いつまで経っても待ち合わせ場所に現れないマネージャーを怪訝に思っていると電話が掛かってきた。
今まさに考えていた人からの電話であると示す液晶を睨んでから、もしもし、と少し不機嫌な声で言えば、返ってきたのは謝罪の言葉ではないその店から出て右向いて歩けという指示だった。訳が分からなくてその理由を尋ねようとしたが、 早く! と切羽詰った様子で急かされ私は店を出て言われるがまま右の道を進んだ。それからも指示は続き10分ほど 歩くと一つのビルの前にやって来た。

『そのビルに入って』
「...ええー!」

どうみても敷居が高そうなビルに私は自然と及び腰になった。こんなところに入ったら、すぐにマッチョな警備員がどこからか とんできてつまみ出されてしまいそうだ。きっと首根っこをつかまれて外に放り出されてしまう。お決まりのパターンだ。

『この間渡したカード持ってる? あれ持ってれば大丈夫だから』

電話を肩と耳で挟みながらバックの中から財布を取り出した。
その中を探してこの間貰ったカードを取り出す。
理由も聞かされずにいつも持っておけと言われたので財布に入れておいたのだ。まさかこのカードがビルの通行書だったとは思わなかった。

「マネージャーさんは来てくれないんですか...」
『すぐ行くから』

...そう言われてしまえば入るしかない。私はカードを手に持ってびくびくしながらビルの中に入った。
ぴかぴかに磨き上げられた床や窓を見ながら身を縮こませて首根っこをつかまれる心の準備をするが、10歩歩いても 誰にも咎められる事は無かった。
......どうやらマッチョな警備員は走ってこないようだ...よかった...。
ホッとして息を吐き、緊張のためにかいた汗で手がべとべとするので服で拭った。

『そのままエレベーターに乗って』

入るだけじゃなくてエレベーターにまで乗れと言うのか! 私が歩みを止めたのが何故か分かったのかマネージャーが 早く! と、またしても電話の向こう側からせっついてくる。しょうがなく私はのろのろと歩き出し、エレベーターの前まで行きボタンを 押してエレベーターを呼んだ。

「今どこにいるんですか?」
『そこらへんだ』
「そこらってどこですか?」
『いいからさっさとエレベーターに乗れ!』

ホントに来るんだろうな、この人...。
私が不安に思いながらエレベーターに乗り込むと電話口から降りる階を指定された。その指定された 通りの数字のボタンを押す。上昇し始めた箱に一瞬身体にひやっとした感覚が走る。一体どこに向かっているのか...そして私も 今日ここに何をしにきたのか...。まだ私は本日のスケジュールを聞かされていなかった。

『...よし、乗ったな?』
「え、はい...」

電話の向こう側で何故かマネージャーがニヤリと笑った姿が頭に浮かんで私は嫌な予感がした。

『本日の仕事内容を発表する!!」
「...へ?」
『今から他のヒーローに挨拶して来るんだ!』
「...は、はぁ?!」
『今向かってる階にはヒーロー専用のトレーニングルームがある。そこに居るヒーローに挨拶して来るんだ』
「えぇ?! ちょっ! そ、そんな急に言われても心の準備が...!!」

その時、エレベーターのドアが開いた。二人の男の人がドアの前に居るのに気付いて私はこそこそと後ろに寄った。 本当は何階ですか? とか聞いてボタンを押すべきだろうけど今は電話中でそんなことやってられない。こんな所で電話してるのも マナー違反なのに...私は電話口に手を当てながら話した。
男の人二人が乗り込んできて箱が少し揺れる。

「バニーちゃんのせいで遅くなっちゃったじゃん」
「僕のせいではないです」

雑談してる声が聞こえ、私の耳はついついその会話を拾い上げてしまう。
その中の一つ“バニーちゃん”という単語に内心首を傾げる。

「マネージャーさんはいつ来てくれるんですか?」

出来るだけ小さな声で話すと、ちらっとハンチング帽子を被った人がこちらを見た。すいません、の意味を込めて 頭を下げながら愛想笑いをする。すると、向こうもにこっと笑ってくれた。さっきこの人がバニーちゃんと言っていた のでもう一人のほうがバニーちゃんなんだろう。自然と視線はもう一人のほうに移動した。
......全然バニーちゃんではなかった。 どっちかというとあのくるくるした毛先が...アンドレ...いや、ないな。どうもあのくるくるした髪を見るとヴェルサイユ宮殿とか なんかそういう系のことが頭をちらつく。
...ていうか、バニーちゃんどこかで見た事があるような...?

『あぁー...それなんだけど行けなくなっちゃった』
「なっ...! なんでですか?!」

バニーちゃんと聞こえたのは私の聞き間違いだったかもしれない、と考えていたところに衝撃的な言葉が電話口から聞こえ、 思わず大きな声が出てしまい慌ててボリュームを下げる。

「...行けなくなっちゃったじゃないですよ!」
『人手足りなくってさ。ごめんごめん』
「じゃあ今は会社なんですか?」
『ん?んー、まぁ...』
「ひ、ひどい...! 騙しましたね!」
『だってそう言わなきゃ駄々こねただろ』

だから映像は切って声だけで電話をしてきたのか...。
まるで私が悪いみたいな言い方に腹が立たないわけではないけれど、それよりも今問題なのはヒーローに挨拶するという事だ。 挨拶って...えぇー?! 普通に初めましてとかの挨拶でいいの?! ヒーローが相手なのにそんなありきたりな挨拶?!

「そんな...! 挨拶って一体何を言えば?!」
『普通な感じでいいんじゃない?』
「普通って?! 初めましてこんにちはご機嫌いかが? とかですか?!」
『そうそうそんな感じ。というか少し落ち着きなよ』
「ご機嫌いかがなんて言うわけないじゃないですか!どこの貴族ですか?!これが落ち着いてられるかってんですよ...!」
『ほら、アレえーとなんだっけ、手に何か書いて落ち着くって前やってたじゃん』

手に人って書いて飲み込むと落ち着くんですよ。と言って私がヒーローデビューするとき現場に向かう車の中で延々と手の平に人 と書いて飲み込み続けていたのを覚えていたらしい。実際、しこたま人という字を飲み込んだがそれで落ち着いたかと 聞かれると微妙だ。けれど気休めにはなるかもしれない。

『あ、呼べれてるから行くわ。じゃあ頑張れよー』
「えっ、あ!」

なんて挨拶するか一緒に考えてもらおうと思ったのに、すでに電話からは無機質な音しか聞こえなくなっていた。 自分で考える以外選択肢はないらしい。もっと前に言っといてくれれば少しは捻りのある挨拶を考えてこれたかもしれないのに...! 胸中で文句をぶつぶつ呟きながら、私は落ち着くためにペン代わりの右手の人差し指を立て、左手をパーに開いた。

「...けどまだこんな時間か。誰も来てねぇかもな」
「...」
「無視かよ! バニーちゃん!」
「あぁ、僕に話しかけてたんですか。またいつもの独り言だと思いました」

やっぱり! 聞き間違いじゃなくてバニーちゃんって言われてる...!
本名? それともあだ名? あだ名にしては兎っぽい様子が少しも感じられないけれど...目に見えないところで兎 なんだろうか。寂しがり屋とか? けど確か兎って別に寂しがり屋じゃないとか聞いた事があるような。
バニーちゃん......兎ちゃん......かわいらしいあだ名だ。
手に文字を綴り終わって一息にごくんと飲み込む。
よし、これでだいじょ....

「あ!!」

驚きのあまり口から大声が飛び出た。すると前に居た二人、ハンチング帽子の人とバニーちゃんがびくっと体を震わせた。 慌ててすいませんと謝ると、何故かハンチング帽子の人が吹き出して大笑いし始めた。わけが分からず私とバニーちゃん は突然笑いの発作に襲われているその人をじっと見つめた。笑い声がエレベーター内に響いて頭がぐわんぐわんする。 笑いキノコでも食べたのだろうか...。どうすればいいのか分からずに唖然とバニーちゃんとただ突っ立っていると チンッと音が響いてエレベーターのドアが開いた。







(20110917)