「急がなくてもいいから」そうは言われたものの、私は部屋に入ると突撃するようにバスルームに向かった。
泥や砂埃などの汚れが身体にこびりついているので、しっかりとは洗ったものの手をいつもの倍以上早く動かしたので入浴時間は10分という記録的なタイムを叩き出した。 そうしてから着替え諸々を全て準備することを忘れていたので、バスタオルで身体を拭いてからはそれを肩にかけて部屋の中をうろちょろして着替えを済ませた。 どうせ誰もいないので人の目を気にする必要だって無い。
いかにも寝巻きという格好はどうかと思い、部屋着として使っているスウェットとシャツを着た。 一度手に取ったワンピースはどう考えてもこれから寝るような人が着るようなものではなかったし、どうみたって余所行きな小洒落たデザインをしていたので諦めた。
何で怪我の手当をしにきただけなのにワンピース着てんの? これからデートでも行くの? って感じだし。 あからさますぎると思ったので、私はじっくり考えてから何の変哲も無い今の格好になったのだ。(もちろん考えている間は素っ裸) そうして髪を適当に乾かして、少し迷ってから(まぁ化粧をしないと言うのも失礼だし、という自分でも苦しくも浅ましいと思う言い訳をしながら)薄く化粧をして部屋を出た。 事前に「勝手に入ってきて」と言われていたのでインターフォンに触れることもなく、私はドアノブに手をかけた。 ふー、と息を一つ吐いて、深く息を吸い込んでから一応ノックをニ回鳴らす。だが応答するような音も声も無かったので、ドアノブを握る手に力を入れた。

「こんばんはー...お邪魔します...」

相変わらず声が返って来ることもなく、スターフェイズさんの家はしんと静まり返っていた。
コソ泥にでもなったような気分で私は適当に履いてきた靴を脱いで中へと足を踏み入れた。 スターフェイズさんの部屋は当然私と部屋と同じような造りになっていたが、家具や調度品などで随分と雰囲気が違った。 すっきりと整えられて品のある部屋は清潔な香りがする。
コソ泥よろしく私は抜き足差し足で部屋に入ることに成功したものの、この部屋の主を見つけることは出来なかった。 リビングには誰もいない。
もしかしたらまだシャワーを浴びているのかもしれない。そっとバスルームと思われるドアの前に立つと、私は耳をドアにくっつけてみた。 ご丁寧に壁には防音が施されているのであまり音が聞こえないのだ。 耳を済ませて中の様子を探るものの、音が聞こえない。物音一つしない部屋...そして大きな傷を負った背中...。 私の中で点と点が結ばれ、導かれた結論に顔から血の気が引いた。
もしかして中で倒れているんじゃ...!
ゴンッ

「ぎゃっ!」
「ん?」

倒れていたらバスルームから引っ張り出すことが出来るだろうか?! なんてことを考えていると、鈍い音が響いたと同時に額への衝撃。 口からは間抜けな声が漏れた。

「うわ、すまない! こんなところに居るとは思わなくて」
「いえ、大丈夫です...ここに居た私が悪いので...」

痛む額を手で抑えたところでどうにかなるとは思わないが、それでもせずにはいられない。
薄く膜が張っているように見える視界からも、涙目になっているだろうと予想しながら顔を上げれば、半裸のスターフェイズさんが居た。

「...ぉっ!!」

サッと思わず視線を反らしてから、その反応を間違えてしまったと思った。
今から傷の手当をしようとしているのにこんな反応おかしいだろう。

「覗きにきたわりにはそういう反応なんだ?」
「いや......えっ?! いや! 私覗こうとしてたわけじゃないですよ?!」

聞き捨てなら無い言葉を否定するべく、思わず大きな声が出てしまった。
そうして先ほどは突然だったこともあってまずい反応をしてしまったものの、今度は心の準備が出来ていたので普通に上半身に何も着ていないスターフェイズさんを見ることができた。 同時に、何だか意地悪く笑う顔まで確認してしまった。確実にからかわれていることを確信してこちらとしては少し面白くない。 というか、こういう子供っぽいことをするような人だと思っていなかったので、ギャップに驚いた。

「音が聞こえないんでもしかしたら中で倒れてるんじゃないかと思ったんで」

脳裏に痴漢が適当な言い訳を連ねている場面が浮かんだが、私の場合は事実だ。だとしても説得力がないかもしれない、なんてことを思って話を反らすことにした。

「先に髪、乾かさなくてもいいんですか?」
「あぁ、いやこいつで拭くから問題ない」

肩にかかっているタオルで適当に髪をガシガシと拭きながらリビングへと向かう後姿を追えば、当然背中の傷がよく見えた。 皮膚は裂かれ、肉が抉られているのがよくわかり、思わず顔が歪んだ。
平気そうな顔をしているけど絶対に痛いはずだ。それともライブラでは特殊な特訓でもして痛くないのだろうか?
「ええっと、ここだったかな...」ぶつぶつ呟きながらスターフェイズさんは見かけには背中にひどい怪我を負っているようには見えない感じで戸棚の中から救急箱らしきものを持ってきた。 ソファにかけて待つように言われたので、私は半裸のスターフェイズさんを眺めながら落ち着かない心持ちでいながらもソファの弾力に少し感動していた。

「悪いね、こんな時間に」
「いえいえ」

救急箱を持ってきたスターフェイズさんは開けてから必要なものを探し始めた。一緒になって中を覗き込む。
救急箱の中身は意外にも充実している。こういう傷を負うことが多いのできちんと買い置きしてあるのかもしれない。

「これじゃないですか?」

見慣れたボトルを見つけた私が指差せば、「ああ、本当だ」と言ったスターフェイズさんの手によって箱から取り出された。 他にも脱脂綿やそれを掴むピンセットもソファの前に設置されているガラス机の上に置かれた。

「...よいしょっと。じゃあ頼めるかい?」
「は、はい...!」

ソファと机の間...正しくは私の両足の間に身体を滑り込ませてきたスターフェイズさんの行動に驚く私を他所に、なんでもないように声をかけられた。 だけど私はなんでもないように返答できず、若干声が上擦ってしまった。
疲れてるから? 疲れてるからこんなにも距離が近いのだろうか。...多分、きっとそうなんだろう。それか外国人だから(ここでは私が外国人だけど)...きっとそうなんだろう。
自問自答を行ったところでようやくピンセットを手に取り、脱脂綿を挟む、そうしてからボトルの蓋を開けるのに苦労していると親切にスターフェイズさんが開けてくれた。 茶色い液体がたっぷり入っているボトルの中に脱脂綿をつっこめば、白かったそれがじわじわと茶色く変色した。 深い傷を消毒する場合には少しの消毒液を塗っただけでは意味が無いのだと教えてもらったことがあるので、今回はたっぷりの消毒液が必要になってくる。 十分消毒液を吸い込んだ脱脂綿を構えながら声をかける。

「沁みますよ...心の準備はいいですか?」
「ああ、いつでも大丈夫だよ」

少し笑いを含んでいる返答を合図に、消毒液をたっぷり含んだ脱脂綿を傷口に押し当てた。
傷口の奥まで消毒液が届かなければ意味が無いので、遠慮なしに傷口に押し当てる。 肌が茶色に染まる変わりに脱脂綿の色が薄くなったのを確認してそれを捨てようとしてゴミ箱の場所を探すために立ち上がった。 私が何を探しているのか察したらしいスターフェイズさんが指差すほうに行けば、なんともスタイリッシュなゴミ箱を発見した。 その中にごみを捨ててからゴミ箱を手に持ってソファの上に座る。
一度や二度脱脂綿を使っただけでは全ての傷を治療することができないだろう。 私の目論見どおり、消毒を終えるころには随分と消毒液と脱脂綿を消費していた。 最後に綿をかませてからテーピングをして治療は終わった。

「終わりましたよ」
「ありがとう」

まだ湿っている髪を気にした様子で触っているスターフェイズさんがこちらに向き直った。 狭い空間で動かれれば当然体が触れてしまうことになるので、足を左に移動させた。スターフェイズさんを両足で囲っていた状態だったのを開放した。

「随分手馴れているね。もう少し時間がかかるものだと思っていたんだけど」
「まぁ、仕事柄慣れてますから」

消毒液と脱脂綿を消費したことを伝えながら救急箱に直せば、スターフェイズさんは「また買ってくるよ」と頷きながら答える。 普通の街で刑事なんてものをしていたのならそこまでの怪我を負うとは無かったかもしれないが、ここはHLだ。よって、怪我をする機会なんてごまんとある。嬉しくないことに。

「なるほど。確かに君の仕事は怪我をすることが多そうだ」

そう言って不意に頬に触れられた。完全に油断していたところで思ってもいなかったスターフェズさんの行動に体が固まる。
骨ばった少しごつごつしている手が輪郭をなぞるように滑る。こういうことに慣れているとは言えない私は情けないことに硬直するしかなかった。 顔を覗き込むようにして見つめられるとどうしても視線が逃げてしまう。イケメンの上にほぼ初対面と言ってもいい相手なので余計に緊張してしまう。

「ちょっとこのままで」
「え?」

手が頬から離れたと思うと、その手は先ほど片付けられたはずのものを救急箱から取り出した。

「君のそこも消毒しておいた方がいいだろ」
「あ、すいません...」
「構わないさ」

私が治療をしにきたはずなのに逆にしてもらうというのはどうだろう。そんな考えで、恐縮する私にスターフェイズさんは目を細めて答えた。



「それって刺青ですか?」

最初は傷から血が滴っているのだと思ったのが、よく見ればきんと模様を描いていて血とは違った鮮やかな赤は故意に肌に刻まれたものらしかった。 どうにか見つけ出した話題を口にして沈黙を破ってみる。
その間もスターフェイズさんの手は休むことなく動いている。顔だからと言う理由でわざわざ色がついていない消毒液を選んでくれたので、脱脂綿は湿りを帯びただけでその色を変えることは無い。

「そうだよ」
「ほー」

首に刻まれたそれは身体を覆うようにして刻まれている。きっと何か意味があることなのだろう。
超人的な技を使うのに関係しているのか、ライブラという組織に関係しているのか、はたまた個人的な趣味なのか疑問は浮かぶものの、それを口にしても良いものなのかわからなかった。 好奇心は猫をも殺すとはよく言ったものだ。私はそれ以上を尋ねることはしなかった。
良好な関係でお隣さんで居るためには過剰な干渉は避けるべきである。その上お隣さんは秘密結社組織ときている。 きっと知られたくないことは山ほどあるだろう。それも相手が警察とくれば隠さなければいけないことも出てくるはずだ。

「準備は良いかい」
「はい。いつでも!」

先ほどの私の言葉をなぞる形の問いかけに頷いて答える。威勢の良い返事をしながらも、実際は少し警戒した。
染みる消毒液の場合は傷口を焼かれているような痛みを感じることもあるのだ。よく効くというそれを警部補に塗られたときには声も出ないほどだった。(警部補はそんな私を見て楽しそうだったけど) 私の返答を合図に頬へとひんやりとしたものが当てられたが、別段痛みを感じることもなかったので私は警戒心を解いた。

「ほー、とはなんだい」
「感想...?」
「どんな感想なのかよくわからないな」

私が始めた間をもたせるための適当とも言える会話に律儀に付き合ってくれたスターフェイズさんは、口元に笑みを浮かべながらもてきぱきと手を動かしてくれている。

「オーケー、これで大丈夫だ」
「ありがとうございます」

半裸の色男に消毒をしてもらえる経験なんてこれから先一生無いだろうな、貴重な経験をした。そう思いながら片付けを手伝った。

「あ、じゃあそろそろ帰りますね」

ただっ広い部屋の壁に設置されたシンプルなデザインの時計を見て慌てて口にした。いつの間にか深夜と言っても差し支えない時間に入り込んでいる。 明日も早いので出来るだけ早く寝ることを心がけているのだが、まだ今日はするべきことを何一つしていない。こんな調子で毎日が過ぎていくので部屋も一向に片付かない。 玄関へと足早に向かおうとしてあることを思い出して慌てて振り返った。

「あ、傷の消毒言ってくれたらまたしますんで」

シャツを着たスターフェイズさんが見送りにきてくれていたらしく、すぐ後ろにいた。
その顔はきょとんとしているので、私は今の自分の発言が大きなお世話だったかもしれないと今更気づいた。 まずかったかな、そんな心情が多分顔に出ていたのだろう。ぽかんとしていた顔を面白がるようなものへと変化させたスターフェイズさんが目を細めた。

「君が隣に越してきてくれてよかったよ」

今度は私がきょとんとする番だった。そんなことを言われるとは思っていなかったので、反応が遅れてしまう。だけど言葉は案外するりと口をついて出た。

「私もお隣さんがスターフェイズさんでよかったです」






(20151019)