頬に出来た傷はいつの間にかかさぶたが出来、今はそのかさぶたが剥がれて薄い桃色の跡が残っているだけになった。 そうなれば痛みを感じることも無い。変わりに痒みは感じるのは厄介だけど。
「もう目だたねぇな」と警部補のお墨付きももらうことが出来た。それほどあれから日にちが経ったということなのだけど、 隣人とは一度も顔を合わせていない。
手当ては誰かにしてもらっているのだろうか。なんて、余計な心配をしてしまうくらいには親しくなったんじゃないだろうかと思っているので、 あれから顔を合わせないのは少しばかり寂しい気もした。
もともとこのHLに友人は多く無い。その上仕事が忙しいこともあって遊び歩くこともほとんど無いので親しい友人を作るのは難しい。 よって、基本的に私の人間関係は仕事繋がりのものばかりだ。
そんな中に突如現れたスターフェイズさんは、この間のこともあって友人候補として私は考えていた。 ちょっとした友人くらいにはなれるのではないだろうか、という淡い期待があの日からあるのだ。 そんな期待を抱いてしまったのは、あの時間が存外良かったからだと思う。冗談も通じ、気遣いも出来るらしいスターフェイズさんは内面も魅力的な人だった。 だからこそ親しくなりたいと思ってしまったのだろう。

警部補には隣人がスターフェイズであることを話せずに居る。
本当は伝えたほうがいいのだろうけど、スターフェイズさんの完全なプライベートを暴いてしまうことになるのだ。 淡い友情を期待してしまっている身としては、そういうことをするのは憚られた。もちろん警部補のことは尊敬しているし大好きだけれどそれとこれとは問題が違う。 それに警部補はきっと、隣人がスターフェイズさんだと知ればあまり関わらないほうがいいと言うと思ったのだ。 ライブラに対して嫌悪などの感情を持っているわけではないことは知っているが、何故だかあまり言わないほうがいいような気がした。 私は基本的には直感に従うタイプなので、未だに警部補には隣人について話していない。
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ぐー
お腹が鳴いてからそういえば今日はお昼に一口ドーナツをかじっただけだったことを思い出した。
ドーナツを食べているときに現場に急行することになり、なんだかんだとその事件に今までかかりきりだったのだ。 当然お腹は空腹を訴える。そうして今日一日ぶっ続けと言ってもいいほど事件が続いたこともあり、私は疲労困憊だった。
だからだと思う。お腹に話しかけたのは...。それに呼んだエレベーターがなかなか答えてくれないので、時間を潰すための行為でもあった。

「そうだねぇ、お腹すいたねぇ」

私はお腹をなでながら答えた。するとお腹がすぐさま返答してきた。
きゅるる

「あー確かに。お寿司食べたい」

私と私のお腹は同一なので、当然同じものを欲しているはずだ。
よって、私は今とてつもなく食べたいと思っているお寿司のことに思いを馳せた。
この場合、やはり幼い頃から慣れ親しんだものである本場――日本のお寿司が食べたいわけだけど、このHLでは妙なアレンジがされているものが主流だったりする。 少しお高めの店に行けばおいしいお寿司を食べることが出来るのはわかっているが、その分財布の中身が寂しいことになるので控えている。 だけど今、私とお腹が猛烈に欲しているのは日本で食べたお寿司だ。日本で食べたお寿司もそこまで良い店というわけではなく、回るやつばかりだったのだけどそれでも十分においしい。
口内に徐々に涎が溢れてくるのを感じながら私はお寿司のことを思った。
マグロ...えびサーモンイカたこ鰻鯖鯵...邪道かもしれないがえびチーズとかも好きだ。
エレベーターはまだやってこない。
ぐぅー

「まぐろは握りよりも鉄火巻きのほうが好きだよね?」
「ぶふっ」
「!!」

お前の好みは私が一番知ってるよ、的な感じにお腹に答えていると突然笑い声のようなものが聞こえた。反射的に音が聞こえたと思われる後ろを振り返ってみると隣人が立っていた。 口元を手で覆いながらも体が小刻みに震えているところから笑いを耐えている様子だ。
サッと血の気が引いたのに顔に血が上るような、体がおかしな反応をする。

「み、見ましたか...!」
「...何をだい? 君がお腹と会話していたところっていうなら見ていたが」

目尻に浮かんだ涙を指先で拭いながらスターフェイズさんが答える。どうやらばっちり見られてしまっていたことを知り、私の羞恥心バロメーターが最高潮になった。 顔がきっと真っ赤になっているだろうことを予想しながら恥ずかしさに耐えかねて俯いた。
何でエレベーターは来ないの?! 胸中でなかなかやってこないエレベーターに八つ当たりする。

「声かけてくださいよ...」
「電話でもしているのかと思ってね」
「...忘れてください」

蚊の鳴くような声で呟いた私に、スターフェイズさんは尚も笑いを含んだ声で答える。

「それは無理な相談だな」
「何も無理じゃないですよ!」
「いや、あまりにインパクトがあってね、...っ......忘れることはできないだろう」

スターフェイズさんのツボだったのかなんなのか、治まったはずの笑いがまたぶり返した様子で笑い出したのを半目で見つめる。 「いや、悪い悪い」なんて、ちっとも心にも無い様子で言われても謝られたという気は全然しない。

「...じゃあ一度頭を殴ってみれば...」
「おいおい、君物騒なことを言うなあ」

このままではいつまで経っても笑われ続ける未来が見えているのでそう呟けば、わざとらしく驚いた表情を浮かべたスターフェイズさんにそういわれた。 「お巡りさんがそんなこと言っていいの?」そんな風に咎められれば返す言葉もない。 痛いところを突かれてしまったと呻けば、スターフェイズさんが笑い声をあげる。...どうしてもこの人には勝てそうに無いと悟った。 この間の一件があったからか、態度が以前よりも気安くなったような気がするスターフェイズさんを見つめれば、エレベーターのパネルを見ながら声を上げた。

「お、ようやく来るみたいだな」
「やっとですか」

先ほどから呼びつけていたエレベーターがようやく動き始めたのが点灯したランプが移動していることによってわかった。 一体誰が長居間止めていたのだろう。犯人探しをするつもりは無いが、あまりにも長い時間待たされたのでそんな疑問が浮かんだ。 おかげで変なところを隣人に見られてしまった。
乗り込んだエレベーター内でも口角に笑いの余韻を残しているスターフェイズさんに、何を言ったところで忘れてもらえるわけがないのでただ黙っていた。 部屋が隣な私たちは行き先がほぼ同じようなものだ。なのでエレベーターも当然一緒に降りることになった。
ちょっとしたハプニングはあったものの、ようやく家へと帰ることが出来るのだと思うと自然と足取りも軽くなる。 まずお風呂に入るかご飯を食べるのか、そんなことを考えていると隣を歩いていたはずのスターフェイズさんの足音が止んだことに気づき、私も倣うようにして足を止めた。

「よし、じゃあお詫びと言ってはなんだが寿司をご馳走するよ」
「えっ!!」

今まさにとてつもなく食べたいとは思っていたものの、口に出来るとは思っていなかった寿司。それを食べさせてくれるというスターフェイズさんに、私のテンションは一気に跳ね上がった。 驚きと喜びで思わずぴょんっと跳ねるとスターフェイズさんの口角が上がる。

「あぁ、この間の礼もまだだったし」
「あ、いえ、そんな大したことはしてないので...」

この間のお礼と言われ、咄嗟に浮かんだのはあの時のことだ。 私も傷の手当をしてもらったのだからお相子だろう。貸し借りはないものとして考えていたので、そう言われると恐縮してしまう。 お寿司は食べたいのだけど、そのお礼だと言われると途端に悪いような気がしてしまうのだ。お寿司はとてつもなく食べたいけども...!!
そんな私の態度が意外だったのか、スターフェイズさんは、おや、とでも言いたげな顔をしている。案外感情表現が豊かだ。

「何だい、寿司が食べたかったんじゃないのかい」
「え、いや、食べたいですけど...」

食べたいのは事実なのでもごもごと口の中で言葉を返した。

「それならいいじゃないか。僕は借りを返して、君は大好きな寿司を食べることが出来る。決まりだ」
「...ありがとうございます...何か返ってすいません」

すでにスターフェイズさんの中では決定事項となっていそうな物言いだ。好意を固辞し続けても逆に失礼になってしまうと、結局ありがたくお寿司をいただくことを選んだ。

「じゃあ今からデリバリーを頼もうか。確か番号は部屋にあったかな...」
「あ、じゃあ場所は私の部屋にしませんか」

この間は部屋が汚いこともあってスターフェイズさんを家に招くことができなかったものの、あのときのことを反省して私は休みの日に重い腰を上げて部屋の掃除を決行したのだ。 部屋の掃除と言うよりも、一つの部屋に荷物をぶち込んだとも言える。生活をしている上で必要なものは大体段ボール箱からだしたので、 後はまあそう急ぎでもないだろう、と使っていない一室にまとめて入れた。
なので私の部屋は今、とても綺麗な状態だ。
お寿司を奢ってもらうのだから場所の提供ぐらいはしようと思っての言葉に、スターフェイズさんは少し驚いたような反応を寄越した。

「いいのかい」
「はい、部屋も片付けたので!」

こぶしを握りながら言えば、スターフェイズさんが目を丸くした。その反応でそういえば部屋が汚いから招くことができないということについて隠していたということに気づいた。 部屋が汚いから人を呼ぶことができないなんて、どう考えても印象はよくない。それを自ら暴露してしまい焦る。そして自分の馬鹿さに辟易する。 何も出来る女アピールをしたいわけではないのだけれど、それでもだらしないと思われたくはないという思いから慌てて言葉を続けた。

「いや、ちょっと汚れ、いや汚れては無いんですけど! その、ちょっと片付けが...」
「しょうがないさ。引越してすぐに片付けるなんて。事務員は忙しいんだろう?」
「えっ、ま、まぁ」

最後に茶目っ気たっぷりに付け加えられた言葉に私はたじたじになりながら返すしか出来なかった。

「飲み物と味噌汁ぐらいなら用意できますし」

話題を変えるつもりでそう付け加えれば、スターフェイズさんが相好を崩した。

「それは嬉しいな。それじゃ遠慮なくお邪魔させてもらうよ」






(20151122)