いつもよりも早い時間を示す時計の針を確認してから私は息を殺して玄関へと忍び足で向かった。
出来るだけ音を立てないように靴を履いて、鞄を手に取るとそっとドアを開く。前まで住んでいた部屋だったならドアを開けた瞬間にキィーなんて 音が鳴っていたわけだけど、さすがこのお高いマンションではそんなことが起こらなかった。
ついで言えば防音もしっかり施されていることはわかっている。だけどそれでも警戒するに越したことはないと思うのだ。
施錠を手早く済ませてから出来うる限り音を立てずにだけど迅速にその場を離れた。目指すはエレベーターだ。
それまでは油断できない...!!
そんな私の焦りを知っているのか神様は時々暇つぶしに試練をお与えになる。

「あー!! おはようございますっ!」

にこにこしながらドアから顔を出した彼女に私はブレーキをかけざるを得なくなってしまった。
朝も早いのにメイクもばっちり決まっている彼女は髪がつやつやしているのはもちろん、毛先まで油断することなくくるんと美しくカールしている。 来ている服に関してももちろん完璧だ。このまま敷居の高いブランド店に行くのだとしても十分だ。

「おはようございます」

つられるようにしてこちらも笑顔になりながら挨拶を返した。

「なんだかお久しぶりですね。出勤時間早くなったんですか?」

何気ないだろう質問に私は一瞬ぐっと言葉に詰まった。というのも、出勤時間はわざと早くしているからだ。 その原因を知っているはずがない純粋な疑問なのにその理由まで見透かされてしまったような心地になってしまった。
背中にどっと汗が噴き出たような気がする。

「あ、うん。朝やると仕事がはかどるんですよね」

それらしい言い訳はすでに何度か同僚に対して使っているのでするりと口から出せた。

「そうなんですね! 頑張ってくださいね!」

あまりにもきらきらした目はまるで"警察官の鏡!"とでも言っているかのようで居心地の悪さを感じる。 ごめんなさい...嘘なんです。とは言えずに心の中で謝る。
仕事はしているものの仕事のために早くから出勤しているわけではないのだ。

「そうだったのか、だから最近顔を合わせることがなかったんだな」

唐突に背後から聞こえた第三者の声に私の肩はびくりと跳ね上がった。聞き覚えのありすぎる声の持ち主は声だけではなく容姿まで整っていることは知っている。 目の前で先ほどまできらきらと輝いていたはずの目は今や警戒するように私の背後に向けられている。
明らかにこの場に歓迎されていないのは聡い彼にはわかっているだろうにあえてそれを読むことはしないらしい。

「おはようございます」
「...おはようございます」

そういえば彼女は人見知りだった。私と話しているときよりもあからさまにトーンの下がった声にそれを思い出した。
なんだかよくわからない空気になっているのを肌で感じ、早々に立ち去ることにする。

「...おはようございますー...じゃあ!」

振り返ることはなく、彼女に向って笑みを迎えながら手を挙げる。「あ、はい」という彼女の少し呆けた返事を聞きながらもさっさと足を動かす。
日ごろの成果が試される時だ...! そこらを走り回っているので足の速さには少し自信がある。このままエレベーターまで走ってうまく行けばエレベーターを待つことなくそのまま行くことができるが、待つことになるのならば... どうするかなんてことは今は考えずにできるだけ急げ! と自分の足に叱咤すればもう早歩きを通り越して半ば走りながら先を急いだ。 ここが学校の廊下だったなら間違いなくアウトで先生に注意されているところだ。
コーナーで差をつけるんだ! ぎりぎり壁に当たらないように最短距離で曲がれば見慣れた光景が目に入る。 勢いをつけすぎてエレベーターのドアに危うくぶつかりそうになりながらボタンを連打すれば、運良く扉は軽い音を立ててすぐに開いた。飛び乗って素早く閉るボタンを連打するも、扉が完全に閉まる前に大きな手が入り込んできて扉を開いてしまった。
これがホラー映画だったら完全に死んでる...。こんな状況なのに頭の中にはバカみたいな感想が浮かんだ。

「随分急いでいるんだなぁ?」

そうして中へと入りこんできたのは予想通りというか、その人でしかなかった。
にこにこしているスティーブンさんからは勘違いではなく圧力を感じる。それに対して誤魔化すようにへらっと笑う。多分だいぶ情けない顔だったと思う。
敗因は間違いなく長すぎる脚だ。私の少しくたびれた靴の隣に並んだぴかぴかの革靴は大きい。足の大きさが違うのはもちろんだけど、長さもだいぶ違うことはわかっている。 私が走っても向こうは速足で追いつけるだろうとわかってしまうほどリーチがある...悲しすぎる...。

「仕事忙しいの?」
「え、あ、まぁ...?」
「ふーん」

...どういう意味の「ふーん」なんだろう。感情の読み取れないそれに私は緊張で体ががちがちになる。
エレベーターは確実に私たちを運びながらもその稼働音はほとんどしないので、自然と沈黙が広がる空間に居心地の悪さを感じる。
いつかはスティーブンさんと顔を合わせることになるとは思っていたけど、いきなりエレベーターの中に二人きりになるとは思わなかったので シミュレーションがすべておじゃんだ。普通に会ったら挨拶をして...とか考えていたんだけどあんな死角から突然現れるなんて考えてなかった!!

「避けられてるのかと思ったよ」
「...へっ?!」

まさにドンピシャで言い当てられてしまったので声がひっくり返った。
並んでいる靴を眺めていたのから思わず顔を上げて隣のスティーブンさんを見てみれば、その横顔からはさっきまで感じていた威圧はきれいに消え失せていた。

「急に顔を合わせることがなくなっただろう」
「...」

避けてたので...とはとても口にできない。

「さっきもまるで逃げるような反応をされたけど」
「すっ、すいません...!」

やっぱりばれてた...! サーっと顔から血の気が引く音を聞きながら謝ればふいっと視線を逸らされてしまった。 謝罪を拒否されたような反応に焦りが生じる。
軽い音を立てて目的地に到着したことを知らせるエレベーターに先ほどとは反対のことを思ってしまった。
一足早く箱から出たスティーブンさんの背中にますます焦ってしまう。

「あの!」

追いかけるようにして飛び出して声を上げれば地下の空間に声が反響するように響く。
体を半分こちらに向けてくれたのでとりあえず話は聞いてくれるらしい。

「私が、その、スター...スティーブンさんを避けていたのは本当です」

やっぱりと言いたげな視線に怯みそうになる。それに堪えるために視線はスティーブンさんの長い足へと向ける。

「それはその恥ずかしかったからで...」

ごにょごにょと口の中に声が消えていったのは、これを白状している今もとてつもなく恥ずかしいことであると気づいたからだ。
中高生じゃあるまいし、いい歳してキスされそうになったのが恥ずかしくて避けていたなんて...今思えばとてつもなく恥ずかしい。 本当ならこういうときには何でもないような顔をして「続きはまた今度ね」なんてウインクの一つでもぶちかましてやりたいところだけど私は生憎とそんな振る舞いができるほどの余裕も経験もなかった。 そもそもキャラでもない。小さいころに憧れたドラマで見た大人の女性像には未だに近づけている気がしない。
さすがにスティーブンさんもこんな反応されたんじゃ引いてしまったのかもしれないと思い恐る恐る顔を上げた。
感情の読めない表情からは何も探ることができない。
手の中がじっとり汗ばんで気持ち悪い。

「なら、」

途中で切れてしまった言葉の続きを求めるも、スティーブンさんはハッと何かに気づいたように口元に手をやってしまった。

「あ、いや...なんでもない」

何かを考えているように瞳は伏せられている。
やっぱり私が避けていたというのはまずかったみたいだ。いや、まずいことはわかっていたから避けていたこと自体悟られないように気をつけていたはずなのに 結局はスティーブンさんに知られていたのだからすべては無駄でしかなかったということだ。
体が重いような感覚に自分の気持ちが落ち込んでいることを悟る。

「そういえば、」

本当に「今思い出した」と言いたげな軽い調子の言葉にぼんやりと視線を返す。

「スカートは穿かないのかい?」
「......え?」

意外な言葉に一瞬頭の理解が追い付かなかった。

「スカートですか...」

そうやって自ずと視線を下へと向ければいつも通りの黒いパンツが見える。
仕事柄スカートを穿くことは殆どといってもいいくらいなくなってしまった。休日には着ることもあるけれど今の状況を考えればスーツでのときのことを指しているのは明らかだ。

「そうですね。あまり...」
「見たことがないと思ってね」
「穿いてませんからね...」

この状態でスカートの話とは一体...さっきまで怒ってたんじゃ...?
そこに何か隠されているのか、深く考えれば本質が見えてくるのか。全くわからなくてただ戸惑っていると、スティーブンさんがフッと笑った。 笑う場面だとは思わなかったので目を丸くすれば楽しそうに弓なりになった目と視線が合う。

「ただ見てみたいと思っただけだよ」

まるでマジックの種明かしをするかのような無邪気な笑みを向けられれば毒気を抜かれてしまう。 少し距離があったのを縮めるようにスティーブンさんが戻って来て目の前で止まった。さっきのエレベーターの中みたいに距離が近い。

「だからそこまで難しそうな顔をしなくていいよ」

優しく笑うスティーブンさんに頬を撫でられてからあの夜のように距離が近いことに気づいた。と、同時に触れられた部分を中心に体中が熱くなった。






(20180401)