特別を求める頃 年の差を埋める方程式とかないのかな。 このたくさんの数式の中にそういうものがあるのならきっと私はもっと力を入れて勉学に励む事が出来るのに。 手の中のシャーペンをくるりと回すと、手が滑ってシャーペンが参考書の上に落ちた。芯から落ちたそれは、ぺきっと 音をたててあっさりと折れた。クラスの男の子は簡単そうにくるくる指の間でシャーペンを回していたのに...。 なんだかやる気が出ない。受験生の心は繊細なのだ。こんな些細なことでもやる気がなくなったりする。 立ち上がって窓辺へと歩く。自然と目は向かいの家の駐車場へと向かった。そしてそこにあるべきはずの自転車がまだ 帰って来ていないのを確認して小さく息を吐いた。 最近は帰ってくるのが遅い。部活をしてると聞いたけど変な風に勘繰ってしまっていけない。だって受験生の心は 繊細なんだから。 . . . リビングでお菓子をつまみながらソファーに座ってドラマの再放送を見て笑っていると鋭い視線が後頭部に刺さった。 痛いほどに感じる視線に、そそくさと立ち上がり通学鞄を引っ張ってきてテーブルの上に参考書だとか筆記具をばら撒く。 格好だけでも“受験生スタイル”を繕おうとしたのだ。受験生だとこんなことにも気を使わないといけない。 指についたチョコレートを舐めてから昨日の続きをしようと参考書のページを捲る。 再放送も終わり、本格的に参考書と睨めっこしていると不意にピンポーンという呼び鈴の音が鳴った。私が動くより 先にお母さんがインターフォンに出たのを確認してまた参考書に視線を落とす。ずらりと並べられた文字を目で追っていると、 不意に生臭い匂いがしたので「くさっ!」と思わず声を上げた。ソファから後ろを振り返ってキッチンの方を見てみると お母さんがダンボールをあけているところだった。さっきの訪問者はどうやら宅急便の人だったようだ。 「あ、秋刀魚」 そう言って私に見えるように秋刀魚をお母さんが持ち上げた。送り主はおばあちゃんのようだ。こうやって時々おばあちゃん は果物や魚や漬物やおじいちゃんが取ってきたパチンコの景品であるお菓子なんかをダンボールいっぱいに詰め込ん で送ってきてくれる。匂いから察するに多分ダンボールの中には漬物も入っているだろう。秋刀魚の生臭い匂いと 漬物独特の匂いが混じって、今部屋の中には出来る事なら息を止めていたい匂いが漂っている。 「...二...四...六...」 秋刀魚の数を数えているらしいお母さんの声を聞きながら私は先ほどから頭を悩ます参考書を見つめた。 我ながら汚い字だと思いながら広げられたノートに文字を綴っていく。まぁ、読めればいいんだ。とすでに改善する つもりもない私は友達の女の子達が色とりどりのペンで作っていた小奇麗なノートは一生作れないと思う。 そういえばこの間買った匂いのするピンクのペンどこに置いたっけ? 気になった私はさっそく筆箱の中を漁り 始める。自分でもこういう時だけは行動が早いと思う。 桃の匂いのするピンクのペンで、店頭で嗅いでみたところとてもいい匂いがしたので買ったのだ。 「ー」 「んー」 名前を呼ばれ、適当に返事をしながらも私は筆箱の中にあるはずのピンクのペンを探していた。 もしかしてまだ一回も使ってないのにどこかに落としてきてしまった? がちゃがちゃと筆箱の中身を掻き混ぜる事に 焦れて、私は机の上に筆箱を逆さにして振った。机の上にペン類や定規に消しゴムとかがやかましい音をたてながら 落ちていく。ついでに消しゴムのかすやぐちゃぐちゃのメモ、ホッチキスの芯なんかも落ちる。 汚いなー、と自分の筆箱なのに他人ごとな感想を述べながら乱雑に机の上に放り出されたペン類の中に目を凝らすと 探していたピンクのペンが見つかった。 「あったー」 「え? なにが?」 「この前買ったペン」 「そう」 実にどうでも良さそうなお母さんの言葉を聞きながら私は机の上の惨状に目をやる。 片付けるのめんどくさいな...。 「ペンはどうでもいいから秋刀魚おすそ分けに行ってきて」 振り返るといつの間に後ろにいたのか、手に秋刀魚の入ったナイロンの袋を持ちながら机の上の惨状に眉を顰めてお母さん が立っていた。隠す気ゼロなスケスケビニールの中には開いて干物にされた秋刀魚が居た。 「えぇ〜、やだよ。今忙しいし」 目が合ったような気がして秋刀魚から視線を逸らしながら“忙しい”の意味を示すように机の上を見る。 やっぱり時々は筆箱の中も掃除しないといけないな、と思いながら。 「...雷蔵くんちだけど?」 断るわけが無いという面白がっている視線を受けながら私は一つの単語に反応してびくっとしてしまった。 全てを見透かされていることに恥を感じて反抗心から、本当はここで断ってやりたいところだけど......己の 欲望に抗うことが出来なかった。 「...行く」 くそう! あの勝ち誇った顔! はっらったっつっ! 一歩一歩に苛立ちを込めるようにして歩くとすぐに雷蔵くんちに着いてしまった。門を出てから11歩だった。帰りは 是非とも10歩で辿り着きたい。向かいの家同士の不破さんちと私んちを隔てているのは狭い道路だけだ。行こうと 思えばすぐに行ける距離だ。けど、意外にも偶然に顔を会わせたりだとかはあんまりなかったりする。 つまり私は最近雷蔵くんと顔を合わせていない。それこそ小さい時は毎日一緒に遊んだけど、雷蔵くんが中学に入って 部活を始めるとその機会もめっきり減ってしまった。追いかけるようにして中学に入学したけれど私も部活を始めて ますます顔を合わせる機会はなくなった。そうこうしてる間に雷蔵くんは高校に進学して私はまた中学に置いてけぼりだ。 今年、運良く志望校に合格できれば雷蔵くんと同じ高校生というやつになれるわけだけども...。 わざと顔を背けて確認しようとしなかった雷蔵くんちの駐車場に恐る恐る視線をやる。 雷蔵くんの黒いママチャリは無かった。 よかったような、残念なような気持ちで不破家の玄関を目指す。いや、やっぱり残念かも。さっきまで軽かったはずの 足が重く感じる。呼び鈴を鳴らすと家の中から「ぴんぽーん」と言う音が聞こえた。続いて誰かが(雷蔵くんではないことは 確か)走ってくる足音が聞こえた。手櫛で前髪を一応整えてから右手に持っているビニールを抱えなおした。 「はーい」 「でーす」 すぐに開けられたドアからおばちゃんが顔を出した。 「あら、ちゃん! こんばんは」 「こんばんは。これ、おすそわけです。ってお母さんが」 「え! 秋刀魚?! ありがとうね〜」 にこにこしながらおばちゃんは秋刀魚を受け取った。いくら幼馴染のお母さんだからって、そろそろ敬語を使うべき かな? と思っているが今更敬語というのも他人行儀な気がして使えずにいる。 「そうだ! ちょっと待っててね。キャベツがいっぱいあるから持って行って」 「そ、そんないい...」 「いいからいいから。あ、雷蔵おかえり〜」 まさかのおすそわけのおすそわけ...? を貰うという展開にしどろもどろとしていると、おばちゃんが私の背後向かって 声を掛けた。つられるようにして私も振り返ると雷蔵くんが自転車のスタンドを止めている所だった。 目が合った。雷蔵くんがにこって笑った。胸が悲鳴を上げて縮み上がった。 「ただいま」 「ちょうどよかった。二人で話しててね」 後ろでおばちゃんはそう言ったかと思うと家の中にひっこんでいった。それに対しての返事は口の中でくぐもって消えた。 きっとおばちゃんにまで届かなかっただろう。 「お、おかえり」 初っ端から躓いたぎこちの無い言葉を誤魔化すようにへらっと笑うと、私のとは全然違う柔らかい笑みを浮かべて雷蔵くんは ごく自然に「ただいま」と言った。久しぶりに雷蔵くんと会って私、緊張してる。 「久しぶりだね」 「う、うん、久しぶり。...雷蔵くん今日も部活だったの?」 「うん。けど今日はいつもより早く帰れた方」 知ってる。という言葉は喉のところで押さえ込みながら、さり気無さを装って姑息に聞き出した“部活”という答えに 胸の中でホッと息をつく。 「ちゃんはもう部活引退した?」 雷蔵くんにとっては何気なく問いかけたものだったのだろう。けど私は虚をつかれて、驚いた。 まさか雷蔵くんが私の部活のことについて尋ねてくるとは思わなかった。ここで尋ねられ たってことはつまり私が部活に所属していたということを知っていたと言う事だ。それって会わなかった間に 少しでも私のことについて考えていてくれてたってことになるんじゃないか、なんて自分に都合のいいことを考えてしまった。 「あ、うん。夏に引退した」 「そっか。じゃあ今は受験のために勉強一筋?」 「うぅん、多分...」 勉強一筋と聞かれて自信満々に頷けるほどに勉強をしているわけではないような気がして曖昧な返事になった。 さっきだってドラマ見てたわけだし...。 それに雷蔵くんは楽しそうに声を上げて笑いながら「ちゃんって正直だよね」と言った。雷蔵くんの笑い声を聞いて いると久しぶりの雷蔵くんとの会話に緊張していたのが解れていくようだった。私と雷蔵くんの重ならなかった時間が 無くなったかのようだ。雷蔵くんも私と同じことを思ったのかは分からないけれど、さっきよりも気安い笑みを 浮かべている。 「どこの高校目指してるか聞いてもいい?」 雷蔵くんが肩にかけた鞄をかけ直しながら尋ねる。改めて見た雷蔵くんはしっかり高校生になっていた。 高校に入ったばかりの頃はまだ制服が浮いている感じだったけれど、今はちゃんと馴染んでいる。 少し言うのを戸惑ってから私は口を開いた。 「一緒のとこ...」 「え? ...僕と一緒ってこと?」 そうやって改めて言葉にされると恥ずかしさが増す。顔が赤くなっていないのを願いながら何でもないように聞こえる ように気をつけて「そう」と頷く。 「...そうなんだ」 「そうなんだよ」 目を丸くさせて呟く雷蔵くんにもしかして嫌なのかな? それとも後を追っかけるようにして私が高校選びをしたのが 分かってしまったんじゃないか、なんて不安になりながら手持ち無沙汰に前髪を弄る。視線はきれいに手入れされてる 庭を彷徨った。 ついさっきまでは二人になれたのが嬉しかったくせにこの微妙な空気(と私は感じる)をどうにかしてほしくてまだ戻って 来ないおばちゃんに早く戻ってきて欲しくてたまらなくなってくる。 「それじゃあ春からは一緒に学校に行けるね」 「え、」 庭を彷徨っていた視線が雷蔵くんに引き寄せられるかのように動いた。雷蔵くんの表情に浮かんでいたのは笑みだった。 小さい頃から変わらない柔らかい笑顔だ。この雷蔵くんの笑顔を見ると私もつられて笑ってしまう。 「あはは、気が早いよ。まず合格しなきゃ」 「確かにそうだね」 「そうだよ」 二人で笑いあった後の間が少し漂った。どこかの家から流れてきたらしいご飯の匂いがして私は空腹を覚えて雷蔵くんにばれないように鼻を すんすんと鳴らした。匂いを嗅いだからといってお腹が膨れるわけはないことは勿論知っているけど嗅がずにはいられなかった。 「それじゃあ頑張ってるちゃんにいいものあげる」 「...いいもの?」 「あ、いいものって言っても大した物じゃなくて...」 不自然に途切れた言葉の先を追おうとしたが、雷蔵くんが表情を一変させて私の背後を恨めしそうに見ているのに 気付いて、視線の先を追って振り返った。すると、おばちゃんが多分キャベツが入っているのだろうスーパーの袋を 持って何やらにやにやしながら立っていた。 「あ、ごめんね。続けて続けて」 「...母さんはご飯の用意してきなよ」 珍しい。雷蔵くんの怒ったような低い声に驚く私とは違っておばちゃんは全然気にしてなさそうというよりも、そんな 雷蔵くんの姿を面白そうに眺めてから私の手にキャベツの入った袋を渡してくれた。お礼を言うと、おばちゃんも こちらこそ。と返してきて二人でお礼の言いあいをした。お母さんにもお礼言っといてね! と言うおばちゃんの言葉に 頷いて返事をする。そのまま家の中に入って行くかと思われたけど、最後にちらっと振り返って含み笑いを雷蔵くんに投げて家の中に 入っていった。それに対して雷蔵くんがどういう表情を返したのかは家の中に入っていくおばちゃんに手を振っていて分からなかった けど、隣から小さくため息をついているのは聞こえた。ちらっと雷蔵くんを見ると、向こうもこっちを見ていて目が合った。 目を逸らすのもおかしいのでそのまま雷蔵くんを見ていると、雷蔵くんの方が徐々に目を泳がせて私から目を逸らした。 その反応に私が少しショックを受けているのを知ってか知らずか、雷蔵くんは気を取り直すように不自然な咳払いをした。 どうやら強引に話題を戻すようだ。 「えーと、それで...これ、よかったら使って」 鞄の中から何かを取り出して雷蔵くんが差し出した右手にはおまもりのようなものが握られていた。 「...おまもり?」 「うん、僕のお古で悪いんだけど...これ高校受験の時に使ったやつなんだ」 一応拭いたんだけど。そう言いながら雷蔵くんは汚れを落とすみたいにおまもりを親指で擦った。 「...いいの?」 「ん? もちろん」 「けど雷蔵くん大学受験あるよ?」 「その時はまた僕にちょうだい。で、ちゃんがまた受験になったら僕があげる」 「...なんだそりゃ」 思わず吹き出した。雷蔵くんはさもいい考えだと言いたげにわざとらしく真剣な表情で頷いた。それがまた面白くて 笑うと、雷蔵くんもわざとらしく真面目に見えるよう作っていた表情を崩して笑った。 そして、次に手を伸ばしてきて、私のキャベツの袋を持っていない方の左の手を取った。 意図が読めずとも雷蔵くんが私に害を与えるわけがないと思った私は、自然に 預けるようにして手の力を抜いた。それが分かったのか雷蔵くんが口角を上げたのが見えた。 それから握っていた私の手を開かせようとしているのか、雷蔵くんの指が一本一本、私の曲がっていた指を伸ばし始めた。 その作業はまるで花弁を一枚一枚捲っていくかのように繊細で優しい手つきで行われ、私は勝手に雷蔵くんにすごく大切にされてるような 錯覚を覚えてくすぐったく感じた。雷蔵くんに触れられてるところが火傷したように熱い。 やがて全部の私の指を伸ばすことに成功した雷蔵くんは握っていたおまもりをそっと私の手の平に乗せた。 こうしてみるとさっき雷蔵くんが言っていた汚れがよく見える。無意識にそこを親指で擦ってから、さっきの雷蔵くん と同じことをしているのに気付いてハッとして指の動きを止めた。ちらりと見上げた雷蔵くんはおかしそうに笑っていた。 それが無性に恥ずかしくて誤魔化すように私は前髪を弄った。 「...ありがと」 「どういたしまして」 「...」 「...」 「こ、このキャベツ...意外に重いかも.....」 「え! あっ、ごめん! 長い間引き止めて!」 「ううん、全然...」 ホントはそんなに重くない。思っていたよりは重いけれど、それでもキャベツ2玉の重さに耐え切れないほどに私は柔に出来ていない。 ただ雷蔵くんに見られているのが恥ずかしくって、体の変化(動悸、息切れ、顔が赤くなるなど)が徐々に現れてきた気がして この場から去れるような言葉を適当に紡いだのだ。もっと一緒に居たいけど女の子には色々と事情があるのだ。 さも重たそうに私はキャベツの袋を持ち直した。 「...じゃ、ばいばい」 「うん、ばいばい」 出来るだけ挙動不審にならないように注意しながらおまもりを握った手を振った。 それに雷蔵くんも振り返してくれる。考えてみればこの光景もすごく久しぶりのものだった。小さい頃は毎日のように 繰り返していたので何とも思っていなかったが今にして思い返してみるとひどく贅沢なことだと思った。 きっと今度雷蔵くんに会ってこうやって話を出来るのは何ヶ月も先になると思うと後ろ髪を引かれる思いで、私は 振り返った。雷蔵くんの後姿を瞼に写そうと思ったのだ。が、予想に反して雷蔵くんはこちらを向いていて、さっきの 場所から動いていなかった。その事に驚く私の顔を見て雷蔵くんは小さく笑ったかと思うと口を開いた。 「待ってるから!」 「...うん!」 今の私だったらどんな方程式だって解けちゃいそうだ。手に握ったおまもりがすごく心強く感じる。それになにより 雷蔵くんのその言葉が一番効果的に私のやる気に火を点ける力があるなんて、雷蔵くんは知らないだろう。 春に雷蔵くんと同じ学校に通えるのを想像して、私はにんまり口角が上がるのを止められなかった。 (20110421) |