![]() 「あっ」 突然地下の駐車場に響いた声に反射的にぎくっと肩が跳ねた。まるでやましいことがあるみたいだと我ながら思う。 振り返ればこちらに走って来るかわいらしい姿を見つけ、知らず安堵の息をついた。 「こんばんは!!」 「こんばんは」 にこにこしている彼女につられるように笑って返す。 「お仕事帰りですか? お疲れ様です」 「同じですよね? お疲れ様です」 お互いを労いながらエレベーターに乗り込んだ。 にこにこと笑みを絶やさない彼女にこちらも笑い返す。警察官として出会ったのでそのときには笑ってることはなかったけど、 あれからはいつ会っても笑顔なので明るい子というイメージがあり、とても好印象だ。 私もこうありたいと思うもののなかなか実行に移せないでいる。 ちょうど降りてきたエレベーターに乗り込んで操作パネルの前に陣取る。同じ階に住んでいることはわかっているので、尋ねることもせずに目当ての数字を押した。 「あの、またパンツに変えたんですね」 「え? ああ、そうなんです。やっぱりパンツのほうが動きやすいと思って」 「スカートも似合ってましたけどパンツのほうが似合ってます!」 「そうかな...ありがとう」 褒めてもらって嬉しいのだけど複雑な気持ちになったのはうっすら残っている乙女心の所為だろうか。 チンっと軽い音を立てて到着を告げたエレベーターから降りれば、同じフロアに部屋がある彼女も同じように降りてきた。 このまま「じゃあ!」なんて言って去るのも感じが悪いので、彼女の歩幅に合わせて足を動かす。 「あの...」 「うん?」 立ち止まった彼女に気づいて歩を止めれば、じっと大きな瞳に見つめられた...かと思えば、視線をすっと反らされた。 視線を彷徨わせている様子から、何か話しづらい内容なのかもしれないと思い至る。......もしかして何か事件に巻き込まれたとか? 自分の考えにハッとすると同時に体に緊張が走った。仕事が終わって完全に気が抜けていたところに気合いを入れる。 「よかったら今度...」 ようやく続きを口にした彼女は視線をまっすぐこちらに向けている。口では嘘がつくことができても、咄嗟の動作や仕草まではごまかせない人が多いので、何か異変を感じ取ることができるようにじっと注意深く見つめる。 廊下に設置されているライトに照らされた彼女の目元がきらきら光ってる。 控えめなラメに彩られた目は潤んでいて、チークが乗ったピンク色の頬は何だかさっき見たよりも色が濃くなっているように感じた。 ピンク色のぷるぷるに光る唇がきゅっと引き結ばれていることから、彼女が緊張しているのがわかった。 だけど私が想像していたものとは少し違うような気がして、はてと首を傾げる。 何やら空気感が変わったのを肌で感じる。勘違いでなければピンク色のような......。 「こんばんは」 「ぎゃっ」 この空間をぶち壊すかのように入り込んできた低い声にさっきの比ではないくらいに肩が跳ねた。おまけにおかしな声まで上げてしまい、彼女の中の私......頼れる警察官像を破壊されてしまったことが伺えて、思わず恨めし気に見つめながら「..こんばんは」とだけ答えた。 「こんばんは......」 彼女もまた少し不機嫌そうに先ほどよりも幾分低い声で返している。 きっとこれだけ表面に出しているのだから察しのいいスティーブンさんはわかっているはずだ。それなのに何も感じていないように鈍い人を演じている。鈍い人よりもよっぽど強い心を持っている。 「また今度話しますね」 こそっと内緒話をするかのように彼女が囁いた。わかったと頷いて返せばさっきまでの空気は完全に霧散した。 「あ、じゃあ...」 彼女が部屋に入ったのを見届け、手を振りながら別れた。そうすると当然スティーブンさんと二人になってしまう。 この展開は気まずすぎる...。 考えてみればスティーブンさんと会話するのはあの電話以来だし、まともに顔を合わせたのなんて軽く二月以上前だ。 さっきまでは彼女の歩幅に合わせてゆっくり歩いていたけど全力の早歩きでその場を離れる。 「随分急いでるようだけど何か予定でも?」 私の早歩きなんて屁でもないとでも言いたげに(絶対にスティーブンさんはいわないだろうけど)余裕の表情で隣を歩かれるも、 諦める気にはなれなかった。よりスピードを上げて、半ば走りながらポケットに入れてある部屋のキーを取り出す。 「そうです! 忙しいんです!」 部屋の前でキーを差し込むのにもたつきながら言葉を返した。 ようやく開いたドアを開いて玄関へと入り込んですぐさま扉を閉めようと反転するも、ドアノブをぐいっと引っ張られて体が前に持っていかれる。 バランスを崩しそうになり、たたらを踏んで踏ん張ろうとしたところで何かに顔から突っ込んだ。 「ぶっ」 顔を上げると、ぶつかった何かはスティーブンさんであることが判明して思わず距離をとろうとする。 悪質な勧誘をする人のような手口で部屋へと入り込まれてしまい、唖然とする。 「なっ、なんで入って来るんですか」 「どうも招いてくれそうにないし、逆に招いても断られそうな雰囲気だったから」 あっけらかんと告げられたけど、だからと言って無理やり入っていいことにはならないと思う。そんな正論が通じそうにないことが容易く想像できたので懸命な私はそれについては返さないことにした。だからと言って黙っている気もない。 「忙しいって言ったじゃないですか...」 反論とはとても言えない弱い声しか出なかった。 「本当に予定があるとは思わなかったんだが、誰か訪ねてくるのかい」 端から嘘だと思っている様子に「訪ねてきます!」と答えたいところだけどそんな事実はないので、ぐっと言葉に詰まってしまう。咄嗟に嘘をつくことに躊躇してしまい、その間を正しく読み取ったらしいスティーブンさんが溜め息をついた。 「僕にはそんな態度なのに彼女には気を許しすぎじゃないか?」 「...彼女って誰ですか」 「さっきの彼女だよ」 彼女と言われてもピンとこない。返ってきた”さっきの彼女”という言葉にようやく先ほど一緒に歩いていたあの子のことに思い至った。が、やっぱりその言葉にピンとこなかった。 「なんであの子に気を張らなくちゃいけないんですか」 「不公平だろ」 「...はい?」 一体何が不公平なんだ。意味が分からなくて思わず眉を寄せる。 「君のそれが演技だったら僕は人を信じられなくなるぞ」 何やら勝手に呆れた顔をされたが何だかわからなくてむっとした。 こちらを見たスティーブンさんはやっぱり呆れた顔をしながらどこか遠くに視線をやりながら呟いた。 「君のことが好きなんだろ」 「...は?」 何を言っているのか理解できず、間抜けにぽかんと口を開けた顔を晒すはめになった。だけどよくよく考えれば先ほどの彼女との会話で思い当たる場面はあった。 だけどほんとに...? あんなかわいい子が私を好き? いまいち実感が沸かず、スティーブンさんの勘違いなんかじゃないかと思ってしまう。 部屋の奥へと向けられていた視線が戻ってきたかと思えば、どこか苛立たし気に眉を潜めてため息をつかれる。 これは喧嘩を売られてる…!! 「どう見てもそうだろ。大体君はいろいろ鈍い」 「なっ...! 鈍くないです!!」 咄嗟に噛みつくように返した言葉はただただ反抗心からのものだ。きっと今なら何を言われても否定してしまう。 そんな自分が子供っぽいことは十分理解しているけど、どうしても止めることができない。 「それに仮に私のことが好きなんだとしてもそれがなんですか? あなたに何か関係ありますか?」 さっきから突き放すように”君”と呼ばれているのも腹立たしくて、わざと”あなた”なんて普段は使わない言葉を選んだ。 「...関係ないってことか?」 不快気に潜めらた眉と責めるように鈍い光を帯びた目に少々怖気づきながらもそれを悟られないように拳を握って耐えた。 ここで怯えを出してしまうと相手に優位に立たれてしまうのだ、と言っていたのは警部補だ。 女性というだけで舐めてかかってくる奴らも多いので、毅然とした態度を貫くようにと教えられた。まさかプライベートでもこの教えを思い出すことになるとは思っていなかったけど...。 そして実行してしまっているところが自分でも可愛げがないと思う。 「...この間一緒に歩いてた親し気な女性なら関係あるかもしれませんけど」 頭に易々と浮かんだのはあの日の光景だ。 すでに何度も繰り返して思い出しているおかげで、胸の痛みは最初ほどに感じなくなっていた。痛みに慣れて鈍くなったともいえる。 女性の顔はぼんやりと霞がかったようにしか覚えていないのに、その隣で微笑んでいたスティーブンさんの顔はいつまでも色あせないようだった。 今向き合っている顔とは似ても似つかない。 「あれは...仕事関係であって君が考えているようなもんじゃない」 「そうですか」 ライブラの業務内容には女性と楽しげに...いや、恋人のように微笑みながら腕を組んでデートするってのがあるとでもいうんだろうか。 頭に浮かんだのは潔癖そうな大きな体のライブラのボスだ。あのボスがトップにいる限りそんな仕事はさせないように思う。 飲み込んだ言葉の代わりの素っ気ない返事にスティーブンさんはむっとしたようだった。 スティーブンさんの言葉を信用していないということが伝わってしまったらしい。だけどそれを弁解するつもりもない。 「君だってどうなんだ、親し気に男性とドーナツを買いに並んでたじゃないか」 一瞬考え込んでしまうくらいに"親し気な男性"というのに心当たりがなかった。 もうそれが親し気には該当しないという証明になると思う。連絡先を聞かれたので交換はしたけどそれだけだ。 なのにスティーブンさんはまるで挑発するかのように眉を寄せて見下ろしてくる。 「あれはたまたま会った常連さんです」 「......へぇ? 仲が良さそうだったが」 事実しか話していないというのに端から疑っているような返答に苛立ってしまう。 それを隠せていないのは自分でもわかった。 「うそはついてないです」 未だ疑うような瞳から自然に視線を反らした。漏れ出そうになるため息を寸でのところで押し込む。 センサーによって自動的に点灯する玄関に設置してある電球は淡めの橙色の光で照らす。暖かい感じがお気に入りだったはずのそれが、今はいやに暗く感じる。 どう考えても良いとは言えない空気が流れている。私も、そしてスティーブンさんも引く気がないのだろう。 平行線をたどるやり取りはただただ気持ちを消耗するようなものだ。 「......そろそろ寝る準備したいんで」 今日だってハードな仕事をこなしてきたところだ。靴底をすり減らして駆けずり回り、今すぐに横になりたいところなのに精神的にもすり減らすようなやり取りはうんざりだった。今までスティーブンさんとは良い隣人としてやってきたはずだった。それなのに......あの夜の後から全ておかしくなってしまった。 良い隣人の枠を飛び越しそうになった途端に少しずつ地面で削られる靴底のように心がじわじわと摩耗していくのを感じる。 体まですり減っている今、耐えられそうにない。 つやつやと光る上等と一目見てわかる革靴と、セールで手に入れた少しばかりくたびれた合皮の靴が並んでいる。 一見すれば同じように見えるけれど全然違う。 「...あぁ、邪魔したね」 剣のある声音ではなかったことにだけ安堵した。 「おやすみ...」 「おやすみなさい...」 ガチャと軽い音で扉が閉まったことを知って顔を上げた。 「はあ......」 こぼれたため息は誰の耳にも届くことなく薄暗い玄関で消えた。 |