朝ご飯は抜いてもいいか、と思ったがこのままずるずると自堕落な生活をしてしまいそうな気配を感じ、重い体を起こしてホテルのラウンジで軽く食べることにした。
 大きな仕事を片付けた後はどうにも何もかもが面倒に思えて投げやりになってしまう。 仕事に拘束されている間は、解放された後の予定を次々と頭に浮かべてその日が来るのを今か今かと待っていたというのに、 それらをいざ実行できる状況になると途端に面倒になってしまうのだ。

 一人での食事は周りの客の様子を眺めるか、考えに耽るくらいしかすることがない。
 表面が飴色につやつやと光るクロワッサンを一口大にちぎって口へと放り込みながら、私は知らず知らず考えに耽ることを選択していた。
 まだ寝ぼけ気味の頭でぼんやりと昨日のことを思い返した。
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「昨日帰って来ていたのならどこに泊まったんだ。ホテルか?」
「ううん、昨日は事務所で」
「......なんだって? それならうちに来ればよかっただろう」

 アジトというのはいかにもな言葉に思えて”事務所”と言っているが、私以外には誰も使ってくれないので未だに浸透していない。 それをすぐさまブチャラティがわかってくれるのは、私がすでに何度も使っているからだ。
 眉を少し釣り上げたブチャラティに咄嗟に視線を反らした。

「いやぁ、だって夜も遅かったって言ったでしょ?悪いなぁ...って......」
「そんなこと気にするわけがないだろう。夜中だろうが何時だろうと訪ねてこい」
「はぁい」

 茶化した私の返事が気にいらなかったらしい。嗜めるような視線には気づかないふりをして、酔っぱらいらしい男へと意識を向けた。
相当酒をのんだのか、足取りも危うげだが連れがいるので心配することもないだろう。 どういう関係かまではわからないが、連れのほうは酔っぱらっている男を持て余しているようだ。
 興味もないくせに、その酔っぱらいたちが大丈夫だろうか、という会話を投げかけ、話を無理やり打ち切った。
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 ブチャラティの家に泊めてもらう。その選択肢は一番に浮かんだ。 だけどぐずぐずと”行かないほうがいいんじゃないか”という理由をあれこれ考えてしまったのだ。
そもそも半年以上家を空ける理由が頭にこびりついて足が動かなかった。
だけど当の本人であるブチャラティはと言えば、半年以上の余白を感じさせないほどいつも通りなのだ。
これはもう忘れていると考えてよさそうだ。
それとも私の勘違いだったのかもしれない。
 そうして昨日の私は暢気で都合のいい結論を導きだしたのだ。
 その結論は一晩経った今も変わりがない。むしろ考えれば考えるほどその結論に間違いはないと思えてくる。
 皿の上が空っぽになるころには、ここに帰ってくる前に抱えていた不安はなくなっていた。
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「今どこだ?」

 耳に届いた声はいつもよりもくぐもって聞こえた。
携帯は便利だけどそのままの声を運んでくれるわけではない。

「家で掃除中。どうしたの」

 嫌々ホテルを撤退して向かったのは半年以上ぶりの我が家だ。
 古いアパートの一室だが、お気に入りの部屋でもう長い間ここに住んでいる。
留守にしていたものの、きちんと家賃は振り込んでいたので変わらずに私を出迎えてくれた。変わらず、というのは大きな意味でだ。正確には住んでいたときにはなかった埃と共に出迎えられた。お気に入りのソファも埃っぽいし、ベッドの上に床も同じく。大きく息を吸い込むのは遠慮したい部屋へと変貌していた。
一つありがたかったのは動物の気配は感じられなかったことだ。
 そういうことで今は以前の部屋を目指して掃除をしている真っ只中だった。
口と鼻を覆うために顔にはハンカチを巻き、手には手袋をはめて雑巾代わりの真っ黒になった古いタオルを床へと放り投げた。
 聞き取りにくいかもしれないと思い、口を覆っていたハンカチを下にずらしながら窓際へと移動する。二階という立地のため、目の前の細い路地の様子はよく見える。お昼を過ぎ、天気も良いからみんなシエスタ中なのか人影は見えない。

「本当に掃除しているのか、感心だな」
「なにそれ! するに決まってるじゃん!」

 電話口のブチャラティは昨夜からのご機嫌がまだ続いているらしい。からかうように笑いを含んだ声につい本気のトーンで返してしまったのは、 今朝の自分の行動が危うかったからだ。掃除せずにこのままホテルでもう一泊しようか、と甘い誘惑に囁かれたのはもう何度かわからないし、 何度ホテルの寝心地が良いベッドに逆戻りしたかわからない。
 だが弟分にそれらの種明かしをするつもりはない。これ以上、年上としての威厳を失くすわけにはいかない。 それでなくてもどことなく最近ブチャラティの私への扱いが年下を相手にしているようなのだから。

「それでどうしたの」
「手伝いは必要ないか?」
「え? 忙しいんじゃないの?」
「時間が空いたから電話してみたんだ。もし掃除しているようなら人手が入りようかと思ってな」
「......そりゃあ手伝ってもらえるなら...」

 声が小さくなってしまったのは、こういう現状を作ったのは自分で間違いないからだ。 その後片付けをブチャラティに手伝ってもらうというのも引け目を感じる。
 だが、ブチャラティはそんなことを気にする様子もない。

「なら決まりだ。今から向かう」
「マジか、ありがとう」
「マジだ。何か必要なものはないか?」
「あっ、なにか飲み物買ってきてほしい」

 冷蔵庫の中はほとんど何もなかった。 ブチャラティが整理をしてくれていたおかげで腐ってでろでろになった何かだった物の掃除をすることもなかったが、 飲み物だって一つも入っていないことに気づいたのは休憩がてら水分補給をしようとしたときだった。
 そういえば何もなかったんだ、と肩を落としながらも面倒で買い物に行く気にもなれず掃除を続行していた。
ブチャラティの申し出はとてもありがたい。

「わかった。じゃあまた後で」
「はーい」

 通話を切ってからソファに携帯を放り投げようとして、そういえばまだそこは掃除していなかったかと思い至り、お尻のポケットにしまうことにした。
とりあえず休憩をするにしてもソファはきれいにしておいたほうがいいかと思いなおし、 床掃除を途中だが放り出して取り掛かることにした。






(20200307)