとするポチ。おかげで手を怪我した数は 一度や二度じゃない。だが、どんくさいは俺の倍以上もそれで怪我をしている。 未だに元気なポチ。あの見事な空中キャッチを今も出来るのだろうか。給食なんてない今はポチにやるパンもないので すっかりご無沙汰だった。もちろんそれはも同じだ。 小学校などとうの昔に卒業した俺は高校生で、は大学生だ。あの頃とは比べ物にならないほどお互い、頭も体も成長して変化したはずだ。 それなのに、だ。 あの頃からこの気持ちは変化しないし、この関係も変化しない。 それをもどかしく感じている部分もあり、どこかで安堵している自分も居る。 そのくせ今日みたいにサークルでの飲み会がある、とから聞かせられると厄介なことに嫉妬心が現れる。もしかすると変な男に ちょっかいをかけられてないかとか、酒を飲みすぎたりしないだろうかとか、そのサークルに気になる奴はいないのだろうかとか、 何で俺はまだ高校生なんだ、とか。 それがかっこ悪いと思いながらも隠せないところがますます情けない。八つ当たりのようにに接してしまうも、は どこ吹く風というように気にしていない様子だ。小さい頃から一緒に居たんだ、そういう時の俺の扱い方を心得ているのかもしれない。 生意気にも。それともただ単に気にしていないのかもしれない。 クッキーの入った袋を未だに返そうとしない俺に痺れを切らしたらしく、は差し出していただけの手を伸ばし俺から 袋を奪っていこうとする。それを寸でのところで避ける。 途端ぶすくれた顔をするに俺は思わず小さく笑みを零した。 そうだ。いつだっては不機嫌な俺を最後には笑わせてしまうのだ。 「変な顔」 笑いながら指摘すると、てっきり怒り出すと思っていたはきょとんを目を丸くさせたかと思うと、嬉しそうに笑った。 「余計なお世話じゃばーか!」 今更指摘するつもりもないが、この口の悪さはどうにかならないのか。少し呆れながら見るも、は ご機嫌に紅茶を啜ると、次に悪戯っぽい笑みを浮かべて何か企んでいる顔でこちらを見た。 俺はビニール袋の中に手を突っ込みクッキーを一つ掴む。 「機嫌直ったのかよー、はーげ!」 やっぱりは気づいていたらしい。分かっていていつも通りだったのか。照れ隠しにかいつも以上に口が悪いから視線を反らす。 むずむずとした感覚が全身を駆け巡っていくのを感じる。それを誤魔化すために手に掴んだクッキーを口に放り込んだ。 さくさくと音をたてて砕けていくクッキーを食べながら言葉を紡ぐ。 クッキーは甘い気がするが、あまり味が分からない。 「はげてないし...」 好きだ。やっぱり、誰にも渡したくない。 沸々と胸の奥からどうしようもない感情が湧いてくる。 そのためにはいつまでも前に進まないままじゃ後悔することになる。“年下の幼馴染”というポジションから抜け出さなければいけないのだ。 きっとそこから抜け出す事は容易ではないと思う。それでもそれを苦に感じないのは、そういうことなのだろう。 まず、年下の幼馴染からの脱却の手始めとして家にあった食パンを持ってと一緒にポチに会いに行こうか。 幼かった俺たちと決別するために。 (20110130) |