引っ越してからもうすぐで一月経つというとき。
私もこの広々とした部屋になれ、非日常が日常へと徐々に移っていたときだった。 どんちゃん騒ぎの所為で、ひどい睡眠不足に悩まされるようなことはなくなった。
いつものように適当な朝ごはんを食べ、歯を磨いて髪を整え、化粧をしてからスーツを着て慌しく準備を終えた私は玄関へと走った。 そうして靴に足を滑り込ませてから新しい靴を買わなければいけないことを思い出した。 走ったり歩いたり...と、とにかく足を使うことが多いので、靴をすぐに履き潰してしまうのだ。
予備に購入していたものを今履き潰してしまいそうなのだから新たに購入しておく必要がある。 予備を用意しておかないと安心は出来ない。というのも、忙しさのあまり履き潰してしまった靴の代わりを買いに行くことも出来ないとき、同僚のぶかぶかのスニーカーを借りることになったからだ。 そのスニーカーはあまりにも大きいというだけではなく、匂いも強烈だった。この靴で走って転んだ回数は片手では収まりきらず...。おかげでパンツスーツの膝が破れてしまった。(怪我というおまけもついてしまった) 予想外に高い出費になってしまった苦々しい記憶は私の脳に強く焼き付いている。せめてもの救いは、同僚が水虫ではなかったということだ。
今日早くあがれたら買いに行こう。そんな予定を立てながら部屋を出てドアを閉めると、ちょうど左隣のドアも開いた。
体が自動的に手に持った鍵を鍵穴に入れようとするもの、視線は隣の部屋へ釘付けだ。
見てはいけない...! そんな自らの言葉が聞こえたが、私はその制止を振り切った。
隣人はイケメンという夢が潰れてしまう可能性は大いにあったが、謎の隣人の正体を知りたい...! 好奇心に負けて目に神経を集中させていると、ドアの影から人影が現れた。

「イ...!」

イケメン...! 思わず口をついて出そうになった言葉を無理やり飲み込むが、一音はすでに口にしてしまった後だった。 その所為で私の存在に気づいたその人がこちらを見た。視線がばっちりあう。

「あ、おはようございます」

愛想笑いを咄嗟に浮かべて、私の口からはするりと挨拶が零れた。

「おはようございます」

にこりと笑みまで浮かべて挨拶を返してくれたイケメンの頬には、先ほどは角度の関係で見えなかった大きな傷跡が走っているのが確認できた。 もう昔の傷なのだろう。その傷は少しだけ白くなり存在を主張してはいるものの、痛みを感じそうにはない。もう肌に馴染んでいるのだろう。 そしてその大きな傷跡は、けれど威圧感を感じさせるようなことはない。その理由は優しそうな笑みをイケメンが浮かべているというだけではなく、このHLで刑事なんて仕事をしていることもあるかもしれない。 自分でも以前に比べると物怖じしないようになってしまった気がする。これを成長と取るべきか、女としては可愛げが無くなってしまったと悲しむべきなのか...。
ただ一つ言えるのは、彼が傷跡込みでも素敵な男性だということだ。

「あの、挨拶が遅れてしまってすいません。隣に越してきたです」
「いや、こちらこそお礼を言うのが随分遅れてしまって...スターフェイズです」

頭を下げながら改めて挨拶をする。ヴェデットさんとは会えば話をするのでそれなりに打ち解けてはいたものの、本来隣人であるはずのスターフェイズさんとは今が初対面だ。 心持ち丁寧に頭を下げると、少し困ったような表情を浮かべているスターフェイズさんと目が合った。

「お菓子、ありがとう。おいしかったです」
「あ、そうですか? よかったです。お口にあって」

思わずホッと息が漏れたのはこんな高級マンションに住んでいる人たちの口に合うのかどうか不安だったから。 普段自分が口にしているお菓子よりもグレードが高いもので、時々しか口にすることができない少しお高めのお菓子を選んだものの、 だからといってこのマンションに住んでいる人からすれば随分と安物だろう。なので少し不安だったのだ。

「今からお仕事ですか?」
「あ、はい」

扉の鍵を閉めてから何となく並んでエレベーターへと向かっていると、向こうから話しかけてくれた。 それに頷きながら答え、同じ質問を隣人へと返す。そうすれば私と同じ肯定の言葉が返ってきた。
お互いスーツを着ているのでこれから仕事というのは、簡単に想像がつくが話しの取っ掛かりを探るみたいなものだ。 エレベーターのボタンを押すとすぐに扉が開き、招かれるままに小さな箱へと足を踏み入れる。 操作が出来る基盤の前を確保したのは下っ端としての根性が染み付いてしまっているからかもしれない。自分で言ってて悲しくなるけど...。 自分は駐車場がある地下が目的地だけどスターフェイズさんも同じとは限らない。ボタンの前に手をかざしながら横を見れば、向こうをこちらを見ていて思いがけず目があった。

「地下をお願いしても?」
「はい」

同じ目的地だったことをその言葉で知りながらボタンを押した。そうすると体が少し浮くようなおかしな感覚を覚えて、箱が下へと降りていることを知る。

「お仕事は何を?」
「え、あ、はい...」

基盤を見つめていると隣からかけられた言葉に躊躇したのには訳がある。女の身では警察官、ましてや刑事はモテない職業であることを身にしみてわかっているからだ。 みんな何かしら疚しいことがあるのか、少しいい感じになったバーで知り合った男性は警察官ということを話すと急に用事を思い出したり... 自分から声をかけてきたくせに私が警察官であることを知るとそういえば歯医者に予約していた時間だ、とか言って去ってしまうのだ。 そんな経験から出来るだけ刑事であることは伏せておきたい。と考えてしまったのだ。
ましてや相手はイケメンだ。ヒかれるのは避けたいという気持ちから言葉はぎこちない。

「えっと、何ていうんでしょうか...事務仕事とかもするんですけど、力仕事みたいなこともあって...雑用とかも...」

普段の仕事内容をオブラートに包みまくった所為で自分でもよくわからないことになってしまった。
一体こういうのは何という仕事をしているといえばいいのだろう...何でも屋さん? 焦れば焦るほど答えは出てこない。

「事務員さん? 総務的なことも?」
「あ! はい そんな感じです!」

総務という言葉を提供してくれたスターフェイズさんの言葉に全力で乗っかった。まあ刑事という名前はついているが、ものすごく大まかに言えばそんな感じなんだから変わりないだろう。嘘を言っていることにはならないと思う。 首を何度も振りながら答えると人当たりのよさそうの笑みを浮かべたスターフェイズさんと視線があう。
そこで私も同じように質問を返した。

「スターフェイズさんはお仕事は何を?」
「...普通のサラリーマンだよ」

”普通のサラリーマン”とやらでは絶対にこんなマンションに住むことはできないはずだ。 すぐにそう思ったものの、それを指摘しようとは思わない。そこまで私も愚かじゃない。 ここHLには訳ありといわれるような人がたくさんいるのだ。
もちろん、謙遜の意味で普通のサラリーマンと口にしたのかもしれないが、そこについても穿り返すようなことはマナー違反だ。 この街に限らずとも適度の距離というのが、人と付き合うときには必要不可欠だと私は思っている。ましてや相手は初対面で、その上お隣さんだ。 これから付き合いが少なくとも3年は続くのだからできるだけ良好な関係を築いておきたい。
「そうなんですか」と、当たり障りの無い返答を口にしたとき、ちょうどチン、と音を立ててエスカレーターが目的地に着いたのでそこで「それじゃあ、また」なんて曖昧な別れの言葉を交わして私は車に乗り込んだ。 先に車を運転して駐車場を出て行ったスターフェイズさんが微笑みながらガラス越しに手を振ってくれたので、私も小さく手を振り返した。
よかった、隣人が良さそうな人で。その上イケメンときているのだから...神様って居るんだなぁ。






(20150909)