「あれ? 物件見てんのか」

背後から聞こえた声に反射的に肩が跳ねた。慌てて振り返れば、私を通り越してパソコン画面を眺める警部補の姿がある。
あまり見られたくないと思っていたので、少し返事に困るが隠しても隠しきれるもんでもないので素直に「はい」とだけ答える。

「なんだ、もう引っ越すのか」
「早くないか。3年はいけるんじゃなかったか」

あまり大きいとは言えない部屋の中、机もそう離れて配置されているわけではないので自然と私と警部補の会話が聞こえてしまったらしい。 書類仕事という現実から目を反らしたい人たちが会話へと入り込んでくる。
こうなってしまうともう逃げようはないので、誤魔化す他ない。

「そうですけど......用心して早めに探しておこうかと...」

途端に流れる不思議な空気に、間違いなく追及される気配を感じ取って先手を打つ。

「誰も荷物も預かってくれないって言うし!!」

こういうときには責任転嫁だ!!
罪悪感を植え付けて黙らせる!!

「荷物を預けられる場所もないですし!!」
「トランクルームとか借りればいいんじゃ」
「嫌です!!」

無駄にはっきりきっぱり、いつになく拒否する言葉を口にすることができたと思う。
自分でもノーと言えない日本人の典型であることがわかっているので、この反応はみんなにも意外だったらしく、黙らせることに成功した。

「......まあ、急に出ていくことになって適当に部屋を決めるよりいいかもな」

背後からの同意の言葉に意を得たとばかりに振り返ってかくかくと何度も頭を縦に振る。
やっぱり警部補!! さすが警部補!!! という気持ちを込め称賛の瞳で見つめるものの、警部補は眉根を寄せてどこか嫌そうな顔をしているように見える。気のせいからもしれないけど......いや、気のせいだと思うけど。
そこで私の物件探しについての会話は終わり、またほかの話へと変わっていくことにホッとした。
まさか「隣人とちょっと気まずいので引っ越したいと思っていて......」なんて言えない。
スティーブンさんとは気まずい別れをしてから話をすることも、顔を合わせることもない。
私は避けているけど、たぶんスティーブンさんも私を避けている。
二人とも会わないように気を付けているので、隣人とは言え今のところ顔を合わせることもない。とは言え、その状態がずっと続くわけはないので引っ越しを考えて動き始めたのだ。
きっと終わったのだと思う。
名前を付けることができない関係だったのが、あの日“ただの隣人”という名前を付けることができるようになった。
それ以上でも以下でもない。いわば他人になった。いや、元から他人だった。それが決定的になっただけだ。
それを寂しいと感じるのは今だけだろう。
何度目になるかわからない自分を慰める言葉を胸中で呟いてから私は物件探しを切り上げて机の上に置いていた書類を取り出した。
.
.
.
館内にスピーカーから響いた声が合図になり、全員が慌ただしく外に出る準備を始めた。
私も例に漏れず必要最低限の準備を済ませる。ホルスターに意味がないかもしれないが拳銃を押し込む。

「行くぞ」

すでに準備を終えていたらしい警部補に続いて署を出て車へと駆け込む。
それなりに運転には自信がでてきたけれど警部補ほどのテクニックを持っているわけではないので大人しく助手席へと滑り込んだ。 シートベルトをつける前に早くも車は発信した。サイレンを車上へと設置すれば、音が響いてみんな道を開けるもの。という常識はここ――HLではまかり通らないこともあるので、こういうときには警部補のドライブテクニックがものをいう。
車のスピーカーから指示を受けた場所へと迷いなく走る車の中の揺れはすごい。体幹を鍛えておけば......と、これからの展開を思って現実逃避するように考えてみる。

「もう現場には着いてますよね」
「何人かはいるだろうな」

その何人かはいまだに居るかどうかわからない。
それについてはお互い何も言わなかった。

「......いっ!!!!」

一応避けようとはしているのだろうけどとてつもなく足が遅いらしい歩行者を避けるためにハンドルを切った車は激しく道から逸れ、私はしたたかに頭を打った。

「ちゃんと捕まってろよ。ケガするぞ。」

それを合図にぐっとアクセルを踏まれた車が速度を上げ、背中を座席に叩きつけられたのを機に、舌を噛む可能性を考えて口を閉じた。

そうこうしているうちに到着した現場はパトカーのサイレンが赤く辺りを照らしている。 いつかに見た光景と重なり、デジャビュを覚えた。同時に心臓がばくばくと速度を速め、緊張感に体が強張る。
到着してすぐにすでに現場に居た顔見知りの警官がやってくると現状を説明してくれる。

「例のごとく銃火器は効きません。なんならポリスーツも何体かやられました」
「だろうな」

視線の先には見るからに只者ではない男が立っている。 前情報にあった血界の眷属に間違いはないようで、いくら警官に囲まれていてもその顔には余裕がある。自分がやられるとは微塵も思っていない頂点に立つものの表情だ。 それに悔しさを覚えるものの、私たちにできることは時間稼ぎ以外には何もない。
血界の眷属と渡り合える――ライブラの到着を待っているしかできないのだ。
脳裏に浮かんだ隣人の姿に少し心がざわめいた。
この間まで入院するほどの怪我を負っていたのに......彼らに頼るしかできない自分に不甲斐なさを感じる。正義の味方だのなんだの言っていても血界の眷属相手では私たちも一般人となんら変わりがない。

「ぞろぞろと人が集まってどうする。死体が増えるだけだぞ」

響いた男の声は不思議と周りの喧騒にかき消されることもなく、耳に直接入り込んでくるようだった。
あきらかに人間に負けるわけがないという絶対的な奢りが見える。だけどその言葉に反論できる人はここには一人もいない。
歯がみするしかない状況に、心が折れないように気を張るしかない。

「避難状況はどうだ」
「あらかたは済んでます」

こういう場合の最優先事項は現地の人たちの避難だということはもう何度も教えられているので、その教えを心得ていてる人たちによってここら一帯の人たちの避難を終わっているようだ。
警部補はそれだけを確認し、未だ余裕の笑みを浮かべる男へと視線を投げる。
どうやら攻撃してくる様子がないことだけが救いだ。

ただただライブラの到着を待っている状況――膠着状態と言っていてもいい。
車を盾代わりに身を屈め、全員が男の一挙手一投足に神経を集中しているところで視界に何かがちらついたのを見つけた。
反射的に視線をそちらに向けてみると、車が円を作っているそこから少し離れた歩道の上に小さな姿を見つけた。

「あ、」

見つけたのは小さな子供のようだった。
ぱっと見で小さな姿に子供だと判断しただけで、本当に子どもかはわからない。種族が違えば成長した姿も異なることはここHLで暮らしているとよくわかる。

「ちょっと行ってきます」

隣にいた同僚に声をかけてから離れたところにいるその子を避難させるため、できるだけ悪目立ちしないよう体を低くしながら歩を進めた。

「ここにいると危ないよ」

近づくにつれ、自分の判断に間違いがなかったことがわかった。
子供のように見えたその子は子供で間違いないようだった。声をかければまん丸の白目がない真っ黒な目がこちらを見返してくる。 なぜ声をかけられたのかわかっていない様子にできるだけ怖がらせることが無いように顔には笑みを浮かべた。

「あっちに...お母さんのところに行こうか」

背中を軽く押してここから離れた場所へと誘導すると、きょとんとした目がこちらを見返してくる。

「逃げろ!!!!」

鋭く緊張を孕んだ声に視線をそちらへと向ければ、先ほどまで遠いところにいたはずの男が笑みを浮かべて隣に立っていた。
近すぎる男に目を剥くと同時に、心臓が委縮するようにぎゅっと縮まり身が竦んだ。条件反射の怯えだった。
まさに蛇に睨まれた蛙というのはこういうことを言うのかもしれない。
私が怯えているのに比例して男の機嫌は上昇しているのがわかった。

「その子供を放って逃げれば助かるかもしれないぞ」

そっと囁くように吹き込まれた言葉に、そういえば子供がいたのだとハッとした。
視線を反らせば即殺されるかもしれないという危機感から、男を見ながら両手を子供の肩に乗せた。
どうすればいい。この子を先に逃がす? だけどそうしたら標的にされるかもしれない。
私が先に逃げて気を引く? そうしたら置いていったこの子が殺されるかもしれない。
目まぐるしく頭は働いているというのに妙案が浮かぶことはなかった。どれもこれも最悪の結末しか考えることができず、結局その場から一歩も動くことができない。
どうすれば、どうすればいい
ただぐるぐると答えを出すこともできずに考えこむも、じわりと嫌な汗が背中に浮いてくるのを感じる。
男はどうすることもできない私を面白そうに眺めている。
ぴんと張り張り詰めた空気は一歩でも動けば爆発しそうな緊張感を孕んでいてつばを飲み込むのさえ躊躇う。 どれだけの時間そうしていたのかわからない。
唐突に張り詰めた空気を切り裂く音が響いた。
耳をつんざくような音は銃だと判断すると同時に、今まで目の前にいた男が一瞬で消えた。

「今だっ!!!!」

その声が合図になり、私は腰をかがめて子供を抱き上げた。
火事場の馬鹿力なのか、この子が軽かったからなのか、重さに足を取られることもなく腰に腕を回して全速力で走った。
はぁはぁと犬のように荒い息が大音量で聞こえるバックでは、パンッパンッと破裂音がいくつも重なって響いている。 その音から一刻も早く遠ざからなくてはいけない...! そう思えば思うほど足が思うように進まない。

「その子供を見捨てれば助かったかもしれないな」

耳に直接吹き込まれた笑いを含んだ声にハッとしたのも束の間、気づけば下腹部に鈍い痛みを覚えた。
反射的に俯いてみれば何かが左下腹部に刺さっていた。それを確認した瞬間、鈍かったはずの痛みが鋭くなっていくのを感じた。 刺さっていたそれがどうやら背後から皮膚と肉を破り貫通した指だとわかったときには足が崩れた。
赤い血に塗れた手が引き抜かれれば支えを失って体が前へと倒れこむ。
抱えていた子供と一緒になって地面へと伏しそうになり、寸でのところで手を放した。

「ごめん。走って...」

転ぶことなく地面へと無事に着地できたその子に一言謝り、逃げるように言った。
喉がひりついて思うように声が出なくて聞き取りづらい声であったものの、ちゃんと聴きとってくれたようだ。その子がこくんと頷いて走っていくのを見つめた。聞き分けのいい子でよかった。
男は追いかけるでもなくそこに立ったままだったことに安堵して頬を地面とくっつけた。
砂利と埃でお世辞にもきれいとはいえないけどそんなもの気にならなかった。
どうやら標的は最初からあの子ではなく私だったようだ。
地面に倒れこんだまま焼け付くように熱いそこを左手で抑えると濡れた感触を手の平に感じた。
HLに赴任してからいつか来るかもしれない、とぼんやり考えていた未来が今やってきたようだ。
もう立ち上がる気力はなかった。そのまま意識が薄れていくのに抗う気もない。
これからとどめを刺されるのなら意識がないほうがいいに決まってる。
誰かに名前を呼ばれたような気がしたけど、もう確認することもできずそのまま意識を手放した。






(20181209)