目が覚めて一番に見えたのは白い天井だった。
明らかに見慣れた天井ではないことに頭が混乱して、何があったのか思い出そうと頭を働かせようとしたものの、痛みのあまりそれを中断せざるを得なかった。
左下腹部が熱と共に痛みを放っていることから、自分の身に何が起きたのか思い出した。起き上がろうとしたものの、あまりにもの痛みにそれは無理だった。反射的に「いっ」と口にしたと思ったのに、声は出ずに代わりにシューシューとどこかで聞いたような空気音がしただけだった。手を動かしてみると、口には呼吸器マスクと思われるものに覆われていることがわかった。そして腕には管がつけられている。
どうやら私は終わらなかったらしい。
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っ」

目が覚めて見えたのは天井ではなく、見慣れた顔だった。反射的に上半身を起こそうと体に力を入れたものの、痛みに呻いて失敗に終わった。

「礼儀だなんだいうつもりはないから寝とけ」

怒っているような呆れたような表情の警部補に思わず笑ってしまった。確かに警部補がそんなことを言っているイメージはない。あまり優しいとは言えない言葉だが、その裏には優しさしかないのを知っているのでそれがおかしかった。いつも通りの警部補の隣には同僚が目に涙をいっぱい浮かべていた。私のために泣いてくれるとは思っていなかったので少し好感度が上がった。大きな体をした男が顔をくちゃくちゃにしている様子は悪いけれど面白かった。少し笑ってしまうと、決壊した涙が頬の上を転がり落ちた。

「よかった」

ぽつんと落とされた警部補の呟きが印象的だった。


次に目が覚めた時には警部補たちの姿はなかった。
どれくらいの時間が経ったのか探ろうと視線を動かしたが、窓の外には警部補たちが居た時とそう変わりないように見える風景が広がっている。結局どれだけの時間が経っているのかわからないまま、まどろみに身を預けることにした。


そんなことを何度か繰り返していると呼吸器マスクを外してもらえた。そうなると重症人感から脱却できた感じがする。
誰かが(きっと警部補だろう)届けてくれたらしいいつも持ち歩いている鞄の中から携帯を取り出せばとっくに充電が切れていたらしく、電源を入れてもうんともすんとも言わなかった。一緒に鞄に突っ込んでいた充電器をコンセントに繋いで電源を入れれば、待ち構えていたように次々と通知が画面いっぱいに現れる。それらを一つ一つ確認するのも面倒で、指で払いのけた。そうすると見慣れた実家の犬が笑っている写真が見えた。そうするとあのふわふわした体と臭いのに癖になるあの匂いを思い出し、猛烈に会いたくなった。
退院したら一度会いに行こう、そう決意してまた目を閉じた。


まどろんでいたところでノックの音がしたと思うと、それに応答する間もなく扉は開かれた。
そうして焦りと不安、驚きなどのいろいろな感情を混ぜた表情のスティーブンさんと目が合った。思ってもいない人の登場に私の口はぱかっと開いたものの、何か言葉を口にすることはできなかった。スティーブンさんは躊躇するように一度足を止めたものの、そのまま何を言うでもなく病室へと入ってきた。
ドアが開きっぱなしだったのでそちらを見ていると、勝手に閉じる仕様だったようでゆっくりスライドして扉は閉まった。それを確認してからスティーブンさんへと視線を移す。私が寝ているベッドの傍らに立ち、肺の中から全て空気を吐き出すようなため息をついた。心なしか疲れた顔をしていてくたびれたように見える。くたびれて見えるのにそれが不思議な色気を醸し出している。疲れてる様までかっこいいなんて羨ましいとしか言いようがない。上半身を起き上がらせようとしたが「そのままで」と言ってもらえたのでお言葉に甘えてそのままの体勢でいさせてもらうことにした。
ベッド横に置いてある椅子を勧めれば、素直にそこに腰かけたスティーブンさんは太腿の上に両肘をつき、前屈みの姿勢になった。近くで見ると目の下にはクマがあり、頬も心なしこけて痩せているように見える。外の空気と一緒に懐かしい匂いがして少し鼻から息を吸い込んだ。

「君、三日も目を覚まさなかったそうじゃないか」
「らしいですね」

少しの沈黙を破ったのはスティーブンさんだった。
だけど返事はふわふわしたものしかできなかった。

「他人事みたいだ」

肩をすくめるジェスチャーがこの場合には一番だと思ったけれど、ベッドの上で寝ている状態じゃかっこがつかないのでやめておいた。何より布団で体が隠れているので意味がない。

「どうして私がここにいるってわかったんですか?」

一番に思った疑問を口にすると、スティーブンさんはその質問が気に入らなかったように眉間に皺を寄せた。むっとしたように見える表情に、なんでかわからないけど気に障る質問だったらしいとわかったが何故なのかまではわからない。
私とスティーブンさんは文字通り隣人という関係なので、他に関りがない。
警察とライブラは関りがあるようでない。

「ロウ警部補に聞いた」
「警部補にっ?!」

想像さえしていなかった人の名前に、定規を体に入れられたみたいに背筋がピンっと真っ直ぐになった。その衝撃が傷に痛んで呻くが、それよりも何よりも警部補にスティーブンさんとの関係が知られてしまったのかと思うと気が気じゃなくてすぐさまスティーブンさんに続けて疑問をぶつけた。

「どうして?!」

私が興奮しているという状況に片眉を上げたスティーブンさんは何やら納得いかないような顔をしている。けれどこっちとしては警部補に秘密にしていたことがばれたんじゃないかと思うと血の気が引いていくのを感じた。それだというのにスティーブンさんは「また話すよ」とこの話を終わらせた。それ以上は何も答えないというように、視線で訴えてもきれいに無視されてしまった。
警察とライブラに関りはない、なんて考えた数秒前の自分の頬を殴ってやりたい。例外があるってことを私は知っていたのに思いつきもしなかった。
いつか「あれはやめとけ」とスティーブンさんを評していた、そして当たりの強いことからも警部補はあまりスティーブンさんのことが好きじゃない。そんなスティーブンさんと部下が秘密でお隣さん同士になっていた。疚しくてそれらのことを伝えなかったのかと警部補は見抜いてしまうかもしれない......ようやくそれなりに認めてもらえたというのに......!
頭の中に不機嫌そうに眉根を寄せてタバコを咥えている警部補が浮かび怯えていると、何かかさついたものが耳へと触れた。視線をそちらに向ければスティーブンさんがこちらに手を伸ばしているところだった。かさついたそれが手だと理解できれば、髪を耳へとかけられているのだと状況を判断することができる。途端に私の頭の中にいた警部補が消えて、目の前のスティーブンさんに意識が持っていかれる。満足そうに口角を小さく上げているのを見て、何かがふつふつと胸の中に込み上げてきた。

「スティーブンさん」
「なんだい」

手が離れていったのが名残惜しいと感じてしまう。そのことがとてもいけないことのように思えた。小さく息を吸い込んで、スティーブンさんの独特な色合いの瞳を見つめた。

「私、スティーブンさんが好きです」
「......はぁ?」

鳩が豆鉄砲を食らうってこういうときに使うのかもしれない。スティーブンさんは流石日本人じゃないというか、口と目を開いて大きなリアクションを返してくれた。そのことが少し私の気分を上昇させた。あまり見ない表情を引き出すことができたのだと思うと、何だか嬉しい。そうして口にしたのはこの入院している間に考えていたことだ。

「お腹を撃たれたとき、あぁもう私死んじゃうのかな、って思ったんです」

一度言葉を区切って反応を伺えば、頷いて続きを促されたので続けることにした。

「そうしたら噂に聞く走馬灯ってやつを見たんです。それと遣り残したことなんかも思いだした。冷蔵庫に入れておいたプリン食べておけばよかった、とかいう小さいことから、きっと私が死んだら父も母も私がHLで警察官をやることにもっと反対すればよかったと思うんだろうな、申し訳ないなとか。警部補にお礼いってないな、とか。実家のタロ...あ、犬なんですけどね。タロに会いに行けばよかったなとか。他にもスティーブンさんに好きだって言えばよかったな、って。」

もうだめかもしれないと考えたときに浮かんだのはいろんな思い出ややり残したことだ。その中でも一際心に引っかかったのは終わりがあんな場面だったからかもしれない。終わりとするには不完全燃焼でもやもやした気持ちが残る。ドラマがあれで終わりだったら最低の評価を受け、視聴者からテレビ局へとクレームが来るかもしれない。そんな終わりで最後にするわけにはいかなかった。
所謂心残りというやつの中の一つを達成することができた私は達成感と共に高揚感を覚えた。
退院したらこの心残りを片付けようと考えていた。けれど、私は意気地なしなのできっと怖気づいてしまってこうしてスティーブンさんに好きだなんて告げることができなかったと思う。自分のことはよくわかっている。きっと一生心残りになりそうなのにあと少しの勇気が出ないのだ。そう考えるとこうして痛み止めで意識がはっきりしていないほうが素直に自分の思っていることを口にすることができてちょうどいい。

「......そう思ったんですよね」

言いたいことは言えたものの、最後にどう締めくくるかまでは考えていなかった。流れる微妙な雰囲気にそれだけ口にして、ふぅ、と細く息を逃がした。

「やめてくれ」

小さく囁くようなスティーブンさんの声を聞き、息をつめた。相変わらず前屈みの姿勢で顔は俯いていて見えないが何だか怯えているように見えてしまう。
シンと静まる部屋の中に空調の音だけが聞こえる。痛み止めが効いているはずなのに、不思議と胸が痛んだ。
だけど何も言うことができないまま死ぬと諦めていたので、やっぱり少しすっきりしている。完全に自己満足でしかないけれど告白なんてそんなものかもしれない。スティーブンさんには死にかけたということを免罪符に付き合ってもらうしかない。

「...まるで死に際のセリフみたいじゃないか」
「勝手に殺さないでくださいよ」

顔を上げたスティーブンさんは弱り切ったような顔をしていているのに、人のことを勝手に殺そうとしていて笑えた。

「この通り、私ぴんぴんしてますし」
「そんなにも説得力の無い言葉もない」

冗談のつもりだったのにスティーブンさんは相変わらず弱ったような疲れ切った表情をしていただけでクスリともしてくれなかった。笑ってもらえないほど寒い冗談は気まずさしか残さない。

「っていうか死にそうな人に対してひどくないですか」
言いたかったことを伝えることができた達成感からか急に猛烈な眠気に襲われた。瞼が少しずつ下がって来るのに抗えそうにない。眠ってしまいそうなときには太ももに血を巡らせると目が覚めるらしいという情報をテレビで見たのでそれを伝えれば、署では眠気に襲われたときにはスクワットをするという決まりができたのだけど、(いらんこと言うな!とクレームを入れられたけど)それを今実行すれば塞がりかけている傷が間違いなく開いてしまうことになる。
抗議の意味を込めた言葉は少し舌が回っていないように舌足らずな音になってしまった。
「やめてくれとか...」口の中でもごもごと喋ったせいでほとんど聞き取れなかったかもしれない。

「眠るといい」

抗いがたい睡魔に襲われていることを察してくれたらしい。せっかく来てくれたのに寝るなんて失礼だと思っていたので、そう言ってもらえると少し安心する。ゆっくり息を吐くと体の力が抜ける。眠りに落ちる寸前の感覚に抗う気もなく、そのまま身を委ねる。

「おやすみ」

囁くように耳に届いた声はどこまでも優しかった。薄く開いた視線の先ではスティーブンさんがこちらを覗き込んでいる。布団を肩までかけてくれているのがわかった。柔らかな重みに包まれれば、もう寝る準備は万端だと体は判断したようにより強い睡魔に襲われる。

「おやすみなさい......」

ほとんど唇は動かなかったので思ったように声が出なかった。
もう睡魔に抗えないと思った時におでこに柔らかいものが押し当てられたのを感じた。瞼が閉じる寸前に見えたスティーブンさんは微笑んでいるように見えた。その顔を見て私は生きていてよかったと心から思った。






(20181230)